幕間九:鉄の掟、米の理
帝国十字軍との激戦が繰り広げられる、遥か以前。小田原がまだこの世界に来て黎明期にあった頃の話である。
ザルグは与えられた巨大な木椀にうず高く盛られた白米をただ凝視していた 。 湯気の向こうで米の一粒一粒が真珠のように艶やかに輝いている 。その上には厚く切られた牙猪の塩漬けが一切れ乗せられていた 。
ここは小田原城の北、まだ外郭さえ完成していなかった頃、新しい城壁を築くための石切り場 。 ザルグは鉄牙部族の元戦士 。先の戦で捕虜となり、そして自らの意思でこの地に残ることを選んだオークの一人であった 。
彼の周りでは同じように日の差す岩陰に腰を下ろし、人間やドワーフ、そして同族のオークたちが同じ椀を無言で、しかし凄まじい勢いでかき込んでいる 。
(……おかしい) ザルグは内心で何度目とも知れぬその言葉を繰り返した 。この『オダワラ』という場所に来て間もない頃は、全てが狂って見えた。
鉄牙部族の掟はただ一つ。「強者が全てを得る」 。 獲物は族長と強い戦士たちがまず腹を満たし、その残飯を女子供や弱い者たちが奪い合う 。それがザルグが知る世界の唯一の理であった 。
だがこの「オダワラ」という場所は全てが違った 。 ここでは朝から日没までつるはしを振るい石を運んだ者すべてに、等しくこの極上の飯が与えられるのだ 。 力の強いオークも非力な人間も頑固なドワーフも関係ない 。働いた者、その全員が腹を満たすことを許される 。 意味がわからなかった 。なぜ強者が弱者に情けをかけるのか 。なぜ奪わないのか 。
(……罠だ。これは俺たちを油断させるための人間の狡猾な罠に違いない) そう自分に言い聞かせながらもザルグの体は正直であった 。一口、また一口とその魂が満たされるような温かい米を口へと運ぶのをやめられない 。
その昼餉の時間が終わろうとした時であった 。 ガガガッ、という不吉な音と共に彼らが切り出していた巨大な岩壁の一部が予兆もなく崩落した 。
「うわあああっ!」 悲鳴と土煙 。
数名の作業員が辛うじてその場から逃げ出す 。だが一人のまだ若い人間の足軽が逃げ遅れ、その右足を巨大な岩の下敷きにされてしまった 。
「ぐ……ああ……っ!」
足軽の苦痛に満ちた声が静まり返った石切り場に響く 。 ザルグはその光景を冷たい目で見つめていた 。
(……終わりだな。弱い者は死ぬ。それが掟だ)
彼はそう判断し再び自らの仕事場へと戻ろうとした 。
だが次の瞬間ザルグは自らの目を疑った 。 現場を監督していたのは、先のオークとの戦で片腕を失い、まだ義手の扱いに慣れていない様子の初老の侍――赤井久綱であった 。彼が真っ先にその足軽の元へと駆け寄っていたのだ 。
「うろたえるな! 小僧、意識をしっかり持て!」 久綱は叫んだ 。
「ドワーフの者! そちらにある一番頑丈な丸太を持ってこい! 他の者どもはつるはしで岩の周りを掘り起こせ! 急げ!」
その号令一下、人間もドワーフもザルグの同胞であるはずのオークたちまでもが一斉に、その絶望的な救出作業を開始した 。 ザルグにはその光景が全く理解できなかった 。
なぜだ 。 なぜたった一人の、もはや戦力にもならぬであろう弱者を救うためにこれほど多くの者が自らの労力を、危険を顧みないのか 。 非効率。非合理的。鉄の掟に反する行為 。
彼は思わず近くで岩を掘っていた別のオークに問いかけた 。
「おい。なぜ助ける。奴はもう終わりだ」
その問いにオークはつるはしを振るう手を止めず、ただぶっきらぼうに答えた 。
「……知るか。だがな、ここではそうするのが『仕事』らしい。そして仕事をすれば腹一杯米が食える。……それだけだ」
やがて数十分後 。
岩は取り除かれ、足軽は足の骨を砕く重傷を負いながらも一命をとりとめた 。彼はすぐに医療院へと運ばれていく 。
その日の作業が終わり 。 ザルグは一人久綱の元へと歩み寄った 。 そしてこれまでの人生で感じたことのない純粋な「疑問」を、その武骨な言葉でぶつけた 。
「……なぜだ。なぜあの弱い人間を助けた。お前たちのやっていることは全てが意味不明だ」
久綱はザルグの顔をじっと見つめ返した 。そして自らの鋼鉄の義手をカチャリと鳴らして言った 。
「……お前が今立っておるその城壁。それは一つの巨大な石だけでできているか?」
「……違う。無数の石だ」
「そうだ」と久綱は頷いた 。
「城壁は無数の石が互いを支え合って初めて難攻不落の壁となる。もし一つの石が欠け、一つの石が砕ければそこから壁は崩れ始める。……人も国も同じことよ」
「ここでは誰もが壁を支える一つの石だ。強い石も弱い石も大きな石も小さな石もその全てに役目がある。だから我らは一つの石も見捨てん。……それがこの『オダワラ』の理よ」
ザルグの巨大な脳髄にそのあまりに単純で、しかし力強い言葉が雷のように突き刺さった 。
強者が弱者を守るのではない 。 全ての者が互いを支え合い一つのより大きな力となる 。 なんと恐ろしく、なんと強靭な「掟」であろうか 。
彼は初めて理解した 。 北条の本当の強さの源泉を 。 それは武器でも魔法でもない 。この一人も見捨てぬという冷徹なまでの「合理性」そのものであったのだ 。
翌日 。 石切り場で一人の小柄な人間が重い石材を運ぶのに苦労していた 。 それを見たザルグは何も言わなかった 。 ただその隣に歩み寄ると荷の大半を自らの鋼のような両肩に担ぎ上げた 。
驚く人間の顔 。 ザルグはそれにぶっきらぼうに、ただぐっと喉を鳴らして応えた だが、彼の心の中にはこれまでに感じたことのない新しい感情が確かに芽生えていた 。
それは戦場で敵を叩き潰す戦士の誇りではない 。 一つの巨大な壁を仲間と共に築き上げる、職人の静かな、確かな満足感 。
彼がこの国を支える『石』としての一歩を踏み出した瞬間だったのかもしれない。
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