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第六十話:天下静謐

 北条幻庵がもたらした、星そのものが抱える不治の病――『大災害』の再来。 そのあまりにも巨大で抗いようのない絶望的な診断結果を前に、北条氏康の執務室は重い沈黙が満ちていた。 蝋燭の炎がぱちりと一度だけ音を立てた。その響きが室内に大きく広がった。


「……面白い」

 氏康は床に広げられた絶望の地図から夜の闇に覆われた窓の外へと視線を移し、心の底から湧き上がるような静かな笑みと共に呟いた。


「天が、星が我らを喰らうという。ならば、その理ごと覆してくれるわ」

 声に悲壮感はない。絶望の色も見えぬ。 代わりにあったのは、自らの想像を遥かに超える巨大で理不尽な敵を前にした武人の静かな高揚がそこにあった。


 幻庵は目の前の主君の底知れぬ器量に改めて畏敬の念を抱いた。 だが彼らがその新たな、究極の敵とどう向き合うべきか、答えを探る間もなく。 執務室の扉が激しく叩かれた。


「申し上げます! 風魔小太郎殿、並びに南よりご帰還の板部岡江雪斎様が至急の謁見をと!」

 許可を得て二つの影が室内に滑り込んできた。 一人は闇が人の形をとったかのような風魔小太郎。 もう一人は南方の陽に焼かれ潮の香りを纏う板部岡江雪斎。 二人は示し合わせたかのように同時に氏康の前に跪いた。もたらされた報告は奇しくも同じ内容を指し示していた。


「殿。我が配下が帝国各地で掴んだ情報にございます」

  小太郎が低い声で報告を始める。


  「帝国が異端殲滅を名目に過去最大規模の十字軍の『動員の兆候』を見せ始めました。各地で徴兵と物資の徴発が密かに、だが確実に始まっております」

 続いて江雪斎がその報告を裏付ける。


  「はっ。わたくしが自由都市同盟の諜報ギルド『水銀』から得た情報も同様に示しております。動員規模はおよそ三十万。その矛先は疑いなく我らが小田原へ」


 幻庵がもたらした天からの脅威。 そして小太郎と江雪斎がもたらした地上からの脅威。 二つの巨大な嵐が今、この小田原へ同時に迫っている。その絶望的な事実が冷たい鉄槌のように、その場にいる者たちの魂を打った。


 ◇


 数日後。小田原城、本丸御殿の大広間 。 そこには新生・北条領が誇る全ての力が集結していた 。


 玉座に座す北条氏康 。左右を固めるのは幻庵と次代を担う氏政 。 一段下には武の双璧が控える 。守りの名将、遠山綱景 。武者修行の旅より帰還しその身に神気すら宿した北条綱成 。 下座にはこの世界の新たな同盟者たちが顔を揃える 。


  友と故国の板挟びとなり顔に深い苦悩を刻むドワーフ革新派ギルドマスター、ドルグリム・ストーンハンマー 。


 森の民を代表し鋼の意志を瞳に宿すエルウィンとリシア 。


 オーク傭兵部隊を率いる大族長グルマッシュ 。


 旧レミントン領を治める暫定統治代官としてその身に新たな覚悟を宿したサー・ゲオルグ 。


 そして南の自由都市同盟から全権を委任された使者たち 。


 彼らがそれぞれの思惑と期待、かすかな不安を胸にこの場に集った理由はただ一つ 。


 氏康がもたらした二つの巨大な脅威の前に、この生まれたばかりの連合がいかにして立ち向かうべきか 。 その最初の答えを北条氏康という男に問うためであった 。


 広間を満たすのは重い沈黙 。張り詰めた糸のような緊張感が、燃え盛る篝火の熱気さえも冷たく感じさせた。 その沈黙を破り氏康は静かに、しかしその場の全ての者の魂に直接語りかけるかのような張りのある声で口火を切った 。


  「皆、よう集まってくれた。今、我らの前には二つの嵐が迫っておる」

 彼は玉座から降り立つ 。


 広間の中央に広げられた大陸の軍事地図と、幻庵がもたらしたドワーフ古記録の写しを指し示した 。


「一つは目の前の、帝国の犬どもが放つ三十万の軍勢という名の騒がしい『野火』。そしてもう一つは、この星そのものが我らを喰らわんと喘ぐ抗いようのない『天災』」


 その絶望的な二者択一を前に広間は困惑と反発の怒号に包まれた 。


  「馬鹿馬鹿しい!」

 最初に声を上げたのはドルグリムであった 。その地鳴りのような声が広間を震わせる 。


「ホウジョウ殿! 我が王ならばこう申しましょう! 星が我らに何をするというのだと! 目の前には三十万の軍勢がおるのだぞ! 天井の染みを数えて足元の火事を見過ごすような真似まね、我らドワーフはせん!」


「グヌヌ……」

  オーク族長グルマッシュもまた不満げに巨大な戦斧の柄を床に叩きつけた 。


  「星だか石ころだか知らんが、そんなもので腹は膨れんし敵の首も獲れん! 俺たちが叩き潰すべきは目の前の鉄を着た人間どもだろうが!」

 対照的にエルフのエルウィンは顔面を蒼白にさせかすれた声で氏康に問いかけた 。


「……『天に血の涙が浮かぶ時、森は沈黙する』。我らが古の詩の通りか。……氏康殿、それはもはや戦ではない。世界の終焉そのものではないのか」

 不信、不満、そして諦観 。


  あまりに巨大な二つの脅威を前に、生まれたばかりの連合は一つにまとまるどころか、それぞれの価値観の違いを露呈し空中分解しかけていた 。


 その混沌の中でサー・ゲオルグだけが静かに沈黙を守っていた 。彼は小田原の医療院で、自らの領地で北条の統治の神髄を肌で感じていた 。


 目の前の男がただの狂人でも夢想家でもないことを、この場の誰よりも深く理解していたからだ 。


 その混沌の中心で氏康はただ静かにその光景を見つめていた 。 全ての声が出尽くしたのを見計らい、パンッと一つ柏手を打った 。 乾いた凛とした音一つで広間の全ての雑音が嘘のように静まり返る 。


「――その通りだ、ドルグリム殿!」

  氏康の声が今度はドルグリム一人に真っ直ぐ向けられた 。


「そなたの王の考え、もっともだ。我らはまず足元の火事を全力で消し止めねばならぬ! だがそれはただ生き残るためではない! その先に待つ厳しい冬を越えるための力を、仲間を得るためにこそ、この戦に勝つのだ!」

 次に彼はグルマッシュへと向き直る 。


「グルマッシュ殿! そなたには飽きるほどの敵の首を約束しよう! なぜなら我らはこの大陸の全ての者たちに我らの力をその骨の髄まで思い知らせねばならんからだ! 天に戦を挑むにはまず地上の全てを平定する必要がある!」

 そして最後に彼は絶望に沈むエルウィンに穏やかな、しかし力強い眼差しを向けた 。


  「エルウィン殿。そなたはこれを終焉と言うか。否! わしはこれを始まりと呼ぶ! この星の理不尽な定めに全ての種族が初めて手を取り合い立ち向かう、新たな時代の始まりであると!」

 氏康は彼らのそれぞれの言葉を、その心を受け止めた上で、それを一つのより大きな大義の下へと束ね上げてみせた 。


「日ノ本にもただ力のみを以て天下を治めんとする覇者の道があった。それは民を顧みずただ領土を切り取るだけの帝国の道にも通じよう。なれど我らが道は違う!」

 氏康は天にその拳を突き上げた 。 その姿はもはやただの戦国大名ではない 。 星の運命に戦いを挑む神話の英雄そのものであった 。


「我、北条氏康はここに宣言する! 我らが目指すは天下布武にあらず! 我らが成すべきは――」


「『天下静謐てんかせいひつ』!!」


「武力による支配ではない! 種族を超え国を超え全ての民が手を取り合い、この世界の長き厳しい冬を越えるための揺るぎない安寧を、我らの手でこの地に築き上げる! それこそが我が北条が掲げる『禄寿応穏』の真の姿よ!」

 そのあまりに壮大で揺るぎない信念に満ちた宣言 。 それは広間にいた全ての者たちの心の奥底に眠っていた最後の恐怖を完全に焼き尽くし、代わりに一つの巨大な希望の炎を灯した 。


「……面白い! 実に面白いわい、ホウジョウ・ウジヤス!」

「我らエルフももはや森に閉じこもるだけのか弱き民ではない!」

「ガハハハ! 天と戦うだと!? それこそ真の戦士が求める最高の戦場よ!」


 一人また一人と連合の指導者たちが立ち上がり、氏康が掲げたそのあまりに巨大な旗の下に自らの種族の、国家の運命を賭けることを誓った 。


 その輪の中にサー・ゲオルグも静かに立ち上がっていた 。彼は自らの剣の柄を強く握りしめ、氏康に騎士としての、一人の王としての固い誓いを捧げた 。


 氏康はその光景を静かに見届け、全軍に向けて最後の号令を下した 。


「全軍、最後の準備に取り掛かれ! 我らは人の歴史ではなく、星の歴史を塗り替える!」


 その日、北条家を中心とした連合軍は一つの巨大な意思となった 。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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