第五話:エルフの報せ、ドワーフの知恵
「鋼と酒の盟約」が結ばれた数日後。
小田原城の本丸御殿、大広間は、これまでにない異様な、しかし希望に満ちた緊張感に包まれていた。
上座には、北条氏康、氏政、幻庵、綱成ら北条家の宿老たち。
そして下座には、二人の異世界の客人、エルフのリシアとドワーフのドルグリムが招かれていた。
黄梅院の献身的な看病により、リシアの心身の傷は癒え、その表情には落ち着きが戻っていた。一方のドルグリムは、振る舞われた甘味を頬張りながら、物珍しそうに広間を見回している。
広間の隅では、お抱え絵師である狩野宗繁が、墨と筆を手に、緊張した面持ちでその様子を記録しようと待ち構えていた。
「リシア殿、ドルグリム殿。改めて、我らが問いに力を貸してほしい」
氏康の言葉から、第一回となる「異世界事情吟味」は始まった。
「この度の天地の異変により、我らは己の知る全てを失った。いわば、暗闇の中で生まれたばかりの赤子よ。故に、そなたたちの知恵を借りたい。この見知らぬ天下で、我ら幾万の民が生き抜くために」
氏康は、まずリシアに鋭い視線を向けた。
「リシア殿。先日、そなたを襲っていた、あの豚面の巨人ども。風魔の者たちが持ち帰った骸を検分したが、知性を持つようだ。あれは何という者たちで、どのような習性を持つ?」
最優先の問いは、既に刃を交えた敵についてであった。
リシアは、その名を口にするのも厭わしげに顔をしかめた。
「彼らは、オークです。森を喰らう鉄の牙、鉄牙部族と名乗る者たち。個の武力を尊び、強い者が全てを支配する社会。故に、部族間の争いが絶えず、組織だった動きというものを知りませぬ。しかし、一度、大族長の下に団結すれば、その数は脅威となります」
「オーク……。なるほど」
「先日、この城を襲撃した、空飛ぶ『石吐き』についても、何か知っておるか?」
「はっ。先日、わたくしたちの集落も、あの化け物に襲われました」
リシアは、忌まわしい記憶をたどるように語る。
「我らは、あれを岩翼と呼びます。夜行性で、古い遺跡や断崖を好んで巣とします。縄張り意識が非常に強く、群れで行動することが多いです」
幻庵が、すかさず問いを重ねる。
「ほう、岩翼とな。して、風魔が最初に仕留めた、小屋ほどもある化け猪については?」
「それは、牙猪でしょう。森でも特に力が強く、縄張りに入った者には容赦なく襲い掛かりますが、知能は低いです」
広間に、三つの獣の名が重く響いた。オーク、ガーゴイル、ファングボア――これまでただの「化け物」でしかなかった脅威が、具体的な名と習性を持つ、攻略すべき「敵」へと姿を変えた瞬間であった。綱成は、その名を魂に刻むように固く拳を握りしめ、幻庵は未知の生態系の一端に触れ、その目に探求の光を宿らせる。
家臣たちの顔に浮かんだ確かな手応えを見届けると、氏康は、その視線をより大きなものへと移した。目の前の獣ではない。この世界の、全体像へと。
「では、リシア殿。我らがいるこの森、そしてその外には、いかなる世界が広がっているのか」
リシアは、宗繁が広げた白紙の上に、震える指で簡単な地図を描き始めた。
「ここは、シルヴァナールの森の西端にあたります。わたくしたちエルフが住まう、広大な森です」
「森を抜けた西には、人間の国があります。レミントン辺境伯領。しかし、その地の領主は貪欲で、民に重税を課し、森を無秩序に伐採する、評判の悪い者たちです」
「ほう、人間の国が……」
「そのさらに向こうには?」
「さらに西にはレミントンを支配する、さらに大きな国……アークライト神聖帝国があると聞いております」
リシアは次に、森狼など、他にも注意すべき化け物や、毒を持つ植物の形などを、記憶を頼りに詳しく説明していく。 宗繁の筆が、猛烈な速さで紙の上を走り、未知の動植物の姿を正確に写し取っていった。
最後に、氏康はドルグリムに問いかけた。
「ドルグリム殿。我らは、この地で田畑を耕し、鉄を打って生きていかねばならぬ。この地の山や大地に、利はあるか」
「ふん、それなら、わしに聞くのが一番じゃ」
ドルグリムは、甘味を飲み込むと、尊大に言った。
「この辺りの山々の形、岩肌の色を見るに、鉄鉱石は豊富にあると見た。川筋をよく調べれば、砂鉄も採れるだろう。だが、お主らにとって本当に重要なのは、これだろう?」
彼は、懐から再び青みがかった魔石を取り出した。
「わしらドワーフは、これを『山の魂』と呼ぶ。これは、マナ……そちらの言葉で言う『気』を蓄える性質がある。熱にも光にもなる、便利な石よ」
ドルグリムが、石に何事か呟くと、石はぼうっと辺りを照らすほどの光を放った。
「おお……!」
幻庵が、身を乗り出す。その目は、もはやただの好奇心ではない。未知の真理を前にした、探求者の目であった。
「なんと……。火でも、油でもない。ただの石が、自ら光と熱を放つだと? ドルグリム殿、その石は、燃え尽きることはないのか? 常に、そのように輝き続けると申すか?」
(火でも、油でもない……だと? これが、この世界の理か)
幻庵の脳裏を、無数の知識が駆け巡った。陰陽五行に当てはめるならば、これは純粋な『陽』の気。しかし、その源となる『陰』が見当たらぬ。錬丹術で言うところの『賢者の石』か? いや、違う。これは、もっと……。
彼の探求心は、未知の真理を前に、燃え盛る炉のように熱を帯びていた。
数刻に及んだ聞き取りは、終わりを告げた。
狩野宗繁が、震える手で、描き上げたばかりの一枚の絵図を広げる。
墨で描かれた線は、リシアとドルグリムの言葉を頼りに、この見知らぬ天下の輪郭を初めて描き出していた。小田原城を中心として、西には人間の国「レミントン」が、北にはドワーフが住まうという峻険な山脈。そして、それらを取り巻くように、オークや森狼が潜むという広大な森が、不気味に広がっている。
それまで、ただ漠然とした不安の対象であった「城の外」が、初めて具体的な形と名称、そして危険と機会を持つ、交渉と攻略の対象へと姿を変えた瞬間であった。
氏康は、その地図をじっと見つめていた。
自分たちの置かれた状況が、かつて父祖が伊豆の一国から、関東全土を切り取っていった時代と、どこか似ているように思えた。
「氏政」
氏康は、息子に命じた。
「リシア殿の報せに基づき、城の西側、比較的安全な土地の測量を開始せよ。新たな田畑の候補地とする」
「綱成、東方の森への警戒を一層強めよ。オークの動きに加え、森狼とやらの習性を探り、対策を練るのだ」
「そして幻庵殿。ドルグリム殿の協力を得て、その『魔石』とやらを徹底的に調べよ。あるいは、それは我らの暮らしを一変させるやもしれぬ」
氏康の揺るぎない声が、評定の間に満ちていた絶望を打ち破る。一つ一つの言葉が、暗闇の中に確かな道筋を照らし出すと、家臣たちの目に再び闘志の火が灯った。もはやその顔に漂流者の絶望はなく、自らの手で未来を切り拓かんとする開拓者の貌があった。
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