第五十九話:古き大地の声
小田原に冬が根を下ろし始めていた。 城の鬼門の方角に建てられた「鎮守の祠」の周りだけが、まるでそこだけ春が訪れているかのように穏やかで清浄な気に満ちていた。石灯籠には夜の間に積もったであろう薄雪が残り、朝日にきらめいている。
北条幻庵はその日も日課である朝の祝詞を終え、静かに目を閉じていた。 スキル【神祇感応】。 その力は彼にこの世界の見えざる隣人の「声」を聞かせた。祠に宿る精霊たちの感謝と喜びの囁き。城下の民の健やかな営みが育む穏やかなマナの流れ。 万事は順調であった。順調すぎるほどに。
だが、この数日。彼の研ぎ澄まされた感覚の深奥で、微かだが無視できぬ不協和音が鳴り響いていた。 それは遥か遠き地からの、無数のか細い悲鳴のようであった。風に、大地に、水に宿る名もなき精霊たちの苦痛の喘ぎが、潮騒のように寄せては返す。
「……幻庵様?」
彼の険しい面持ちに気づいたリシアが心配げに声をかけた。彼女は薬草園の手入れの合間に、この祠へ祈りを捧げることを新たな日課としていた。
「何かございましたか」
「……リシア殿。そなたにも聞こえるか。この大地の呻き声が」
幻庵の問いにリシアは目を閉じ集中する。エルフとしての鋭敏な感覚が世界の微細なマナの流れを探った。
「はい……。森の歌が日に日に弱くなっているように感じます。長老会は、帝国が放つ邪気のせいだと……」
「邪気か。いや違う」
幻庵は静かに首を横に振る。黒薔薇騎士団が放つ禍々しい気配とは質が異なる。
「これはもっと根源的なものじゃ。まるでこの世界そのものが熱病に冒され、その体力を静かに、しかし確実に奪われているような……。何かがこの星の命そのものを根元から吸い上げておる」
合理主義者である幻庵はそれをただの霊的な現象とは捉えぬ。全ての現象には必ず理がある。ならばこの世界規模の「病」にも必ずや原因があるはずであった。彼はその見えざる敵の正体を突き止めねばならぬと、静かに決意を固めていた。
◇
その日から幻庵の最後の知の探求が始まった。 彼はまずリシアと、小田原に滞在していたドルグリムを自らの書庫へと招いた。そこは日本の書物と、狩野元信が描き写した異世界の動植物の絵図、ドワーフの鉱石標本までもが混在する、混沌とした知の坩堝と化していた。
「リシア殿、ドルグリム殿。そなたたちの古き伝承に、何か心当たりはないか。世界から光や力が失われていく。そのような不吉な時代の到来を告げる言い伝えが」
幻庵の漠然としながらも切実な問い。 それにリシアは記憶をたどるように答えた。
「……わたくしたちエルフには最も古い詩の一つに『嘆きの詩』がございます。『天に血の涙が浮かぶ時、森は沈黙し風は嘆き、星々はその光を失う』と。過去に幾度となく文明を滅ぼしたという大災害の前触れとして、恐れられている詩です」
「血の涙……」 幻庵がその詩的な言葉を反芻する。
今度はドルグリムが唸るように言った。
「我らドワーフの最も古い石板にも似たような記述がある。『偉大なる天の溶鉱炉が赤く燃え盛る時、山の魂は冷たい眠りにつき、いかなる鉄も槌を拒む』と。我らはそれを山の神が我らの技を試す偉大な試練の刻と伝えておる」
エルフの詩的な凶兆。 ドワーフの神話的な試練。 幻庵はその二つの全く異なる伝承が、過去に複数回、同じような「大災害」が起きていたという恐るべき共通点で結ばれていることに気づいた。そして、どちらもが不吉な『天の赤い輝き』に言及している。
(……これだけではまだ足りぬ。伝承は人の記憶。曖昧で時と共に形を変える。もっと揺るぎない、石に刻まれた『記録』がいる)
幻庵は天ではなく地の底に目を向けた。
「ドルグリム殿。一つ、無理を承知で頼みがある」
「なんだ改まって。お主とわしの仲ではないか」
「そなたの故郷カラク・ホルンに保管されているという、数千年にわたる『鉱脈図』と古代の『坑道の記録』。その写しを取り寄せてはくれぬか。この世界の大地の記憶そのものが見たいのじゃ」
そのあまりに突拍子もなく、ドワーフの秘中の秘に触れる願いにドルグリムは一瞬言葉を失った。鉱脈図と坑道記録は、カラク・ホルンの生命線であり、他種族に渡すなど考えられぬことであった。だが、目の前の老人の、真理を渇望する純粋な瞳を見て、彼はやれやれと首を振りながらも力強く頷いた。この男ならば、その知識を悪用することはないだろう。そして、この世界の危機を前に、種族の秘密を守ることなど、些末なことかもしれぬ。
◇
魂に刻み込むように読み解いていく 。
そして解読を始めて十日が過ぎた夜 。 幻庵の動きがぴたりと止まった 。 彼の皺深い指先がある一点をわななくように指し示している 。
「……ドルグリム殿。この記述はなんだ」 そこにはこう記されていた 。
『古代歴三〇一五年。南の大鉱脈<黒鉄の顎>、深層三百二十層にて、鉱脈、原因不明の熱により、一夜にして「焼き切れ」、周辺の岩盤、ことごとく「ガラス化」す。調査隊を派遣するも生きて帰る者なし。坑道内に生命の痕跡、完全に消失。以後、この坑道を永久に封鎖す』
「……これは」 ドルグリムの顔から血の気が引いた 。
「知っている。我が一族に伝わる最大の禁忌の一つ。山の神の怒りに触れた場所じゃ」
「違う!」 幻庵が叫んだ 。
「これは神の怒りなどではない! もっと物理的な、恐るべき現象じゃ! そして問題は、これが一つではないことよ!」
幻庵は狂ったように羊皮紙をめくり、同じような記述を次々と探し出していく 。異なる時代、異なる場所で、同じように鉱脈が「焼き切れ」、岩盤が「ガラス化」し放棄された坑道の記録が、いくつもいくつも存在したのだ 。
幻庵は立ち上がると震える手で三つの情報を巨大な地図の上に並べた 。 一つ、エルフとドワーフに伝わる周期的な『大災害』の伝承 。 二つ、ドワーフの古記録が示す原因不明の地殻エネルギー暴走の『観測記録』 。 そして三つ、自らが今この瞬間も感じ続けている、世界全体のマナが病的に熱を帯びて揺らいでいるという『現在の状況』 。
三つの情報が一つの線を結んだ瞬間、幻庵はついに戦慄すべき真相にたどり着いた 。
(……そうか。そうであったか……!)
彼の口から驚愕と、長年の謎が解けたことへの畏怖の念に満ちた声が漏れた 。
「これは呪いなどではない。神の怒りでもない。ただ冷徹で規則的で、そして何者にも抗うことのできぬ、この星の『病』……!」
幻庵は全てを理解した 。 過去の文明を滅ぼした「大災害」と全く同じ前兆現象が、今この瞬間も自分たちの足元で静かに、しかし確実に再発している 。 精霊の悲鳴も魔物の凶暴化も、全てはその前兆に過ぎなかったのだ 。
◇
その夜、氏康の執務室の灯りはまだ消えていなかった 。 彼はゲオルグ領の復興状況や自由都市同盟との交易に関する報告書に目を通していた 。 そこへ幻庵が血走った目で、しかし確かな足取りで入室した 。 その手にはおびただしい書き込みがされた数枚の羊皮紙が固く握りしめられている 。
「……幻庵か。こんな夜更けにどうした」
「殿」
幻庵は氏康の前に進み出ると、その羊皮紙を床一面に広げた 。
「殿。わしは間違っておりました。我らが真に備えるべき敵は、帝国ではありませなんだ」
氏康が怪訝な顔で彼を見つめる 。 幻庵は床に広げられたドワーフの古記録とエルフの伝承の断片を震える指で指し示した 。
「我らが真の敵は、我らがこの地に来たその日からずっと、我らの足元に潜んでおりました」
「この星そのものが抱える不治の『病』。これこそが数千年ごとにこの世界の文明を根こそぎ焼き払ってきた『大災害』の元凶にございます。そしてその次の発作が……もう、すぐそこまで迫っておるのでございます」
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