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第五十八話:騎士王の誕生

 

 城門の前は奇妙な静寂と、張り詰めた混乱に支配されていた。 つい先程まで怒号を上げ城壁に殺到しようとしていた農民たちは、鍬や鎌を握りしめたまま足を止め、ただ呆然と目の前の光景を見つめている。ざわめきすら消え、風の音だけが聞こえる。


 鬼神のごとき強さを誇るはずの領主の兵士たちが、自分たちの指導者であった旧貴族たちをあっという間に、しかし誰一人殺すことなく無力化してしまったという事実。 そして何より、城門から差し出されたのが剣や槍ではなく、湯気の立つ焼きたてのパンと、エールがなみなみと注がれた樽であったという、信じがたい現実。


 彼らの飢えと扇動によって熱しきっていた頭は、そのあまりに理解不能な出来事によって急速に冷やされていった。武器を握る手に力がなくなり、互いに顔を見合わせるばかりであった。


 城壁の上。 ゲオルグの側近である騎士たちが、その光景を前に、なおも進言する。


  「閣下、今です! 敵は完全に混乱しております! この機を逃さず、一気に突撃をかければ、反乱を根こそぎ鎮圧できますぞ! 奴らの戦意は砕けました!」

 だがゲオルグは静かに首を横に振った。その横顔には、もはや戦の熱はない。


  「……いや。戦は終わった」

 彼は傍らの従者に自らの兜を外させた。


 汗ばんだ額が、冬の冷たい空気に晒される。そして一頭の馬を引かせると、腰の剣さえも外し、武器を一切持たず、ただ一人、ゆっくりと城門の外へとその歩みを進めた。


「閣下! お待ちください! ご無防備にすぎる! 罠かもしれませぬぞ!」

 側近たちの悲鳴のような制止も、もはや彼の耳には届いていなかった。彼はただ、眼前に広がる、戸惑いと疑念に満ちた民の海へと、静かに歩を進めていく。


 ◇


 ゲオルグは、数千の武装した農民たちの視線を一身に浴びながら、彼らの前に静かに立った。武器を持たぬその姿は、あまりにも無防備であったが、不思議な威厳を放っていた。


 彼は馬から降りると、その憂いを帯びた、しかし誠実な瞳で、一人ひとりの顔を見つめるように語り始めた。声は領主としての威圧ではなく、同じこの地に生きる者としての、静かで魂に響くものであった。


「皆の顔を見ている。その飢えと疲弊を私は知っている。なぜなら、私もまた、このレミントンの地で生まれ、この地を故郷と呼ぶ者であるからだ」


 農民たちの間にどよめきが走る。天上の存在と思っていた領主が、自分たちと同じ土の匂いを持つ者だと。


「諸君らは、私が新たな圧政者であり、諸君らから全てを奪う敵であると教えられたのだろう。そして諸君らを扇動した者たちは、自らを『解放者』であると名乗ったに違いない」


 ゲオルグは兵士たちによって引き立てられ、その場に無様に膝をつかされている反乱貴族たちを指し示した。


「だが、見よ! 諸君らに土地を約束した、その『解放者』たちの姿を! 彼らは諸君らと同じ泥にまみれた場所に立ったか? 諸君らと同じ粗末な武具を手に取ったか? 違う! 彼らは最も安全な場所から、諸君らを自らの野望のための『盾』として使い捨てようとしただけだ!」


「彼らが欲したのは諸君らの幸福ではない! ただ失われた自らの特権だけだ!」


 ゲオルグの魂からの叫び。 それは農民たちの偽りの熱を完全に打ち砕き、自分たちがただ利用されていただけだという残酷な真実を突きつけた。


「私は諸君らに戦を強いるつもりはない」

ゲオルグはパンの山を指し示した。湯気が立ち上り、焼きたての香りが漂う。


「まずはこれを食すがいい。飢えた腹では正しい判断もできまい。そして家に帰るがいい。今日のこの騒動、首謀者以外の罪は一切問わぬと、このサー・ゲオルグの名において、ここに誓う」

 そして彼は最後の、最も重要な約束を告げた。 その言葉に農民たちは自らの耳を疑った。


「そして……反逆者であるこの者たちが持っていた土地。それは新たな領主ではなく、このレミントンの地を愛し、その土を耕す者……すなわち、諸君ら自身の手に、公正に分配されることになるだろう!」


 静寂。 やがて一人の老人が、手にしていた鍬をかたりと地面に落とした。 それを皮切りに一人、また一人と農民たちが錆びついた剣を、鎌を、その手から放していく。 武器が地に落ちる乾いた音が、まるで雪解け水が流れ出す音のように広場に響き渡った。


 それは歓声ではなかった。 安堵と、生まれて初めて領主という存在から人としてのまっとうな扱いを受けたことへの戸惑いと感謝。全ての感情が入り混じった、静かな涙の音であった。


 ◇


 くの丘の上。 旅の商人に身をやつしたラメントが、その一部始終を冷たい目で見つめていた。陽光が、彼の整った顔に影を落としている。


 彼の計算では、ゲオルグは騎士の誇りと領主の体面から、必ずや反乱を力で鎮圧するはずであった。その結果民の心を失い孤立する。そこを帝国が優しく手を差し伸べる……それこそが彼の描いた絵図であった。反乱そのものが目的ではなく、ゲオルグを再び帝国の支配下に置くための巧妙な罠だったのだ。


 だが、目の前の光景はその絵図を鮮やかに裏切っていた。武器を捨てる農民たち。彼らに向けられる、領主の穏やかな眼差し。


(……パンと赦しか。力で支配するよりも遥かに厄介なやり方だ。あの騎士はもはや帝国の栄光を夢見る狗ではない。民の心という、新たな力を得た危険な『王』へと変貌した)


 ラメントの口元から初めて笑みが消えた。 彼の計画は失敗したのではない。彼の想像を、理解を遥かに超える形で覆されたのだ。北条の王が持つ異質な思想が、これほど深く、早くゲオルグを染め上げていたとは。


(……この事実は直ちに枢機卿閣下へ。そして、もはやこの地には言葉で心を操る『歌』は届くまい。必要となるのは血で語り、恐怖で心を縛る、別の『棘』であろうな)


 彼はもはやこの地の結末に興味はないとでも言うように、静かにその場に背を向けると、誰にも気づかれることなく影の中へと姿を消した。風だけが、彼がいた場所に、微かな冷気を残していった。


 ◇


 その日の午後。 小田原城、町奉行所。 大道寺政繁の元に、ゲオルグ領に放っていた「目付役」からの伝書鳩による報告書が届いた。報告は、国境を越える間も惜しむように、簡潔に事実だけを伝えていた。 彼はその、淡々とした文面の中に事の全てを読み取ると、これまで見せたことのない、心からの、どこか楽しげな笑みをその口元に浮かべた。


「……やれやれ。あの石頭の騎士殿も、随分と人が変わったものだ。もはや、ただの捕虜ではない。彼は王冠こそ持たぬが、真の『王』となられたわ」 氏康の深謀遠慮が、また一つ、実を結んだ。政繁は、自らの主君の底知れぬ器量に、改めて畏敬の念を禁じ得なかった。


 ◇


 その夜。ゲオルグの執務室の扉が、おそるおそる叩かれた。蝋燭の灯りが、部屋に深い影を落としている。 入ってきたのは昼間反乱に参加していた村々の代表者たちであった。彼らの顔には、まだ泥と恐怖の痕が残っていた。彼らはゲオルグの前に進み出ると、深々と、その汚れた額を床にこすりつけた。


「……代官様。我らは間違っておりました。どうかこの度の非礼、お許しください」

「そして我らに働かせてください。この御恩に報いるため、城壁の修復でも道の整備でも何なりと。我らの命、貴方様のために」


 ゲオルグは彼らの前に立つと、静かに言った。その声には、もはや昼間の激昂はない。ただ、疲労と、そして、新たな決意が宿っていた。


「顔を上げよ。お前たちはもはや罪人ではない。この地を共に再建していく、我が民だ」


 その言葉に、農民たちの目から熱いものが止めどなく溢れ出した。彼らは生まれて初めて、領主から「民」と呼ばれたのだ。 ゲオルグはその光景を、その目に、心に深く刻み付ける。 彼が背負う十字架はもはや贖罪の象徴ではない。 この愛すべき民の明日を守るための、誇り高き統治者としての王冠そのものであった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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