第五十七話:偽りの蜂起
旧レミントン領、その暫定首都となった城塞都市は、冬の厳しい寒さの中にも確かな再興の熱を宿し始めていた。
凍てつく風が城壁を叩くが、煙突から立ち上る煙は数を増し、人々の往来も絶えることがない。 サー・ゲオルグは、城主の間の窓からその光景を見下ろしていた。
北条家から派遣された文官たちの助言で敷かれた公平な税制。新設された市場で生き生きと商品を売り買いする民の顔。かつては圧政の象徴であったこの城が、今や民の暮らしを守る「最後の砦」として力強く機能しているという事実。
(……これが、氏康殿の言う「禄寿応穏」か)
彼の心には、未だ帝国への裏切りという罪悪感と、蛮族に下ったという屈辱が澱のように沈んでいる。竜騎士としての誇りは、泥にまみれたと感じる夜もあった。
だが、それ以上に、この日に日に活気を取り戻していく領地と、民の笑顔を見ることに、かつて竜の背の上で感じた栄光とは全く質の違う、静かで深い充足感を覚え始めていた。支配ではなく、奉仕。そこに、新たな騎士道を見出しかけていた。
その芽吹き始めたばかりの平穏を、見えざる毒が静かに蝕もうとしていることを、彼はまだ知らなかった。
◇
城下のとある寂れた酒場。埃っぽい薄闇の中、安酒の匂いが立ち込めている。 そこにはゲオルグの新しい統治によって特権と富を奪われた旧貴族たちが数名、不満を酒で流し込んでいた。彼らの華美だが煤けた衣服が、失われた過去を物語っていた。
「……忌々しい。あの裏切り者のゲオルグめ」
「我らが先祖代々の土地に、あの蛮族どもの法を持ち込みおって。泥塗れの農民と同じ扱いとは……」
「いずれ帝国軍が、正義の鉄槌を下してくださるわ……」
その湿った不満が渦巻く中に、一人の優雅な吟遊詩人がそっとリュートを奏で始めた。 帝国の密使、ラメントであった。彼は酒場の隅に座り、まるで偶然そこに居合わせたかのように、物悲しい調べを紡ぎ出す。
彼の歌は、彼ら旧貴族たちがとうに失ったはずの、過去の栄光の物語。血統の尊さ、騎士の誉れ。 「――白銀の竜が天を舞いし、古き良き日々」
「その血の気高さこそが、秩序の礎であった」
「されど、東より来たりし泥の波が、その輝きを、無残に飲み干してゆく……」
その呪われた歌が、彼らの心の奥底に眠っていた選民思想と、奪われた者としての憎悪を再び呼び覚まし、そして何倍にも増幅させていく。リュートの音色には、人の感情を操る微かな魔法が込められていた。 やがてラメントは彼らに静かに囁いた。
「皆様の、その気高き血は、まだ死んではおりませぬ。今こそ立ち上がる時。貴方様方の蜂起を陰ながら支援する、強力な『味方』が、既に、ご用意できておりますれば」
囁きは、乾いた大地に染み込む水のように、彼らの絶望した心へと浸透していった。
時を同じくして。 領内の最も貧しい村。泥と家畜の匂いが支配する場所。 ラメントの配下である別の密偵が、農民たちに全く違う物語を囁いていた。彼は粗末な旅人の身なりで、飢えた者たちの輪に入り込んでいた。
「聞け、虐げられし者たちよ! 新しい領主ゲオルグは、結局前の領主と同じだ! 口では甘いことを言うが、いずれお前たちから全てを奪うだろう!」
「だが希望はある! 城の気高き騎士たちの一部が、民のために立ち上がる! お前たちがその蜂起に加わるならば、解放された後、あの貴族どもの土地は全てお前たちのものとなるのだ!」
甘言と偽りの希望。そして、密偵が荷駄の中から取り出した、数本の錆びついた剣。 飢えた民を、理性を失った暴徒へと変えるには、それで十分であった。彼らの目には、もはや領主への期待はなく、ただ奪い返すことへの、狂気の光が宿り始めていた。
◇
数日後。その日は来た。 城主の間に、平穏を切り裂く凶報が立て続けに飛び込んできた。
「申し上げます! 城内で旧貴族派の騎士たちが武器庫を占拠! 『帝国に栄光あれ』と反旗を翻しました!」
「同時に南の村の農民たちが武装蜂起! 『ゲオルグを倒し我らに土地を!』と叫びながら城門へと向かっております!」
矢継ぎ早にもたらされる報せに、ゲオルグの側近たちが色めき立つ。部屋の空気が一瞬で凍りついた。
「やはり奴らは裏切ったか!」
「閣下、ご命令を! 直ちにこの反乱分子どもを、農民に至るまで一人残らず叩き潰すべきです! 躊躇えば、我らの命が!」
ゲオルグは何も答えず城壁の上へと駆け上がった。石段を駆け上がる彼のブーツの音が、焦燥を煽るように響く。 そして眼下の光景に息を呑んだ。
城門に迫る二つの全く異質な集団。 一つは数は少ないが、重厚な鎧に身を包んだ訓練された騎士たち。その目には明確な殺意と選民思想に満ちた傲慢な光が宿っている。彼らはかつての同僚であったはずだ。 そしてその後ろには数で勝る、しかし武器は鍬や鎌、防具はただの布切れという貧しい農民たちの巨大な塊。彼らの目にあるのは殺意ではない。ただ明日のパンを求める切実な、扇動された狂気の光であった。飢えが、彼らをここまで駆り立てたのだ。
(……罠か!)
ゲオルグは瞬時に敵の、あまりに悪辣な意図を理解した。
このまま反乱を鎮圧すれば自分は武器を持たぬ農民を虐殺した領主となる。北条家が掲げる「禄寿応穏」の理念を自らの手で汚すことになるのだ。そうなれば民の信頼は失われ、北条家との間にも埋められぬ亀裂が生じるだろう。 だが何もしなければこの城は内側から崩壊する。どちらを選んでも破滅が待っている。
進むも地獄。 退くも地獄。
彼の脳裏に小田原での氏康の言葉が蘇る。あの、全てを見透かすような静かな瞳。 『真の支配とは剣で脅すことではない。敵の誇りを一度完膚なきまでに砕き、その上で我らの掌の上で踊らせることよ』
(……そうか。試されているのか。この私が真の『領主』たる器か否かを、あの獅子に……そして、この地の民に) 北条の王は、ただ力を貸すだけではない。試練を与え、乗り越えさせることで、真の同盟者を育てようとしているのか。
ゲオルグの瞳から迷いが消えた。覚悟が定まった。 彼は狼狽する側近たちに向き直ると、もはや帝国騎士のそれではない、一つの国を背負う統治者の冷徹な声で命令を下した。
「――全軍に告ぐ。農民たちに決して刃を向けるな」
「なっ……! 閣下、しかし! 彼らも武器を手に!」
「聞け! 狙いは武装した旧貴族の騎士、その首謀者のみ! 彼らを最小限の犠牲で無力化せよ! そして……」
ゲオルグは城の食糧庫を管理する文官に叫んだ。声は城壁全体に響き渡った。
「城のパンとエールをありったけ城門の前へ! 蜂起した民に伝えるのだ! 『飢えているのだろう。戦う前にまずは腹を満たせ。話はそれからだ』と!」
そのあまりに常軌を逸した命令に側近たちは一瞬言葉を失う。敵に食料を与えるなど、聞いたこともない。 だがゲオルグのその揺るぎない瞳に、彼らは従うしかなかった。この男は、狂ったのではない。何か、自分たちには見えぬものを見ているのだ。
やがて城門がゆっくりと開かれる。 そこから現れたのは槍を構えた兵士ではなく、湯気の立つパンとエールを山と積んだ何台もの荷車であった。 城門に殺到していた農民たちは、そのあり得ない光景に足を止める。罵声が困惑の囁きに変わる。
そしてその一瞬の混乱を突き、城壁の側面、搦手門からゲオルグ率いる精鋭部隊が疾風のように出撃した。 彼らの狙いは混乱する農民の群れではない。その先頭で指揮を執っていた反乱貴族たち、ただ一点。 ゲオルグの部隊は驚愕する反乱貴族たちをあっという間に包囲し、その主だった者たちを次々と馬から引きずり下ろし、剣の柄で打ち据え、無力化していった。鮮やかな手際であった。
遠くの丘の上。 その一部始終を、吟遊詩人ラメントが冷たい目で見つめていた。 (……馬鹿な。なぜ虐殺しない。なぜパンを与える……? この男、ただの騎士ではない。あの異世界の王の『思想』に既に毒されているというのか……!)
彼の完璧であったはずの策が、予想だにしなかった、あまりにも人間的な対応によって音を立てて崩れ始めていた。ゲオルグはただ罠を生き延びただけではない。 それを民の心を完全に掌握するための最高の舞台へと作り変えてしまったのだ。
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