第五十六話:帰還せし武神
小田原城の大手門が、にわかに静まり返った。行き交う兵士たちの喧騒が嘘のように止み、全ての視線が一人の男へと注がれる。 街道を、大地を踏みしめるように、ゆっくりと歩み来る男。 旅にやつれた麻の衣は土埃に汚れ、背には布に固く巻かれた太刀が一振り。
ただそれだけ。だが、その男の佇まいには、いかなる屈強な武人とも異質な、尋常ならざる気配が漂っていた。古木の如き静謐さと、不動の山の如き威圧感。相反するはずの二つの力が、奇妙な調和をもって、その一身に宿っていた。
「……何者だ。名乗られよ」
足軽頭が、槍を構え直し、声を張り上げる。だが、その声には、明らかな緊張と、本能的な畏れが滲んでいた。 男は、ゆっくりと顔を上げた。
その顔貌は、確かに、この城の誰もが知る、あの猛将のものであった。その瞳から、かつて宿していた血に飢えた獣の如きぎらつきは、完全に消え失せている。代わりに宿るのは、どこまでも深く、星々の運行さえ映し出すかのような、凪いだ湖面の如き静謐さ。底知れぬ光であった。
「……留守を、した」
地鳴りのような、短い一言。だが、その声が響いた瞬間、足軽頭は、己の目を疑い、槍を取り落としそうになりながら、震える声で叫んだ。
「つ、綱成様……! 北条、綱成様に、あらせられるぞ!」
その名が、城門から城内へと、驚愕と、畏敬の念を帯びた歓喜の波となって、瞬く間に伝播していった。武神の帰還、と。
◇
本丸御殿、氏康の私室。 旅の汚れを落とし、簡素な着流しに着替えた綱成が主君の前に静かに座していた。焚かれた香の匂いが、張り詰めた空気をわずかに和らげている。 向かい合うのは氏康、幻庵、そして氏政。三人の視線が、帰還した猛将へと注がれていた。
「……息災であったか、綱成」
氏康は、まるで久方ぶりに会う弟に語りかけるように、穏やかに言った。
「その顔を見るに、求めていた答えは、見つかったようだな」
綱成は何も語らない。ただ、深く頭を下げた。
畳に額がつくほどの、それは感謝であり、そして新たな覚悟の表明であった。
「はっ。……道は、見えました。されど、頂は、まだ、遥か先にございます」
その言葉と、研ぎ澄まされた刃のような佇まいから、幻庵も、氏政も、目の前の男が以前とは全くの別次元の存在へと変貌を遂げたことを肌で感じ取っていた。
かつての荒々しいだけの「猛将」ではない。武の理を極め、その先の景色を見た「武神」が、そこにいた。放たれる威圧感は、もはや殺気ではなく、神域の静けさに近かった。
綱成帰還の報は、城下の兵たちの間に熱病のように広まった。
「地黄八幡様が、お戻りになったぞ!」
「聞けば、北の魔境で、山をも砕く化け物を、単身で討ち取られたとか!」
「いや、竜を従えて戻られたという噂だ!」
若い武将たちは興奮を隠せず、尾ひれのついた新たな武勇伝に目を輝かせていた。
その城内全体の浮き足立つような空気を、氏康は一つの儀式によって引き締めることを決意する。熱狂は時に油断を生む。今、この国に必要なのは、地に足のついた結束であった。 彼は全軍が見守る大練兵場にて、一つの前代未聞の「御前試合」を執り行うと宣言した。
――北条綱成、ただ一人。 ――対するは、城内より選び抜かれた、百名の精鋭部隊。
その報は、熱狂を更なる驚愕へと変え、城下の隅々まで駆け巡った。
◇
大練兵場は、冬の寒気を忘れさせるほどの歓声と熱気に包まれていた。数千の将兵が、固唾を飲んで中央を見つめている。 片や、ただ一人、練兵場の中央に静かに佇む北条綱成。
その手には愛刀『獅子奮迅』が鞘に収められたまま握られている。その姿は、嵐の中心にある凪のように、異様な静けさを湛えていた。
片や、彼を半円状に囲む百名の屈強な兵たち。いずれも城内から選び抜かれた、歴戦の精鋭。彼らを率いるのは、守りの名将として知られる遠山綱景。
兵たちの顔に気負いや恐怖はない。あるのは伝説の将の胸を借りられるという名誉と自信。そして、百人が束になれば、いかなる達人であろうと一太刀くらいは浴びせられるであろうという、戦人としての当然の気概であった。
「――始め!」 綱景の号令と共に、陣太鼓が高らかに鳴り響いた。
「「「おおおおおっ!!」」」
百名の兵士たちが鬨の声を上げ、統率された鉄の波となって中央の綱成へと一斉に殺到した。大地が震え、砂塵が舞い上がる。
だが、綱成は動かない。 彼は目を閉じ、ただ静かにそこに立っているだけ。まるで、迫り来る脅威など存在しないかのように。 敵の第一波がその身に届かんとする、その刹那。
綱成の体が、ふっと陽炎のように揺らめいた。 彼は、突撃してくる兵士たちの力の「流れ」そのものに、我が身を任せたかのようであった。 先頭の兵が突き出す木槍。
綱成はそれを刀の柄で軽く、こつんと叩くだけ。兵士は自らの勢いを殺しきれず前のめりによろめき、後ろの仲間とぶつかって無様に転倒する。 右から振り下ろされる木刀。綱成は半身を引くだけでそれを紙一重でかわし、体勢を崩した相手の膝裏を鞘の先端でとんと軽く突く。兵士は膝から崩れ落ち戦闘不能となる。
それは、もはや戦いではなかった。 達人が、無数の流れを読み切り、ただ最小限の力でその方向を変えているかのようであった。 かつてのような荒々しい咆哮も、力任せの斬撃もない。全ての動きに無駄がなく、洗練され尽くしている。
最小限の動きで相手の力を利用し、無力化していく。 一人、また一人と兵士たちが、大きな怪我もなく、しかし完全に戦意を喪失させられ地に膝をついていく。まるで、自らの力が自分に返ってきたかのように。
「……なんだ、これは」
「綱成様の動きが、まるで、見えん!」
「違う! 見えてはいる! だが、俺たちの攻撃が、まるで吸い込まれるように逸らされていくのだ!」
遠巻きに見ていた将たちも言葉を失っていた。 彼らが知る、あの猛々しい「獅子」の戦い方ではない。そこにあるのは理解不能な、しかしあまりにも絶対的な「武の理」そのものであった。人の技を超えた、何か別の領域。
「……総員、囲め! 一斉にかかれ!」 綱景が最後の手段として叫ぶ。 残った五十名ほどの兵士たちが綱成を完全に三百六十度包囲し、一斉に飛びかかった。逃げ場はない。数による圧殺。
その瞬間。 綱成は初めて深く息を吸った。 そして、その身から淡い、しかし誰もが肌で感じられるほどの黄金の闘気が溢れ出した。それは燃え盛る炎ではなく、静かに輝く、揺るぎない光であった。
彼は動かなかった。 ただ、その場に静かに立っているだけ。 だが彼に襲い掛かった兵士たちの全ての攻撃が、まるで彼の体を覆う見えざる薄い障壁に阻まれるかのように、その寸前で滑り、逸れていく。
そして綱成は鞘に収めたままの『獅子奮迅』を、ただ静かに円を描くように一回転させた。 それだけ。 だが、彼を取り囲んでいた全ての兵士が、まるで足元の地面を根こそぎ奪われたかのように一斉にバランスを崩し、その場に崩れ落ちた。闘気の波動が、彼らの体勢の「理」そのものを乱したかのようであった。
◇
静寂。 百名の兵士が地に伏し、ただ呆然と天を仰いでいる。誰一人として、何が起きたのか理解できずにいた。 その中央に、北条綱成が呼吸一つ乱さず静かに立っていた。
やがてその静寂は、観戦していた数千の兵士たちの、割れんばかりの、地を揺るがすような大歓声によって打ち破られた。 それはもはやただの賞賛ではない。 人の領域を超えた「神」の御業を目の当たりにした、畏怖と信仰にも似た熱狂であった。
玉座からその一部始終を見ていた氏康は、満足げに静かに微笑んだ。
(……見事だ、綱成。そなたはもはや、ただの獅子ではない。北条の、いや、この世界の守り神そのものよ)
その日の夜。 綱成は再び氏康の前に静かに膝をついていた。 「殿。ただいま、戻りました。この綱成の剣、これまで以上に、殿と民のために」
その瞳には、もはや自らの武を誇る色はなく、ただ守るべき者たちへの深く、揺るぎない忠誠の光だけが宿っていた。 北条家が誇る最強の「矛」は、今、真の「武神」としてその鞘へと静かに収められた。 来るべき帝国との最終決戦のために。
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