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第五十五話:銭の奔流

 南からの風は暖かく、港に満ちる潮の香りに、微かな、しかし抗いがたい金の匂いを運んでいた 。 自由都市同盟の主要港、ポルト・マーレ 。その喧騒やまぬ港の片隅から、一隻の、外見は地味だが喫水線が妙に低い高速の商船が、夜の帳とばりに紛れて静かに出航した 。



 船首に立つのは、小田原の商人、近江屋利兵衛 。 彼は普段の豪奢な絹の着物を脱ぎ捨て、船乗りじみた、動きやすく汚れても構わぬ麻の衣服を纏っていた 。


 彼の顔には、もはや小田原で見せるような人の好い笑みはない 。代わりに浮かんでいるのは、これから挑む巨大な市場いくさばを前にした、獲物を狙う獰猛な獣を思わせる鋭い光であった 。



「――利兵衛の旦那。潮の流れは、申し分ねえ。このままいけば、三日で、帝国の南の端、『忘れられた港』に着きまさぁ」


 隣で舵を握るのは、自由都市同盟が誇る「青波商会」の、ベテランの船長であった 。彼らは先の「金貨の盟約」に基づき、大きな危険を伴うが、莫大な利益を生むであろうこの航海の道案内役を務めているのだ 。



「へっへっへ。頼りにしてるぜ、船長。帝国の、正規の港なんぞに近づいたら、この荷は、全て、海の藻屑と消えちまうからな」

  利兵衛は、船倉に眠る「宝」を思い、にやりと笑った 。


 船倉深くには、小田原が誇る至高の『清酒』と、万能の『醤油』が、何十樽と厳重に積まれている 。それらは、ありふれた穀物俵や、木材の下に、巧妙に隠されていた 。


 彼らが目指すのは、帝国の正規の交易港ではない 。中央の目が行き届かず、役人が一握りの銀貨で容易に見て見ぬふりをする、辺境の寂れた港 。


 そこから帝国という巨大な、しかし内部から蝕まれ始めた体に、静かに、そして確実に、北条が生み出した文化という名の甘美な「毒」を流し込むのだ 。


 ◇


 数日後。帝国南部のとある貴族の館。 主であるバウマン男爵は、先祖代々の領地こそ持つものの、中央の政治からは遠ざけられ、逼迫した財政に頭を悩ませる地方貴族であった。 彼の慰みは、時折開かれる近隣貴族たちとのささやかな宴のみ。


 その日も館には同じような境遇の、不満を抱えた貴族たちが数名集まっていた。 食卓には豪勢だが大味な料理が並ぶ。鹿の丸焼きは肉の硬さを誤魔化すように大量の香辛料が振りかけられ、パンはパサパサでワインで流し込まねば喉を通らない。


「……また中央では新しい聖堂が建ったそうだ。我らが納めた税金があんな石くれに変わるとはな」


「それに引き換え我らの暮らしはこの通りだ。このままでは冬を越す薪さえ満足に買えんわ」


 不満と諦観の混じった会話。 その澱んだ空気の中、一人の東方の商人が紹介された。 近江屋利兵衛であった。


「皆様方。わたくしは東の海を越えた地より参りました、しがない商人にございます」

  利兵衛はこれ以上ないほど腰を低くして挨拶した。


「我が国には皆様方がまだご存じない、いくつかの珍しい産物がございます。今宵はそのほんの一端をお目にかけたく……」


 彼はまず懐から小さな布袋を取り出し、その中から一掴みの輝く米粒を取り出した。 黄梅院の力が宿る『陽光米』である。


「……ほう。米か。南方の貧しい者たちが食うものという認識だが」

  一人の貴族が侮蔑するように言う。


 利兵衛は何も答えず、その米を持参した鍋で丁寧に炊き上げた。 炊きあがった米は一粒一粒が真珠のように輝き、甘く芳醇な香りを部屋中に立ち上らせる。 貴族たちはその抗いがたい香りに思わずゴクリと喉を鳴らした。


 次に利兵衛は従者に、分厚く切った牙猪の干し肉を焼かせた。 その熱々の肉の上に、小さな壺から黒く、とろりとした液体を数滴垂らす。 『醤油』であった。


 ジュッ、という音と共に、これまでとは比較にならぬほど食欲を掻き立てる香ばしい匂いが爆発的に立ち上った。


「な……なんだ、この香りは!?」


 貴族たちはおそるおそるその肉片を口に運んだ。 次の瞬間。 彼らの退屈な美食に慣れきった舌と脳を未知の衝撃が貫いた。


「う……美味いッ! なんだこれは! ただの塩味ではない! 肉の味が何倍にも、何十倍にも深くなっている!」


「この米とやらの甘み……! パサパサのパンなどとは比べ物にならん!」


 生まれて初めて体験する「旨味」の奔流。 彼らは我を忘れ、獣のようにその肉と米に喰らいついた。


 そして利兵衛はとどめを刺すように、小さな美しいガラスの杯に澄み切った『清酒』を注ぎ、彼らに勧めた。


 その絹のように滑らかで果物のように華やかな味わいは、彼らがこれまでの人生で味わったどの高級ワインよりも遥かに高貴で洗練されていた。


 宴が終わる頃には、貴族たちはもはや利兵衛を見る目を完全に変えていた。 東方のしがない商人ではない。 我らが知らぬ至高の「文化」を運んできた救世主、あるいは魔法使い。


 バウマン男爵は震える声で利兵衛に問いかけた。


「……商人殿。我らはどうすればこれを再び味わうことができるのだ。望むだけの金貨は払おう」

 その言葉を利兵衛は待っていた。 彼はいつもの人の好い商人の笑みを浮かべると言った。


「滅相もございません男爵様。わたくしが望むのは金貨などではございませぬ」


「ただ一つ。皆様方の『信用』を頂戴したいのです」


 利兵衛は彼らに一つの提案をした。 これらの品々を男爵家がこの地方における唯一の「輸入窓口」として独占的に取り扱う権利を与える、と。 その見返りは彼らが持つ他の貴族たちへの「販路」、そして帝国中央の経済や政治に関するささやかな「情報」でよい、と。


 それはバウマン男爵たちにとって失われた権威を取り戻し、莫大な富を築くまたとない機会であった。


「……よかろう。その話、乗った!」


 ◇


 数日が経過した。 利兵衛の商船は、ポルト・マーレへの帰路にあった。以前は商品で満たされていた船倉は空になり、その代わりとして、ずしりと重い、質の良い銀貨の袋と、帝国貴族社会に関する貴重な内部情報が、船を満たしていた 。


 船上から遠ざかる帝国の海岸線を眺めながら、利兵衛は冷徹な笑みを浮かべていた 。


(へっへっへ。食い物の恨みは、確かに恐ろしい。だがな、旦那方。それよりも遥かに恐ろしいのは、一度知ってしまった、より良い暮らしへの、抑えきれぬ渇望というものよ)



 彼は、単に商品を売り捌いただけではなかった 。 帝国という、巨大ではあるが内部から腐敗が始まっている巨人の体内に、北条という、抗うことのできない「文化」という毒を、そして、「繁栄」という名の、甘美きわまりない病を、確実に注入したのである 。



 銭の奔流は、まだ、その序章に過ぎなかった 。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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