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第五十四話:黒薔薇の吟遊詩人

 

 冬の陽光が、小田原の城下を、暖かく照らしていた。

 開かれた中央広場は、今日も、様々な種族の者たちが行き交う熱気に満ちている。


「おう、ドワーフの旦那! その鉄鍋、ちいとばかし負けてくれねえか!」

「馬鹿言うでねえ! この厚み、この火の通り! 一生もんだぞ! これ以上、一文たりとも負けられるか!」


 威勢のいい日本の商人と、頑固なドワーフの職人が、楽しげに丁々発止のやり取りを繰り広げる。その傍らでは、エルフの子供が、人間の子供に、森で採れた珍しい木の実を分けてやり、言葉の壁を越えて笑い合っていた。


 先の戦の傷跡は癒え、北条家が目指す「禄寿応穏」は、確かにこの地に根付き、美しく、そして力強い果実を実らせつつあるように、誰の目にも見えた。


 その、希望に満ちた光景の、すぐそば。

 一人の、見慣れぬ男が、広場の一角に、静かに佇んでいた。


 歳の頃は、三十路手前。旅慣れた吟遊詩人のような、使い古された、しかし、上質な衣を纏い、背には、銀の象嵌が施された、美しいリュートを背負っている。その優しげな顔と、どこか憂いを帯びた瞳は、道行く女たちの心を、微かにときめかせた。


 彼の名は、ラメント。

 枢機卿ロデリクが、北条家の「心」を内側から破壊するために放った、帝国で最も危険な「棘」の一人であった。


 彼は、その穏やかな笑みの裏で、この街の光が生み出す、僅かな「影」を、冷徹な目で見つめていた。


(……見事なものだ。これほどの短期間に、これほどの秩序と、活気を生み出すとは。かの異世界の王、ホウジョウ・ウジヤス。噂以上の、傑物か)

 だが、彼は知っていた。光が強ければ、その影もまた、濃くなることを。


 その日の夕暮れ。

 ラメントは、工業地区の、職人たちが集う酒場へと、その姿を現した。


 彼は、一杯のエールを注文すると、店の隅で、リュートを静かに爪弾き始める。物悲しく、しかし、美しい旋律が、騒がしい酒場に、ゆっくりと染み渡っていく。


 やがて、彼は歌い始めた。

 それは、とある王国の、腕利きの職人の歌であった。


「――古き良き槌の音は、遠く過ぎ去り」

「新たなカラクリの歯車が、我が魂を、すり潰してゆく」

「我が技は、もはや無価値と、若者は笑う」

「ああ、されど、この手に染み付いた、誇りの錆だけは、落ちぬまま……」


 その歌には、直接的な憎しみの言葉はない。

 だが、その旋律と、言の葉の端々には、人の心の、最も弱い部分――失われゆくものへの郷愁、新しいものへの嫉妬、そして、正当に評価されないことへの「不満」を、増幅させる、特殊な魔法が込められていた。


 その場にいた、日本の職人たちの心に、その毒は、静かに確実に浸透していく。


(……そうだ。俺たちの技が、あのドワーフどもの、ただ頑丈なだけの鉄塊に、劣るものか)


(殿は、新しいものばかりを、もてはやす……)


 ラメントが、静かに酒場を去った後。

 ささいなことから、日本の大工と、ドワーフの石工が、胸ぐらを掴み合う、醜い乱闘騒ぎが起きた。


 ◇


 数日後。

 その「毒」は、城下の、別の場所にも撒かれた。

 楽市楽座で富を得た商人が住む、新しい屋敷町。ラメントは、そこで、貧しい親子に、一切れのパンを恵んでやりながら、静かに歌った。

 隣の屋敷の、暖かな灯りを見つめながら。


「金貨の壁は、天より高く」

「我らが子の、腹の虫だけが、虚しく鳴く夜」

「同じ民でありながら、なぜ、神は、これほどまでに、不公平であられるのか……」


 翌日、その屋敷町で、富裕な商人の家の壁に、泥が投げつけられ、蔵の米が盗まれるという事件が起きた。


 ◇


 小田原町奉行所。

 大道寺政繁は、山と積まれた、目安箱への訴状の束を、検分していた。

 彼は、数字と、法と、そして、人の営みが生み出す「結果」だけを信じる、合理主義者であった。


「……おかしい」

 彼は、眉間に皺を寄せ、独りごちた。


「この三日間で、酒場での喧嘩騒ぎが、三割増。種族間の、些細な口論に関する訴えが、五割増。富裕層への、妬みを原因とする、軽微な窃盗事件が、倍。……これは、ただの偶然では、ない」

 彼は、地図の上に、それらの事件が発生した場所を、一つ一つ、赤い点で記していく。


 最初は、無関係に見えた、点と、点。

 だが、その背後に、一つの、不気味な法則性が、浮かび上がってきた。

 事件が起きる直前、その場所には、必ずと言っていいほど、一人の、見目麗しい吟遊詩人が現れているという、複数の目撃情報。


(……吟遊詩人? 馬鹿な。歌が、人の心を、これほどまでに掻き乱すとでも言うのか?)

 政繁は、当初、その可能性を非合理なものとして、一蹴した。

 だが、報告書の一文が、彼の背筋を凍らせた。


『――いずれの者も、捕らえてみれば、『なぜ、あのようなことをしたのか、自分でもわからない』『ただ、どうしようもなく、腹が立って、悲しくなったのだ』と、まるで、熱に浮かされたように、そう繰り返すばかりにございます』


「……熱病、か」

 政繁は、呟いた。


 そうだ、これは、熱病なのだ。人の心に直接感染し、憎しみと妬みを糧として、増殖する見えざる「疫病」。


(……武力による破壊ではない。内側から、人の心を、社会そのものを腐らせる、高度な精神攻撃……!)

 あまりに陰湿で効果的な戦術に、政繁は、生まれて初めて得体の知れない恐怖を感じた。

 これは、法や、道理で裁ける相手ではない。


 彼は、傍らに控える与力に、鋭く命じた。


「風魔の小太郎殿に、至急、繋ぎを! 我らの城下に、姿なき『悪魔』が、紛れ込んでいる、と!」


「これは、もはや、奉行所の仕事ではない。この国の、光と影、その全てを懸けた、新たな『戦』ぞ!」


 政繁の目に、もはや、いつもの皮肉な光はなかった。

 代わりに宿っていたのは、この愛すべき民の暮らしと、北条家が築き上げた秩序を、根底から破壊しようとする、見えざる敵への、冷たい、そして、絶対的な怒りの炎であった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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