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第五十三話:森と影の舞踏


 小田原の領地の東端、外界から隔絶された深い森。

 そこは故郷を捨て、北条の「矢」となることを選んだ若きエルフたちのための、新たな訓練場と化していた。


 木々の間を、風のように駆け抜けるエルフたち。その動きは、一つ一つが洗練された舞踏のように、美しく、しなやかであった。彼らにとって、戦とは、自らの技と、森の精霊との対話によって紡がれるものに他ならなかった。


 だが、その森にはもう一つの異質な存在がいた。

 木の幹に、岩の陰に、落ち葉の下に、まるで風景の一部であるかのように、完全に気配を殺して溶け込む、黒い影。風魔忍軍である。

 彼らにとって戦とは、感情を排しただ目的を遂行するためだけのものであった。


「――なっていない」


 訓練場の中央で、風魔のくノ一、かすみの、氷のように冷たい声が響いた。

 彼女は、矢を放つ一人の若いエルフの前に立つと、そのフォームの、僅かなブレを寸分の狂いもなく指摘する。


「矢を放つ瞬間、お前の呼吸が、僅かに乱れる。それでは、百発のうち、必ず一発は的を外す。反復せよ。呼吸、姿勢、指の力、その全てが、寸分の狂いもなく、一つになるまで、ただ繰り返せ」


 あまりに無機質で、魂のない指導にエルフの中でも特に血気盛んな若者、ラエロンがあからさまに反発の声を上げた。


「我らエルフの弓は、そのような小手先の技ではない! 風の声を聴き、精霊の導きに従って放つ、魂の一矢だ! お前たち影の者に、我らの道は理解できまい!」


「魂、か」

 霞は、その感情的な言葉を鼻で笑った。


「戦場で、お前の言う『魂』が、敵の喉を確実に貫くと、お前は誓えるのか。風は気まぐれだ。だが、任務は、絶対だ。我らに必要なのは、百発百中の『技術』。それ以外は、全て無駄だ」


 森の民と、影の民。

 二つの、決して交わることのない価値観が、訓練場で、激しく火花を散らしていた。


 その様子を、エルフのリーダーであるエルウィンと、北条家との架け橋であるリシアは、少し離れた場所から、案じるように見守っていた。


「エルウィン……。このままでは、彼らの間に、埋められぬ溝ができてしまいます」


「わかっている、リシア。だが、これも、我らに必要な試練だ。我らは、もはや、ただの森の民ではないのだから」


 ◇


 数日後。合同演習が行われた。

 任務は、森の奥に作られた砦に潜入し、敵将の首に見立てた旗を奪取すること。守るのは、北条家の、歴戦の足軽たち。


 霞が、精密な地図を元に作戦を説明する。

「これより、全隊を二つに分ける。第一隊は、私と、そこの二人。第二隊は、ラエロン、お前が率いよ。我らは、この北の沢沿いの道を進む。お前たちは、南の尾根を迂回せよ。半刻後、砦の東西から、同時に奇襲をかける。合図は、この梟の鳴き真似。それまで、一切の音を立てるな。魔法の使用も、禁ずる。良いな」


 ラエロンは、そのあまりに画一的な作戦に、不満を隠せない。


(……馬鹿な。南の尾根は、風下に当たる。我らの匂いで、必ず気づかれる。こちらの、西の岩場から回り込む方が、遥かに確実だ)


 演習が開始される。

 霞率いる第一隊は、まるで一つの生き物のように、完全に気配を殺し、沢沿いの闇を進んでいく。


 一方、ラエロンは、独断で作戦を変更した。

「皆、聞け! あの影の者の言うことなど、聞く必要はない! 我らエルフの勘が、西の道が正しいと告げている! ついてこい!」


 だが、それこそが「罠」であった。

 ラエロンたちが、西の岩場に足を踏み入れた瞬間。彼らの足元で、巧妙に隠されていた、音を感知する罠が作動した。


 次の瞬間、砦の物見櫓から、一斉に、火矢が放たれる。ラエロンたちの周囲の地面が、瞬く間に火の海と化した。


「なっ……!? なぜ、我らの位置が!」

 混乱する彼らの前に、砦から打って出た足軽たちが、鬨の声を上げて殺到する。ラエロンの隊は、なすすべなく、戦闘開始から、わずか数分で「全滅」した。


 その頃。

 東の砦の裏手。霞の隊は、音もなく潜入に成功していた。霞が、梟の鳴き真似で合図を送る。だが、西から呼応する合図はない。


(……やはり、あの若造、しくじったか)


 霞は、舌打ちすると、作戦の第二段階へと移行する。彼女自身が、囮となって、砦の正面で、わざと物音を立てる。


 その隙に、背後に控えていた忍びが、影の中から、砦の内部へと侵入し、目的の旗を、易々と奪取した。

 完璧な、任務達成であった。


 演習後、訓練場に、重い沈黙が流れていた。

 ラエロンは、自らの過信と、未熟さを突きつけられ、ただ、唇を噛み締めることしかできない。


 だが、その時だった。

 訓練場の、遥か北の森から、これまで聞いたこともない、おぞましい咆哮が響き渡った。大地が確かに揺れている。


 斥候に出ていた風魔の一人が、血相を変えて、転がり込んできた。

「報告! 北の森に、異形の魔獣が出現! その数、三! 我が部隊は、既に二名が……!」


 それは、この地に棲む魔物ではない。さらに北の魔境から迷い込んできた、予測不能の特級の魔獣であった。


「全員、退避せよ! ここは危険だ!」

 霞が、即座に判断を下す。


 だが、魔獣の動きは、あまりにも速かった。木々をなぎ倒しながら、三体の小山のような魔獣が、訓練場へと、その巨大な姿を現す。


 風魔たちが、クナイや鎖鎌を放つが、その分厚い皮には、傷一つつけられない。


「いかん……! 全員、散開しろ! 奴らの狙いは、この訓練場そのものだ!」

 霞が叫ぶが、魔獣の一体が、巨大な腕を振りかぶり、彼女の部隊が固まる場所へと、叩きつけようとする。絶対的な破壊を前に、霞は、自らの死を覚悟した。


 その、瞬間。

 ヒュッ、と。一本の矢が、風を切り裂き、魔獣の、巨大な眼球の、その中心に、深々と突き刺さった。

 放ったのは、エルウィンであった。


「――皆、聞け!」

 エルウィンの声が、森全体に響き渡る。それは、もはや、霞のような、計算されたものではなかった。森と共に生きる、エルフの王としての、魂の号令であった。


「舞え、森の子らよ! 我らの庭で、好きにはさせぬ!」


 その言葉に、それまで、己の無力さに打ちひしがれていたラエロンたちが、はっと顔を上げた。

 彼らは、一斉に、散開する。


 それは、風魔のような、統率された動きではない。

 鳥が、風に乗るように。

 獣が、森を駆けるように。 


 それぞれが、それぞれの判断で、木々の上へ、岩陰へ、最も有利な位置へと、その身を躍らせた。


 リシアが、目を閉じ、精霊に語りかける。


「風の友よ、教えて。あの獣の、次の一歩は、どこへ」

 彼女の言葉に応え、風が魔獣の動きを彼女の脳裏に描き出す。


 ラエロンは、地面に手を触れ、大地の精霊に祈る。

 彼の足元から、無数の蔦が魔獣の足に絡みつき、その動きを、一瞬、封じ込めた。


 そして、完璧な一瞬を森のあらゆる場所から、数十本の矢が同時に正確に、魔獣の残された目や関節といった、剥き出しの急所へと吸い込まれていった。


 それは森そのものが、一つの意思を持って異物を排除しようとする、自然の猛威。

 あるいは、優雅で残酷な死の舞踏であった。


 数分後。

 三体の魔獣は、その巨体を、無数の矢でハリネズミのようにされ、絶命していた。


 静寂の中、霞が、エルウィンの元へと、ゆっくりと歩み寄る。

 彼女は、何も言わなかった。ただ、その仮面の下で、何を思ったか深く一礼した。

 それは、影に生きる者が、森に生きる者へ送る、最大の敬意であった。


 ラエロンもまた、自らを助けてくれた風魔の忍びの前に、そのプライドを捨て、頭を下げた。


「……すまなかった。俺は、間違っていた」


 その日、森の民と、影の民は、互いの「違い」を、そして、互いの「強さ」を、本当の意味で理解した。


 規律と、自由。

 技術と、直感。


 それは、もはや忍びでもなく、ただの弓兵でもない。

 影に森の牙を、森に影の刃を。


 互いのことわりをその身に宿した、帝国さえも、まだ知らぬ、恐るべき戦闘集団の産声であった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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