第五十一章:贖罪の十字架
旧レミントン領の古びた城。その主の間に、サー・ゲオルグ・フォン・ヴァレンシュタインは一人座していた。
彼の前には、この地で初めて収穫されたであろう麦の束、民から届けられた一通の拙い文字で書かれた陳情書が置かれている。
暫定統治代官。それが北条氏康があの男に与えた新たな身分であった。
屈辱。初めは、それ以外の感情はなかった。神聖帝国の、誇り高き竜騎士団長であったこの身が、あろうことか、異端の蛮族の手先となりその統治を行う。これほどの侮辱があろうか。己の剣は民を虐げる領主ではなく、神の秩序に捧げられてきたはずだった。
だが、日々送られてくる報告が、彼の心を静かに確実に蝕んでいた。 北条家から派遣された数名の文官の助言に従い、検地を行った。土地を測量し、公平な税率を定めた。
民の顔から長年こびりついていた絶望の色が、それだけで薄らいだ。 城門の前に目安箱を設置した。初めは誰もが訝しんでいた。投じられた小さな声が、一つ、また一つと政策に反映されるのを見るうちに、民は生まれて初めて「領主」というものを信じ始めた。かつての主君オズワルド卿とはまるで違う統治の形が、そこにはあった。
(……これが、奴らのやり方か)
ゲオルグは窓の外、活気を取り戻しつつある城下の様子を見下ろす。陽光の下、市場へ向かう人々の足取りには、以前にはなかった軽やかさが感じられる。 武力で脅すのではない。法と制度と、そしてパンで民の心を内側から支配していく。あまりに合理的で、あまりに人間的であった。
北条の王が見せた、敵将さえも利用する器の大きさ。その深謀遠慮が、今、この荒れた土地に実を結び始めている。 彼の内心は罪悪感と屈辱と、己がこれまで信じてきた「正義」への根本的な疑念とで嵐のように荒れ狂っていた。神に仕える騎士として、この状況をどう受け止めればよいのか。
その嵐の中に、一人の男が音もなく現れた。 豪華な装束ではない。旅の僧侶のような簡素な衣を纏い、穏やかな目をした男。だが、その佇まいには隠しきれぬ異質な気配が漂っていた。部屋の影が、まるで彼を迎えるために深まったかのようだ。
「……何用かな。私は今、取り込み中だ」
ゲオルグは不機嫌を隠さず問いかけた。不意の来訪者への警戒心が、彼の声を硬くする。
男は静かに深々と一礼する。その穏やかな瞳でゲオルグを真っ直ぐに見据えた。
「お初にお目にかかります、サー・ゲオルグ・フォン・ヴァレンシュタイン殿。わたくしは天にまします唯一なる神の最も謙虚なる僕。そして枢機卿ロデリク様の、お言葉を預かりし者」
密使。それも枢機卿直属の。ゲオルグの背筋に冷たいものが走った。帝国の影が、ついにこの辺境の地にまで及んだのか。
「枢機卿閣下は、貴殿のこれまでのご苦労を、全て、ご存じです 。異端の妖術の前に、誉れ高き竜騎士団が破れ、貴殿が、その身に、ありもしない罪を着せられ、屈辱の日々を送っておられることも 」
男の言葉は甘い蜜のようにゲオルグの傷ついた誇りへと染み込んでいく 。
そうだ、自分は敗れたのではない、卑劣な罠に嵌められたのだ。帝国への忠誠は揺らいでいないはずだった。
「閣下は、仰せです。『神への、一度の過ちは、深い悔い改めによって、赦されるであろう』と 。今こそ、帝国へ、神の御許へ、お戻りください 。さすれば、貴殿の罪は全て赦され、再び竜騎士団を率いる最高の栄誉が与えられるでしょう 」
帝国への帰還 。失われた栄光 。それはゲオルグが心のどこかでずっと待ち望んでいた救いの光であったはずだ 。
彼の心は激しく揺れた 。この屈辱に満ちた代官の座を捨て、再び誇り高き竜騎士として天を駆けることができる 。かつての仲間たちの元へ。神聖なる帝国の旗の下へ。
だが。 彼の脳裏に、あの忘れようとしても忘れられぬ、小田原での光景が鮮やかに蘇った 。
市場で屈託なく笑い合っていた人間とドワーフの子供たちの顔 。土埃にまみれながらも、その瞳は輝いていた。 豊穣祭で奇跡の米を頬張り、心の底から幸福の涙を流していた農民たちの顔 。彼らはただ、今日一日の糧と、明日の平穏を願っていた。
そして何より――。 あの小田原医療院の一角で見た、「片葉の会」の傷痍軍人たちの姿 。 片腕を失いながらも、無骨な鋼鉄の義手を操り、若き兵士のために新しい盾を打っていた元・侍大将の、あの誇りに満ちた横顔 。額に汗を浮かべ、炉の火に照らされたその顔には、失われた腕への嘆きではなく、今、為すべき仕事への、揺るぎない意志が刻まれていた。
『死ぬ場所ではなく、生きるための、戦場をな 』
あの時、背後から聞こえた、静かだが力強い言葉が、雷鳴のように彼の魂を打ち抜いた 。
(……そうだ。あれこそが、真の騎士の姿ではないのか )
(失われたものを嘆くのではなく、残されたもので民のために、国のために戦い続ける 。……それに引き換え、私はどうだ。失った栄光に、ただ、しがみつこうとしているだけではないか )
帝国に帰還して、何を得るというのだ。再び竜の背に乗ったとして、その翼の下で民は笑うのか。枢機卿の言葉は甘いが、その先にあるのは、かつて自分が仕えた、虚飾と腐敗に満ちた現実だけではないのか。
ゲオルグの瞳から迷いが完全に消え失せていた 。彼は目の前の密使を、哀れみを込めた静かな目で見つめ返した 。
「……伝えていただきたい。枢機卿閣下には、心より、感謝している、と 」 そのあまりに穏やかな返答に、密使の顔に一瞬安堵の色が浮かぶ 。だが、ゲオルグが続けた言葉は、その安堵を氷点下の絶望へと叩き落とした 。
「だが、お断りさせていただこう 」
「……何と? 」密使の声がわずかに震える。
「私は気づいてしまったのだ。真の栄光とは、帝国の虚飾に満ちた玉座の上にはないことを 。真の誉れとは、竜の背の上ではなく、この泥に汚れた大地の上にこそあるのだと 」
民と共に汗を流し、パンを分かち、明日を築く。その地道な営みの中にこそ、守るべき価値があるのだと。
ゲオルグはゆっくりと立ち上がると、壁に立てかけてあった自らの剣を静かに手に取った 。それは帝国から下賜されたものではなく、彼が騎士になった時に、父から受け継いだ、質実剛健な一振りであった。 その剣はもはや帝国への忠誠を誓うためのものではない 。
「私のこの剣は、もはや帝国の虚飾のためではなく、この地の民の明日のためにこそある 」
「彼らのパンのために。彼らの子供たちの笑顔のために 。……それこそが、今の私の、唯一にして最高の『騎士道』にございます 」
剣を鞘に納める、カチリという乾いた音が、部屋に響いた。
ゲオルグは決別を告げるように、密使に背を向けた 。窓の外に広がる、夕暮れに染まる領地を見つめる。 その背中はもはや敗北した騎士のものではない 。 一つの国、数万の民の明日をその双肩に背負うことを決意した、真の「王」の背中であった 。
密使はわななくように後ずさる 。穏やかだった表情は消え、仮面のような無表情の下で、冷たい怒りが燃えている。
「……その言葉。確かに、お伝えしましょう 。それが、貴殿の神への最後の反逆の言葉となることを、覚悟なさるがよい 」
男が影の中へと消えていく 。まるで最初からそこに存在しなかったかのように。
一人残されたゲオルグは、窓の外に広がる自らが治めるべき愛おしい大地を見下ろした 。陽が落ち、家々に灯りがともり始める。 彼が背負う十字架はもはや贖罪のためのものではない 。 民を守り、この地を真の安寧へと導くための、誇り高き、そしてあまりにも重い、誓いの十字架であった 。
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