第四話:最初の盟約
三の丸広場に、張り詰めた空気が満ちていた。
エルフのリシアと名乗った少女が、ドワーフのドルグリムと名乗った男を、そしてオークの骸を、それぞれ指し示したことで、北条家は初めてこの世界の主要な種族の名を得た。その場の誰もが、情報の重みに息を呑んでいた。
氏康は、まず傷つき、怯えている様子のリシアに向き直った。
「リシア殿、と申されたか。そなたの勇気と、もたらしてくれた報せに感謝する。されど、長旅と、先の騒動で疲れているであろう。まずは、ゆるりと体を休めるがよい。手当りの者、この方を奥へお通しし、湯と食事を用意させよ」
「……ありがとうございます」
リシアは、氏康の配慮に、深々と頭を下げた。
そして、ドルグリムをもう一度鋭く睨みつけてから、侍女に連れられて広場を後にした。
次に氏康は、オークの骸を検分していた兵たちに命じる。
「その骸も下げよ。幻庵殿、後ほど検分を頼む。敵を知るは、戦の基本ぞ」
「うむ、承知した。骨格から筋肉の付き方まで、じっくりと調べさせてもらおう」
幻庵が、知的好奇心に満ちた目で頷いた。
さて、と氏康は、残されたもう一人の客人――ドワーフのドルグリムに向き直る。
これで、邪魔は入らぬ。
氏康の背後で、綱成が油断なく周囲を警戒し、幻庵は値踏みするようにドルグリムを観察している。
「さて、ドルグリム殿。そなたが、我らの鋼にただならぬ興味を抱いていることは、その目を見ればわかる。単に見に来ただけではあるまい。率直に聞こう、我らに何の用かな?」
氏康の問いに、ドルグリムは待ってましたとばかりに答えた。
「用は一つ! その鋼、そしてそれを打った技よ! 我らドワーフは、優れた技には相応の敬意を払い、対価を支払う! お主らの鋼を、我らに譲ってもらいたい。もちろん、ただでとは言わん!」
ドルグリム自らの口から「対価」という言葉が出たことで、交渉の席が整った。
「ほう、対価を支払う、と申されるか」
氏康は、傍らに控える一人の僧形の男に、静かに視線を送った。
北条家の外交を一手に行う、稀代の交渉役。板部岡 江雪斎である。
「ドルグリム殿。では、そのお話、拙僧がお伺いいたそう」
雪斎は、柔和な笑みを浮かべてドルグリムの前に座した。
「して、我らが鋼への対価として、そなたは何を提示されるおつもりかな?」
その問いに、ドルグリムは自信満々に胸を叩いた。
「無論、わしらの山で採れる極上の鉄鉱石よ! 純度において、これに勝るものはそうはない。お主らの鍛冶場が十年は遊んで暮らせるだけの量をくれてやろう!」
しかし、その提案は、幻庵によって「我らが鋼は、人の技と刻の結晶。石ころ同然の鉱石とは、価値の尺度が違いすぎる」と、一蹴される。
「なにを……!」
ドルグリムの顔が、侮辱されたように赤くなる。
「では、これならどうだ!」
彼は、切り札とばかりに、掌に収まるほどの、鈍い銀色に輝く小さな塊を取り出した。
「これなら、どうだ……! 我らの山で稀にしか採れぬ、魔法の銀、『ミスリル』じゃ!」
その未知の金属の軽さと硬さに、幻庵や同席した武具奉行は息を呑む。
紅雪斎は、冷静に問いを重ねた。
「ほう、見事な銀ですな。して、そのミスリルとやらと、我らの玉鋼、交換の割合は、いかほどにお考えか」
「ふん、物の価値がわかる坊主のようだな」
ドルグリムは、したり顔で言った。
「その小指の先ほどのミスリルと、お主らの刀百振り。それが妥当なところだろう」
「なっ……!」
今度は、北条方が騒然となった。法外にもほどがある。
ドルグリムにとって、ミスリルは完成された希少金属であり、日本の刀は数ある鉄製品の一つに過ぎない。互いの価値観は、あまりにもかけ離れていた。
「話にならん!」
ついにドルグリムが席を立つ。
「お前たち人間は、物の真の価値がわからんようだ。時間の無駄だったわい!」
交渉は、決裂したかに見えた。
その時、紅雪斎が、氏康からの目配せを受け、立ち去ろうとするドルグ霊夢を呼び止めた。
「ドルグリム殿、お待ちくだされ。商談はまとまりませなんだが、縁あって相見えたのも、何かの思し召し。我らが主が、客人をもてなしたい、と申されております」
ドルグリムは、訝しげに振り返る。
氏康の合図で、小姓が恭しく運んできたのは、見事な塗りの施された盆と、一つの漆器の徳利、そして精緻な盃であった。その丁重な扱いに、幻庵でさえ僅かに目を見張る。
「ドルグリム殿」
紅雪斎の声は、先程までとは違う、厳かな響きを帯びていた。
「これは、我らが国でも、都の公方様や公家衆への贈り物に用いる、特別な酒。米の芯のみを使い、丹精込めて磨き上げた『諸白』にございます。これ以上の饗応はございません。どうぞ、我らが誠意の一献を」
「酒だと? フン、わしらの飲むエールに勝るものなど……」
ドルグリムは、毒見役が先に口にするのを確認すると、半信半疑ながらも、その格式張った雰囲気に気圧され、盃を受け取った。
ふわりと立ち上る、果物のような華やかな香り。彼は、その澄み切った液体を、ぐっと一息に呷った。
次の瞬間、ドルグリムの動きが、完全に止まった。
その頑固な職人の目が、人生で初めて味わう衝撃に、カッと見開かれる。
(な……なんだ、これは……!?)
喉を焼くような力強さ。しかし、それはすぐに、絹のように滑らかな舌触りへと変わる。そして鼻腔を抜ける、米から生まれたとは思えぬ、複雑で芳醇な香り。今まで飲んできた、ただ喉の渇きを癒すだけの無骨なエールとは、全く次元が違う。
脳髄を、洗練された文化の衝撃が貫いた。
ドルグリムは、わなわなと震える手で、空になった盃を雪斎に突き出した。
「お、おい、坊主! いま飲んだものは何だ!? もう一杯、いや、その徳利ごと寄越せ!」
その姿に、雪斎と、そして氏康は、静かに勝利の笑みを交わした。
「ドルグリム殿。それは、『諸白』又は『清酒』と呼ばれるもの。我らが命の糧とする米から、多大な手間と時間をかけて作る、文化の結晶にございます」
雪斎は、ゆっくりと、しかし確信を込めて言った。
「我らの『価値』は、なにも鋼ばかりではございませぬぞ」
「……わかった。わかったわい!」
ドルグリムは、再び席にどっかりと腰を下ろした。
その目には、もはや侮りの色はなく、未知の文化に対する畏敬と渇望が浮かんでいた。
「もう一度、話をしようではないか。鋼と……そして、その『モロハク』の話をな」
紅雪斎は頷くと、新たな提案を切り出した。
「では、こういたしましょう。我らは、そなたの民に、この『諸白』を定期的に供給することをお約束します。その対価として、ドルグリム殿には、我らにそちらの『技術』をご教授いただき、職人を幾人か、この小田原に派遣してはいただけませぬか」
「なに、技術を教えろだと!?」
「いかにも。物々交換では、いずれまた価値の相違で揉めましょう。なれど、互いの技を教え合い、共に発展する道ならば、末永い付き合いができましょうぞ。無論、そちらが我らの鋼の製法を知りたいと申すなら、それも吝かではない」
技術の交換。それは、ドルグリムのような革新派の職人にとって、何より魅力的な提案であった。
北条家、異世界における最初の外交交渉。
その成否を決めたのは、武力でも、希少な金属でもなく、一献の至高の酒であった。
それは、この世界の誰も知らなかった、日の本の文化という、新たなる力の誕生の瞬間でもあった。
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