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幕間七:女神、幸福のため息

 

 小田原城下に、乾いた冬の光が降り注ぐ。

 先の戦の傷跡は、民の懸命な働きによって、ほとんど姿を消していた。中でも、楽市楽座が開かれた一角は、人の熱気で、冬の寒さを忘れさせるほどの賑わいを見せている。


 その喧騒を、一枚の薄絹で顔を覆っただけの、一人の女性が、静かに見つめていた。

 北条氏政の妻、黄梅院。

 ただ一人の侍女だけを伴った、お忍びでの視察であった。


「奥方様、ご覧くださいませ。皆、良い顔をしております」


 侍女の言葉に、黄梅院は静かに頷く。

 その顔は、喜びと、そして、かすかな戸惑いに彩られていた。


 道を行けば、誰もが彼女に気づき、畏敬の念を込めて、深々と頭を下げる。


「おお、女神様だ……」


「女神様のおかげで、この冬も、腹一杯、米が食えまする」

 八百屋は、店で一番見事な大根を、彼女に捧げようとする。乾物屋は、なけなしの昆布を差し出す。


 彼らにとって黄梅院は、もはや殿の奥方ではなく、この地に豊穣をもたらした、生ける神そのものであった。


 その、あまりに純粋な信仰が、彼女の心をちくりと刺す。


(わたくしは、女神などではございませぬ。ただ、夫とこの地で暮らす人々の、お役に立ちたいと、そう願っただけで……)


 彼女の視線は、市場の光が生み出す、小さな影を捉えた。

 広場の隅。

 故郷の森を追われ、この小田原へとたどり着いたばかりの、若いエルフの一家が、小さな露店を広げていた。


 彼らが売っているのは、月の光を編み込んだかのように美しい、繊細な織物。だが、その見事な品々の前に、足を止める者はいない。この実利を重んじる市場において、彼らの工芸品は、まだその価値を理解されていなかった。


 父親らしきエルフは、気丈に背筋を伸ばしているが、その瞳には、隠しようのない焦りと疲労の色が浮かんでいる。傍らの子供たちの腹が、小さく、きゅる、と鳴るのを、黄梅院は聞き逃さなかった。


 別の場所では、小さな騒ぎが起きていた。

 ドワーフの子供が、がっしりとした体で、人間の子が持っていた木製の独楽を、無理やり奪い取ろうとしている。


「それは、俺が見つけたんだ!」


「僕が先だった!」


 互いの母親が、困惑した顔で、二人をなだめようとしているが、文化の壁が、その仲裁をさらに困難なものにしていた。


 黄梅院は、静かに、ため息をついた。

【豊穣の女神】

 彼女の力は、確かに、この地に、奇跡の米を実らせた。民の飢えを満たした。

 だが、その力は、万能ではない。


 異文化への不寛容を、解かすことはできない。

 幼子同士の、些細な、しかし、根深い諍いを止めることもできない。

 真の「禄寿応穏」とは、なんと遠くなんと人の手でしか築けぬものなのだろうか。


 その時、彼女は決意した。

 女神として奇跡を施すのではない。

 ただ、一人のこの地に暮らす「人」として、為すべきことを為そう、と。


 彼女は、まずエルフの一家が営む露店へと、静かに歩み寄った。

 侍女が、慌てて「奥方様、なりませぬ」と制するのをそっと手で制する。


「……もしもし。その織物、とても、美しいですこと」

 黄梅院の、鈴を転がすような声に、エルフの父親は、驚いて顔を上げた。


「拝見しても、よろしゅうございますか」

 彼女は、その織物を、一枚、手に取る。それは、ひんやりと驚くほど滑らかな手触りであった。


「お値段は、おいくらほど?」


「え……あ……」

 エルフは、まさか、この国の、最も高貴な身分であろう女性に、直接、声をかけられるとは思ってもみなかった。彼は、狼狽しながらも、震える声で、その値段を告げる。


「まあ、お手頃ですこと。では、そこにございますもの、全て、いただけますかしら」

 黄梅院は、にっこりと微笑むと、懐から、小さな絹の財布を取り出した。それは、夫である氏政から、日々の暮らしの足しにと渡された、彼女自身の、ささやかな小遣いであった。


 彼女は、その中から、銀貨を数枚取り出し、エルフの、ためらう手に、そっと握らせた。


「夫の新しい着物を、仕立ててあげたくて。これほど見事な布ならば、きっと、喜ぶことでしょう」

 女神からの「施し」ではない。


 優れた職人への、正当な「対価」。

 その、人間としての、あまりにも真っ当な扱いに、エルフの父親は、言葉を失い、ただ、その場に深く頭を垂れた。その瞳から、一筋の熱い涙がこぼれ落ちるのを、誰にも見せることなく。


 次に、黄梅院は、いがみ合いを続ける子供たちの元へと向かった。

 彼女は、何も言わなかった。


 ただ、その場にそっとしゃがみ込むと、ドワーフの子の、ごつごつとした小さな手と、人間の子の、泥に汚れた柔らかい手を、自らの両手で優しく包み込むように握りしめた。

 その、母親のような温かさ。

 その、言葉を超えた慈愛の眼差し。


 二人の子供は、最初は驚き、やがて、その温もりに、戦うことの馬鹿らしさを感じたのだろう。

 どちらからともなく、ふい、と視線を逸らし、その小さな手から力を抜いた。


 侍女に促され、黄梅院は、夕暮れの市場を、後にする。

 彼女の心は、満たされていた。

 そして、同時に、自らの無力さをも、痛感していた。

 真の安寧とは、なんと手間のかかる、そして、なんと尊いものなのだろう。


 城へと続く坂道を登りながら、彼女は、夕焼けに染まる、愛おしい城下町を見下ろし、幸福なため息を、一つ、ついた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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