第五十章:王の決断
カラク・ホルンで静かなる戦いの火蓋が切られてから、二十日が過ぎていた。
その確定的な報せは、まだ小田原には届いていない。
だが、小田原城の本丸御殿では、一つの情報が、ドワーフ王国の危機を、色濃く予感させていた。
「――以上が、南方、自由都市同盟にて、諜報ギルド『水銀』より得た情報のすべてにございます」
数日前に、長い航海から帰還したばかりの外交僧、板部岡江雪斎は、その少し日に焼けた顔に、旅の疲れも見せず、静かに報告を締めくくった。
彼の前には、北条氏康、幻庵、そして友の身を案じ、心休まらぬ日々を送るドルグリムが座している。
江雪斎は、南の商人たちと「金貨の盟約」という大功を成し遂げただけでなく、その対価として、帝国各地に張り巡らされた諜報網「水銀」が持つ、膨大な情報を持ち帰っていたのだ。
「『水銀』の報せによれば、カラク・ホルンより、外部への鉄製品の輸出が、十日ほど前から、完全に停止している、と。理由は不明なれど、王国上層部で、何らかの深刻な内紛が発生した可能性が高い、とのことにございます」
その言葉に、ドルグリムは「やはり……」と、呻くように呟き、顔を覆った。
間違いない。グレンたちが、ついに動いたのだ。
「彼奴らのことだ。嘆願が聞き入れられず、ストライキに打って出たに相違ない。だが、王の頑固さは、山の岩盤そのもの。このままでは、国が、飢えと混乱で、内側から崩壊してしまう……!」
友の苦悩を前に、幻庵が静かに口を開いた。
「ドルグリム殿。そなたが、かの若者たちに残した『火種』は、決して、無駄にはなるまい。あとは、我らが、いかにして、その火に、風を送るかよ」
議論の全てを聞き届けた氏康が、決断を下す。その声には、揺るぎない確信があった。
「江雪斎」
「はっ」
「休む間もなく、すまぬ。だが、そなたにしか、この役目は果たせぬ。再び、カラク・ホルンへ、使者として赴いてもらう」
氏康は、続ける。
「幻庵の言う通り、これは、風を送るための旅だ。なれど、ただの風ではない。南の商人どもを、その舌先三寸でまとめ上げ、帝国という巨大な熊を、経済で包囲せんとする、その壮大な『世界の風』を、かの孤独な王に、肌で感じさせてやるのだ」
「利で動かぬ相手を、どう『理』で動かすか。それこそ、そなたの真骨頂。存分に、その手腕、見せてまいれ」
「御意。この江雪斎、必ずや、かの山の王の心を、動かしてご覧にいれまする」
江雪斎は、底知れぬ自信をたたえた笑みを浮かべ、深く頭を下げた。
◇
再び、カラク・ホルンの巨大な石の門。
板部岡江雪斎の、あまりに早い再訪は、王国全体に、前回とは比較にならぬほどの衝撃を与えた。
閉ざされた工房の扉の向こうで、グレンら革新派は、その報に「我らの声が、届いたのか……!」と、一縷の希望を見出す。
王城の伝統派の長老たちは、「人間の増長、ここに極まれり!」と、怒りを露わにした。
江雪斎は、まず、ストライキを続けるグレンたちと秘密裏に会見した。
彼は、若きドワーフたちの、そのやつれた顔と、決して折れていない瞳の光をしかと見届けると力強く言った。
「見事であった、若き獅子たちよ。そなたたちの沈黙の戦いは、この山を、内側から、確かに揺り動かしている。ドルグリム殿も、幻庵殿も、そなたたちの覚悟を、心から誇りに思っておられたぞ」
その労いの言葉は、二十日間、孤立無援で戦い続けてきた彼らの心を、どれほど救ったことか。グレンは、ただ、言葉もなく涙を流すしかなかった。
そして、江雪斎は供も連れず、ただ一人王城の玉座の間へとその歩みを進めた。
玉座で、一人、孤独に苛まれていた国王ブロックは、江雪斎の姿を認めると、その黒曜石の瞳に、怒りと狼狽の色を浮かべた。
「……また、来たか、人間の賢しら者め! 我らの、この無様な醜態を、高みから見物しに来たか!」
「滅相もございません、偉大なる王よ」
江雪斎は、深々と一礼すると、単刀直入に本題を切り出した。
それは、幻庵がしたであろう、魂の対話ではなかった。南の大海を渡り、世界の広さを知った、冷徹な外交官の「現実」であった。
「陛下。貴方が、この神聖なる山の中で、五千年の伝統を守り続けておられる、まさにその間。外の世界は、帝国という巨大な影に、覆われつつあります」
江雪斎は、南の商人たちが、帝国の経済的圧力に、いかに苦しめられているか。
西の人間国家が、帝国の軍事力を背景に、いかに傲慢な振る舞いを繰り返しているか。
そして、その帝国が、北条家を「異端」と断じ、いずれこの大陸全土を巻き込む「聖戦」を引き起こそうとしている、その動かぬ事実を、淡々と否定しようのない説得力で語っていく。
「陛下。このまま、貴国が、ただ沈黙を守り続ければ、どうなるか。やがては、世界の大きなうねりから完全に取り残され、帝国に、その喉元を、やすやすと食い破られるだけでございましょう」
「我ら北条と手を組むことは、ただの技術交流にあらず。それは、この激動の時代において、貴国が、ドワーフという偉大なる種族の『独立』を、未来永劫、保ち続けるための、唯一にして、最善の道にございます。……ドルグリム殿の言う『革新』とは、伝統を捨てることではない。伝統を『守る』ためにこそ、必要なのです」
ブロック王は、何も言い返せなかった。
江雪斎が語る「世界の現実」は、彼の、山の中だけで完結していた常識を、粉々に打ち砕いた。
そこへ、江雪斎は、最後の一撃を無慈悲に放つ。
彼は、懐から、小さくずしりと重い一つの鋼の塊を取り出した。
幻庵が、小田原の最高の職人と共に、夜を徹して打ち上げた、奇跡の合金の試作品。
「陛下。これは、貴国の『魂』と、我らの『魂』が、手を取り合った時に生まれる、未来の輝き。この鋼で打った盾は、あるいは、帝国の騎士が放つ、いかなる魔法の槍さえも、弾き返すやもしれませぬ」
ブロック王は、その、あり得ない輝きを放つ合金を、震える手で受け取った。
その重さ。その輝き。
それは、彼が守ろうとしてきた伝統の、その遥か先にある、抗いがたい希望の光そのものであった。
経済の崩壊。民の悲鳴。同胞の対立。
そして、目の前の人間が突きつけた、世界の冷徹な現実と、眩いばかりの未来の可能性。
長い沈黙の後。
ブロック王は、天を仰ぎ全てを諦めたかのように、深く長いため息をついた。
それは、五千年の誇りが、ついに折れた音であった。
いや、違う。
民を想う、一人の王が、自らの誇りよりも、民の未来を選んだ、偉大な「決断」の音であった。
「……わかった。もう、よい」
王のかすれた声が、だだっ広い玉座の間に静かに響いた。
「その、技術者交換協定とやら、結んでやろう。……ただし、一つだけ、覚えておけ、人間」
王は江雪斎を、その黒曜石の瞳で真っ直ぐに、睨みつけた。
「――我らドワーフの魂、決して、安く売り渡すと思うなよ」
その日の午後。
カラク・ホルン中に、王の決断を告げる角笛の音が、高らかに鳴り響いた。
それを合図に、二十日間、固く閉ざされていた、鍛冶ギルドの工房の扉が、ゴゴゴゴゴ、という、地響きのような音を立てて、ゆっくりと、開かれていく。
そして、一つまた一つと、工房の炉に新たな希望の火が、力強く灯されていった。
カラク・ホルンに、確かな変革の風が吹き始めた瞬間であった。
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