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第四十九章:炉の火、消えるとき

 その日、地下王国カラク・ホルンは、死んだかのように静かな朝を迎えた。


 ドワーフの民が、その頑強な肉体に生命を刻み込まれて以来、五千年。一日たりとも止んだことのない音が、止んでいた。 夜明けと共に始まる無数の槌音。


 大地の奥底から響く、大溶鉱炉「ヴォルンヘイム」の力強い呼吸。鉱石を運ぶトロッコの軋みと、職人たちの怒声。 カラク・ホルンの血潮ともいえる全ての音が、王国の心臓が鼓動を止めたかのように、消え失せていた。


「……どうしたというのだ? 寝過ごしたか?」

 大通りに面した酒場の主は、店の扉を開け放ち、そのあり得ない静けさに首を傾げた。


 いつもならば早朝から工房へ向かう職人たちの力強い足音で道が埋まるはずなのに、今は閑散としている。 衛兵たちも持ち場で不安げに顔を見合わせていた。彼らの命ともいえる斧や鎧は日々の酷使で綻びが生じている。それを修繕してくれるはずの職人たちが、誰一人として工房から出てこない。


 異変に気づいた民が一人、また一人と家から顔を出し、そのざわめきは首都ヴォルンヘイムの隅々へ広がっていく。


  全ての視線が、この国の富と力の源泉、鍛冶ギルドの工房群へと向けられる。 だが、そこに立ち上る煙はなく、炉の赤い光も見えない。 ただ、全ての工房の分厚い鉄の扉が固く閉ざされているだけ。


 そして、その中央、ギルドマスターの工房の扉に、一枚の大きな羊皮紙が、無骨な鉄の釘で打ち付けられていた。 そこに力強いルーン文字で刻まれていたのは、あまりにも簡潔な、王国全体への揺るぎない挑戦状であった。


『――王が我らの声を聞くまで、我らは槌を置く。 鍛冶ギルド』


 その報せは、地下空洞を吹き抜ける風よりも速く、王城へと駆け巡った。


 ◇


「……若造どもが、癇癪を起こしたか」

 玉座の間。国王ブロック・アイアンフィストは、衛兵隊長からの報告を、石が擦れるような低い音を喉で鳴らして、一蹴した。


 その黒曜石の瞳に、焦りの色はない。むしろ、自らの権威に逆らった愚かな子供たちを、どう躾けてやろうかという、侮蔑の色が浮かんでいた。


「陛下のおっしゃる通り。一日もすれば、鉄を打ちたくて手が震えだしましょう。放っておかれませ」

 玉座の脇に控える、化石のごとき長老の一人が、しわがれた声で同意する。


「いや、それでは示しがつかん」

  ブロック王は玉座から立ち上がった。その威容は、不動の山そのものであった。


「衛兵隊長よ。兵を率い、ギルドの門をこじ開けよ。そして、首謀者たるグレンという小僧を、我が前に引きずり出してまいれ。王への反逆がいかなる罪か、その体で思い知らせてくれるわ」


 王の、傲慢な命令。だが、その結末は、彼の威信をさらに傷つけるだけに終わった。 衛兵隊が、工房の扉を破城槌で破壊しようと試みる。だが、ギルドの職人たちが、この時のために内側から技術の粋を尽くして補強し、魔法のルーンで封印した鉄扉は、びくともしない。破城槌は、甲高い音を立てて無様に弾き返されるだけだった。


 力での鎮圧が失敗したという報せに、ブロック王は、初めてその眉間に深い皺を刻んだ。 だが、本当の悪夢は、まだ始まったばかりであった。


 ◇


 ストライキが始まって三日。 王国の経済は、目に見えて麻痺し始めていた。


「王よ! お考え直しくだされ! 我が隊の斧は刃こぼれし、盾は歪んだままにございます! このままでは、ゴブリンどもの襲撃があった際、防衛に支障をきたしますぞ!」 衛兵隊長の声は、もはや懇願ではなく、悲鳴に近かった。


 五日。 「陛下! 地下農場で使う鋤や鍬の納品が、止まっております! このままでは次の収穫は半分以下になりましょう! 民が、飢えますぞ!」 農事監督官の顔から、血の気が失せていた。


 そして、十日。 評議会の間に、商人ギルドの長たちが、怒号と共に雪崩れ込んできた。


「陛下! これは、どういうことでございますか! 隣国の人間たちへ納める工芸品の約束が、反故になっております! このままでは、カラク・ホルンの信用は地に落ちますぞ!」


「そうだ! 我らは多額の契約金を受け取っている! この損失は、一体誰が補填してくださるのだ!」


 ブロック王は、その突き上げる要求の奔流に、ただ「黙れ!」と怒鳴り散らすことしかできなかった。 彼の足元で、五千年守り続けてきた王国の礎が、静かに、確実に腐り落ちていく。その音を、彼は聞かないふりをすることしかできなかった。


 ◇


 ストライキ開始から、十五日目。

 ヴォルンヘイムの大通りは、もはや、戦場と化していた。


「いつまで、こんな茶番を続ける気だ! お前たちのせいで、俺の子供が、飢え死にしそうだぞ!」

 伝統を重んじる、年配の職人たちが、閉ざされた工房の扉の前で、ストライキを続ける若者たちを、激しく罵倒していた。


「王に逆らうなど、ドワーフの風上にも置けぬ! 恥を知れ、反逆者どもめ!」

 それに対し、工房の屋根に陣取ったグレンが力強く言い返す。


「反逆者ではない! 我らは、この国を愛するが故に、こうしているのだ! 親方衆こそ、目をお覚ましなされ! 貴方がたが守ろうとしているのは、伝統ではない! ただの、古びた、王の『誇り』だけではないか!」


「何をォ!」

 一人の、血気にはやる伝統派の職人が、ついに、グレンたちに向かって、手にしていた槌を投げつけた。


 一触即発。

 暴力と、内乱の、寸前。


 その時、二つの勢力の間を割って入るように、一人の、巨大な体躯を持つドワーフが、ゆっくりと姿を現した。それは、衛兵隊長であった。だが、彼は、武器を構えてはいない。ただ、悲痛な顔で、両者を見比べている。


「……やめてくれ。頼むから、もう、やめてくれ」

 彼の声は、懇願であった。


「俺たちは、皆、この山で生まれ、この山で死ぬ、同胞ではないか。なぜ、こんな……。王も、お前たちも、どちらも、もう、後へは引けぬことはわかっている。だが、このままでは、国が、二つに割れてしまう……!」

 その、魂からの叫び。


 それが、両者の、振り上げた拳を、辛うじて、押しとどめた。

 暴力こそ起きなかったが、カラク・ホルンを五千年支えてきた「結束」という名の柱に、もはや、修復不可能なほどの、深い亀裂が入ったことを、その場にいた誰もが、痛感していた。


 その夜。王城では、ブロック王が、一人、玉座の間で酒を煽っていた。

 もはや、彼の前に、苦言を呈する長老の姿はない。彼らでさえ、この事態を収拾する術を持たず、自らの工房に引きこもってしまったのだ。


(……なぜだ。なぜ、わしが、間違っているというのだ)

 彼は、己の信じる正義が、わからなくなっていた。

 伝統を守り、祖先の誇りを守ること。それが、王としての、唯一の務めではなかったのか。


(ドルグリム……。あの男が、全ての元凶か。いや……)

 彼の脳裏に、あの人間たちの使節、江雪斎の全てを見透かすような瞳がよぎる。


『山と川、どちらが尊いのでございましょうか』


(……わからぬ。わしには、もう、何も、わからぬ……)

 王は、空になった酒瓶を、床に叩きつけた。その、空虚な音だけが、彼の孤独を、際立たせていた。


 ◇


 同じ頃。固く閉ざされた、鍛冶ギルドの、最も奥の工房。

 グレンは、炉の火が消え、氷のように冷え切った金床を、じっと見つめていた。


 仲間たちは、皆、疲れ果て、それぞれの持ち場へと戻っている。この先の見えない戦いを主導する、彼の孤独は、奇しくも玉座で一人酒を煽る王のそれと、どこか似ていた。


 彼は、工房の壁に掛けられた、一枚の古いタペストリーに、視線を移す。そこには、ドルグリムが、若い頃に描いたという、このカラク・ホルンの未来予想図が、色鮮やかに織り込まれていた。


 それは、ただ閉ざされた地下の王国ではない。空飛ぶ船が、エルフの森や、人間の港町と、活発に行き交う、夢のような光景であった。


「ドルグリム様……」

 グレンは、まるで、祈るように呟いた。


「我らは、貴方の教え通り、槌を置きました。我らは、沈黙を以て、我らの意志を、この山に示しました。ですが……この、声なき戦いは、一体、いつまで続くのでしょうか」

 彼の脳裏に、日中の、同胞と睨み合った、あの痛ましい光景が蘇る。そして、日に日に、その輝きを失っていく、民の顔が。


「この山の民が、本当に、飢えと、絶望に屈してしまう前に……」

 グレンは、工房の、小さな天窓を見上げた。


 そこから見えるのは、地の底の闇ではなく、はるか上空、大山脈の頂を取り巻く、冷たく、そして、遠い星々の輝きだけであった。


「貴方が示した『新しい風』は……本当に、この、地の底まで、届くのでしょうか……」

 炉の火は消えた。

 ドワーフの国の長くて暗い夜は、まだ明ける気配を見せなかった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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