第四十七章:エルフ、若葉の旅立ち
帝国の暗殺騎士「黒薔薇」の影。そして、彼らが仕掛けてくる「聖戦」という、底知れぬ狂気。
小田原城にもたらされた、その重苦しい真実は、北条家が、これまでとは比較にならぬ、より大きく、より根源的な敵と対峙していることを容赦なく突きつけていた。
冬の寒さが、城下に深く染み渡る。だが、その水面下では、次なる春に備えるための、新たな種が力強く芽吹こうとしていた。
その日の評定は、秘密裏に、そして、限られた者だけで行われた。
上座には、不動の氏康。その脇に、氏政、幻庵、そして、影の頭領たる風魔小太郎。
下座には、二人のエルフが、緊張した面持ちで座している。森を捨てた改革派のリーダー、“風渡り”のエルウィンと、北条家とエルフの架け橋となった、リシアであった。
「――父上。エルウィン殿より、新たなる申し出がございました」
氏政が、その場の口火を切った。
エルウィンは、顔を上げるとその美しい決意に満ちた瞳で、氏康を真っ直ぐに見据えた。
「氏康殿。我らが同胞、シルヴァナールの森に住まう若きエルフたちの間で、もはや長老会への不満は、抑えきれぬところまで来ております」
彼の声は、静かだがその底には抑えきれない熱がこもっていた。
「彼らは、古い教えに縛られ緩やかな滅びを待つよりも、この小田原で新たな未来を自らの手で掴むことを望んでいる。その数、既に数百。彼らを、この地へ安全に導くための、お力添えをお願いしたいのです」
それは、あまりにも大胆で危険な提案であった。
一つの国家からの、集団亡命の幇助。これは、エルフの国に対する、明確な敵対行為に他ならない。
氏政が、案じるように口を挟む。
「エルウィン殿、だが、それは、エルフの長老会を、完全に、我らの敵に回すことになりはしないか。今は、帝国という大敵を前に、慎重になるべき時では……」
「いいえ、氏政様」
今度は、リシアが、強い意志を込めて言った。
「長老会は、我らが何もしなくても、いずれ、帝国側に付くでしょう。彼らは、変化そのものを、悪と断じる方々。我らのような『異物』を受け入れることは、決してありません。ですが、若者たちは違う。彼らは、この小田原に、真の希望を見出しているのです」
エルウィンが、その言葉を引き取った。
「彼らは、ただの難民ではございません。我らエルフは、生まれながらの、弓の名手。そして、森の知恵と、精霊の力を操る者。我らを、一つの『力』として、受け入れてはいただけぬでしょうか。我らは、北条家の、帝国を射抜く、最も鋭き『矢』となることを、お誓いいたします」
広間に、沈黙が落ちる。
氏康は、静かに目を閉じていた。
彼は、リスクを計っていた。エルフの国との、全面的な対立。だが、それと同時に、数百名の熟練した魔法弓兵が、一挙に自軍に加わるという計り知れない利益をも。
やがて、彼は、ゆっくりと目を開くと、その視線を、広間の隅、影のように控える風魔小太郎へと向けた。
「……小太郎」
「はっ」
「できるか。エルフの国の、厳しい監視の目を潜り抜け、数百の若人を、この小田原まで、一人として欠かすことなく導くことが」
その問いに、小太郎は、仮面の下で何を思うこともなく、ただ事実として、絶対的な自信を込めて短く答えた。
「……御意。この森は、もう我ら風魔の庭にございますれば」
「――よかろう」
氏康は、決断した。
「エルウィン殿。そなたの覚悟、しかと受け取った。北条家は、未来を求めこの地を目指す全ての若きエルフを、新たな民として歓迎しよう。……小太郎、準備に取り掛かれ」
それは、武力でも銭でもない。
「希望」そのものを餌として、他国の未来を、根こそぎ奪い取るという、北条氏康の、恐るべき深謀遠慮が、動き出した瞬間であった。
◇
数週間後。シルヴァナールの森は、冬の静かな眠りについていた。
だが、その静寂の裏で風が秘密の言葉を運んでいた。
風魔の忍たちは、もはや人の形をしてはいなかった。ある者は、森の木々と同化し、ある者は、川の流れに溶け込み、またある者は、一羽の夜鳥となって、長老会の監視網を、嘲笑うかのように、飛び越えていく。
彼らが運ぶのは、暗号。
エルウィンの仲間たちだけが理解できる、特別な合図であった。
とある村では、若い女エルフが、自らの部屋の窓辺に、一輪だけ、季節外れの月光花が置かれているのを見つける。それは、「準備は整った」という合図。
別の集落では、若い男エルフが森の狩りの途中、古びた大樹の幹に見慣れぬ紋様が、浅く刻まれているのを発見する。「今宵、月の最も高き時」という、決行の刻を示す合図。
合図を受け取った若者たちは、人知れず旅の支度を始めた。
代々受け継いできた、白樺の弓。母が織ってくれた、刺繍入りの旅衣。そして、故郷の、森の土を一握り小さな革袋に詰める。
彼らは、愛する家族に、友人たちに、そして、生まれ育った美しい森に声なき別れを告げた。その瞳には、悲しみと、それを上回る、未来への強い決意の光が宿っていた。
これは、ただの家出ではない。
古き世界を捨て、新たな世界を、自らの手で築くための、世代を挙げた「旅立ち」であった。
◇
月さえも、その姿を雲に隠した真の闇夜。
シルヴァナール連邦の国境近く、いくつかの秘密の集合地点に、若きエルフたちが、息を殺して集結しつつあった。その数、合わせて三百を超えていた。
彼らを導くのは、黒装束に身を包んだ、風魔の忍たち。
「……静かに。この先、長老会の『森の守り手』の、巡回が最も厳しい場所だ」
風魔の小頭が、囁き声で警告する。
その言葉通り、遠くの森の闇から松明の光と、エルフたちの話し声が微かに聞こえてきた。
全員が、その場に身を伏せる。
だが、一人のまだ幼いエルフの少女が、恐怖のあまり小さな嗚咽を漏らしてしまった。
まずい、と誰もが思った、その瞬間。
森の全く違う方向から、一声、甲高い物悲しい獣の鳴き声が響き渡った。それは、この森にしか生息しない、夜行性の珍しい獣の求愛の鳴き声であった。
「……なんだ?」
「今のは、月光鹿か。珍しいな。見に行くか」
巡回のレンジャーたちの興味が、完全にそちらへと逸れていく。彼らの気配が、遠ざかっていくのを確認し、風魔の小頭は静かに合図を送った。
「――今だ。行け」
いくつもの、息詰まるような危機を乗り越え、ついに一行はシルヴァナールの森と外の世界を隔てる、最後の川へとたどり着いた。
彼らが、振り返って見た郷の森は、ただ巨大な黒い影となって、黙って彼らを見下ろしているだけだった。
もう戻れない。
若きエルフたちは、その事実を胸に、決意を新たにし、冷たい冬の川を渡り始めた。
◇
数日後。小田原城の練兵場。
そこには、旅の疲れは見えるものの、その瞳に、希望と確かな誇りを宿した、三百の若きエルフたちが、整然と整列していた。
彼らを迎えるのは、北条氏康、氏政、そして主だった将たち。
エルウィンが、一歩前に進み出た。
彼は、まず自らが率いてきた同胞たちに向き直り、高らかに宣言する。
「皆、聞け! 我らは、古き森を捨てた! 我らは、今日この時より、ただのエルフではない! 新たな国を、その手で築き上げる、誇り高き、小田原の民となるのだ!」
そして、彼は、氏康の前に進み出ると、深くその膝をついた。
「――氏康殿! 我らは、故郷を捨て、貴殿の掲げる『禄寿応穏』の旗の下へと馳せ参じました! 我らが弓を、我らが魔法を、そして、我らが命を、貴殿に捧げることを、ここに誓います! どうか、我らを貴殿の、最も鋭き『矢』として、お使いください!」
その言葉に呼応するように、三百のエルフたちが、一斉にその場に膝をつく。それは荘厳で歴史が大きく動いたことを示す光景であった。
「顔を上げよ、小田原の新たな民よ」
「そなたたちの覚悟、しかと、受け取った。これより、そなたたちを、北条軍が、新たなる独立部隊として、正式に認める。その名を――『エルフ魔法弓兵部隊』とする!」
◇
その凶報の詳細が、生命樹の都イグドラシオンの、長老会議長ロエリアンの元へともたらされたのは、それから、さらに数日後のことであった。
集団脱走の最終的な規模を知り、彼は、怒りのあまり、その手にしていた、数千年の時を刻んだ白樺の杖をへし折った。
「……裏切り者どもが……!」
ロエリアンの底なしの憎悪に満ちた声が広間に響く。
「あの人間どもは、我らが森から若者たちを、その未来を根こそぎ奪い去っていった……!」
彼の、人間への侮蔑は、今、決して消えることのない絶対的な敵意へと、その姿を変えた。
「全氏族に通達せよ。東の人間国家『オダワラ』、及び、そこに与する全ての者を、我がシルヴァナール連邦が未来永劫許すことのできぬ不倶戴天の敵と、ここに、定める、と」
北条家が、知らぬ間に手に入れた、新たな力。
そして、知らぬ間に生まれた、新たな強大な敵。
世界の歯車は、もはや、誰にも止められぬ速度で、次なる、より大きな戦乱へと向かって回り始めていた
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