第四十六話:影の死闘、風魔の血涙
冬の陽光が、小田原の城下に落ちる。その光は、市場の喧騒と、そこに満ちる生命の熱気を照らし出していた。北条が目指す「禄寿応穏」が根付き始めたことを示す、希望の縮図。
だが、その光の裏には、常に影が潜む。
旅の絵師を装う男――黒薔薇騎士団が放った「棘」の一人、ヴァレリウスは、その賑わいを、冷徹な目で写し取っていた。
彼は、自らが風魔の忍に監視されていることに、最初から気づいていた。屋根の上、不自然に鳴き止んだ鳥。路地の角、一瞬だけずれた影。それは、この街に張り巡らされた、蜘蛛の巣の微かな震えであった。
(……三匹か。この街の蜘蛛は数が多い。だが、巣にかかる蝶が、いつも無力だと思うなよ)
その夜、ヴァレリウスは、わざと人通りのない倉庫街へと足を踏み入れた。
月明かりだけが、背の高い建物の間に、幾何学的な光と影の通路を作り出している。
彼を追っていた三つの影が、音もなくその形を変えた。一つは屋根の闇に溶け、一つは水路の暗がりに沈み、一つは彼の退路を断つように、道の入り口の影そのものと化した。熟練の連携。完璧な包囲。
だが、ヴァレリウスは、それを待っていたかのように、振り返った。その口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「――神の光よ、我が眼となれ」
懐の聖印を握りしめた瞬間、彼の体から指向性の閃光が放たれた。それは攻撃魔法ではない。暗闇に慣れた者たちの網膜を、内側から焼き切るためだけの、純粋な光の暴力。
視界を白に染められ、三半規管を焼かれた忍たちの動きが、一瞬、止まった。
その、一瞬が、生死を分けた。
ヴァレリウスの剣が、闇を切り裂く。それは、舞うようなエルフの剣でも、剛剣で鳴るドワーフの斧でもない。ただ、最短距離で、人体の急所を的確に貫くためだけの、帝国式の、無慈悲な剣技。
悲鳴を上げる間もなく、二つの影が、崩れ落ちた。
残った一人が、決死の覚悟で煙玉を叩きつける。黒い煙が、月明かりを遮断した。その隙に、深手を負った影は、命からがら闇へと消えた。
ヴァレリウスは、深追いはしない。
彼は、倒した忍の亡骸を見下ろし、その胸に、一輪の黒い薔薇の紋章が描かれたカードを置いた。そして、静かに十字を切る。
「神に背く影は、光の下で滅びる。これが、理だ」
◇
風魔忍軍の隠れ家は、氷の静寂と、抑えられた怒りに満ちていた。
頭領である風魔小太郎の前には、無残な亡骸と化した、二人の部下の姿。そして、生き残った者も、事の顛末を報告し終えると、その場で息絶えた。
小太郎は、部下の胸に置かれていたという、黒い薔薇のカードを、指先で弄ぶ。
その、仮面の下の瞳が、これまでにない、冷たい炎を宿した。
「……霞」
「は」
闇の中から、小太郎の腹心であるくノ一の霞が、音もなく姿を現す。
「奴は、ただの密偵ではない。我らと同じ、影に生きる者。いや、影を狩ることを専門とする、『狩人』だ。……そして、奴はまた動く。今度は、より大きな獲物を求めてな」
小太郎は、自らがその「獲物」になることを決意した。これは、もはや捕縛任務ではない。風魔の頭領として、殺された仲間たちのための、復讐戦であった。
「狩人を狩るには、狩人自身が、傷ついた獲物になるしかない」
その言葉は、この蜘蛛の巣の、新たな主が決まったことを告げる、静かな号令であった。
◇
数日後。小太郎が仕掛けた、蜘蛛の巣がその獲物を捉えた。
彼が不満分子を装い流した「異界式当世具足の弱点」という偽の情報。ヴァレリウスは、それが罠である可能性を承知の上で、しかしその情報の価値を捨てきれず、単身、城の西にある古い鉱山へ姿を現した。
鉱山の入り口は、獣の喉笛のごとき闇を広げ、冷たい風が朽ちかけた木材の間を、死者の口笛のように吹き抜けていた。
ヴァレリウスは、その闇の中へ足を踏み入れる。
入り口付近に仕掛けられた、原始的な糸の罠。月明かりに照らされ、素人の仕事であるかのように鈍く光る。
「ふん、子供の悪戯か」
嘲笑と共にそれを無効化した瞬間、彼の全身の産毛が逆立った。頭上、闇の中から巨大な岩を吊るした網が、無音で落下してくる。糸の罠は、彼の注意を上に向けさせないための「餌」。
「――甘い!」
ヴァレリウスは、コンマ数秒で後方へ跳躍し、それを回避する。岩が地面に叩きつけられ、轟音と衝撃が坑道を揺らした。その額に、初めて冷や汗が浮かぶ。
「……なるほど。ただの蜘蛛ではないらしい」
彼は、さらに深く鉱山の奥へ進む。闇の中、小太郎は音で彼の心理を揺さぶった。遠くの坑道で、石が一つ、からん、と音を立てる。反響するその音が、ヴァレリウスの警戒心を極限まで高めさせた。
ついに、最深部の、開けた空洞。
天上の穴から差し込む月光が、舞台の照明のように、一人の男の異形の姿を照らし出していた。
「――待っていたぞ、帝国の『棘』よ」
息詰まる死闘が始まった。
ヴァレリウスが聖印を翳し、指向性の閃光を放つ。だが、小太郎は予め壁に塗り込んでおいた光を吸収する特殊な泥の前で、その効果を減殺した。闇に慣れた目で、小太郎が放つ無数の手裏剣。ヴァレリウスは、それを騎士剣で的確に弾き返す。火花が散り、甲高い金属音が、二人の間の見えざる攻防を物語っていた。
だが、戦いの主導権は、常に小太郎にあった。彼は戦っているのではない。巨大な蜘蛛が巣に獲物を誘い込むように、ヴァレリウスを、この空洞の特定の一点へと、執拗に追い込んでいた。
「小賢しい真似を!」
業を煮やしたヴァレリウスは、防御を捨て、必殺の一撃を放つべく大きく踏み込んだ。
小太郎は、それを待っていた。あえて、その剣を腕で浅く受ける。
肉を裂く鈍い音。鮮血が舞い、小太郎は苦悶の声を上げて鉱山の壁際へと吹き飛んだ。
好機。ヴァレリウスは勝利を確信し、とどめを刺さんと、最後の、最大の一歩を踏み出した。
それこそが、小太郎が仕掛けた最後の引き金であった。
ヴァレリウスが力強く踏みしめた地面。それは、巧妙に偽装された巨大な落とし穴の蓋。
壁に叩きつけられたと見せかけた小太郎は、その衝撃を利用し、壁に仕込んでいた罠を発動させるための、最後の楔を打ち込んでいたのだ。
「なっ……!?」
轟音と共に、ヴァレリウスの足元の地面が崩落する。
なす術もなく、彼は闇の底へとその身を飲み込まれていった。その、驚愕に見開かれた目に映った最後の光景は、腕から血を流しながらも、ただ静かに自分を見下ろす、鬼の仮面の、冷たい双眸であった。
◇
落とし穴の底で、足を砕かれ、動けなくなったヴァレリウス。その首筋に、小太郎の、冷たい『無明』の刃が、ぴたりと当てられた。
だが、小太郎が尋問を始めようとした、その瞬間。
ヴァレリウスは、捕らえられた屈辱に顔を歪めるのではなく、狂信的な笑みを浮かべた。
「……見事だ、影の者よ。だが、我が魂に、触れることはできぬ」
彼がそう言った刹那、彼は、自らの奥歯に仕込んでいた、強力な毒薬を、躊躇なく噛み砕いた。
泡を吹き、全身を激しく痙攣させながら、ヴァレリウスは、最後の力を振り絞り、小太郎を睨みつける。
「――聖戦は、始まったばかりだ……」
その言葉を最後に、彼は絶命した。小太郎の目の前に残されたのは、問いかけるべき相手を失った、沈黙の勝利だけであった。
◇
小田原城、本丸御殿。
その日の評定は、これまでにない、重苦しい空気に満ちていた。
氏康、氏政、幻庵、そして、南の自由都市同盟より帰還したばかりの、板部岡江雪斎が、傷の手当てを受けた小太郎の報告を、厳しい表情で聞いていた。
小太郎が、ヴァレリウスが残した、黒い薔薇のカードを、静かに畳の上へと置く。
幻庵が、そのカードを手に取ろうとした、その時。
「お待ちくだされ」
鋭い声でそれを制したのは、江雪斎であった。
「江雪斎殿。何か、心当たりが?」
氏康の問いに、江雪斎は深く頷いた。
「はっ。南の商人国家にて、諜報ギルド『水銀』と交わした密約の中に、これに酷似した物の記述がございました」
江雪斎は、記憶をたどるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「『水銀』によれば、この、深海の魔物の皮を鞣したという、魔法を弾く羊皮紙。そして、インクに混ぜられた、星の光を宿すという、希少な鉱石の粉。これらは、帝国の、教皇庁の中でも、特に、枢機卿が直轄する『異端審問所』、そして、その実行部隊である『黒薔薇騎士団』のみが使用を許された、特別な素材である、と」
江雪斎の報告に、評定の間が、息を呑む。
幻庵は、ヴァレリウスが懐に忍ばせていた、教会の聖印を、手に取った。
彼は、目を閉じ、【神祇感応】の力を解放する。
彼の魂に流れ込んできたのは、突き刺すような、絶対的な「拒絶」の感覚。
「……小太郎よ。この聖印は、歪んでおる。本来、神の慈愛が宿るべきマナが、全く逆の、不寛容で、排他的な、凍てつくような『意志』に、完全に塗り替えられておる」
「それは、神を信じる者の、温かい心ではない。己の信じる『正義』以外、全てのものを『悪』と断じ、根絶やしにせんとする、狂信者の、冷たい炎じゃ」
物理的な証拠と、霊的な洞察。
二つの情報が、一つの、恐るべき結論を示していた。
氏康は、それらの報告を、静かに聞き届け、そして、重い確信を込めて、告げた。
「……そうか。奴らの狙いは、領土ではない。我らの、この『禄寿応穏』という、国のあり方、そのものを、地上から消し去ることにあるのだ」
「これは、国家間の戦争ではない。決して、和解することのない、思想と、思想の、殲滅戦ぞ。――すなわち、『聖戦』よ」
その言葉の、本当の重みを、小太郎は、失った仲間たちの顔を思い出しながら、骨の髄まで理解する。
北条家は、勝利した。だが、得られたのは、敵の、底知れぬ狂気と、これから始まる、終わりなき戦いの、確かな予感だけであった。
小太郎の、仮面の下の瞳が、仲間を殺した者への怒りから、より大きく、より冷たい、この国を狙う全ての影を狩り尽くさんとする、覚悟の色へと変わっていった。
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