第四十五話:帝国の影、動く
旧レミントン領が、北条家の実質的な支配下に置かれたという報せは、風の便りよりも速く大陸を西へと駆け巡った。そして、その報せは大陸中央に座す、巨大な権力の中心地へと、重い不吉な影を落としていた。
神聖帝国の首都、ルーメン。
天を突く白亜の大聖堂、その最奥。ステンドグラスから差し込む、色とりどりの光が、巨大な大陸地図を広げた黒檀の机を、厳かに照らし出している。
だが、その部屋の空気は、神聖さとは程遠い、氷のような冷たさに満ちていた。
「――以上が、東の辺境よりの、最終報告にございます」
一人の聖職者が、震える声で報告を終え、深々と頭を下げる。
部屋の主、枢機卿ロデリクは、背を向けたまま、何も答えなかった。
ただ、その深紅の法衣に包まれた指先が、地図の上、東の果てに記された「レミントン」の文字を、ゆっくりと、なぞるだけだった。
辺境伯の失脚。竜騎士団の壊滅。
それは、確かに、帝国にとって手痛い損失であった。だが、ロデリクの心を、真に揺さぶっていたのは、そのような、世俗的な軍隊の勝ち負けではなかった。
報告書に記された、最後の、そして、最も重要な一文。
『かの異端の王、ホウジョウ・ウジヤスは、捕虜としたサー・ゲオルグを、暫定統治代官に任命。かの地の再建を、その手に委ねた』と。
「……愚かなことだ」
ロデリクが、初めて、低い声で呟いた。
「世俗の者どもは、ただ、目に見える城の獲り合いにしか、興味を示さぬ。だが、問題の本質は、そこではない」
彼は、ゆっくりと振り返った。
その彫像のように整った顔には、何の感情も浮かんでいない。だが、その瞳の奥には、狂信と、そして、冷徹な知性が、底なしの闇のように、渦巻いていた。
「奴らは、獣と手を取り、民に等しく富を与えようとしている。それは、神が定めた、この世界の序列――支配する者とされる者、富む者と貧しき者、聖なる者と穢れた獣――その神聖な秩序そのものを、根底から破壊する、甘美な『毒』だ」
ロデリクは、卓上に置かれた黒い小さな鈴を、指先で、ちりん、と鳴らした。
甲高い、死を思わせる音。
その音が消えぬうちに、部屋の最も深い影が、ゆらりと人の形をとった。
漆黒の、薔薇を模した禍々しい鎧。一切の光を反射しない仮面の下に、感情はない。
「黒薔薇騎士団、団長。御前に」
その声は、墓石が擦れる音のようであった。
「団長。東の辺境に、神を恐れぬ、新たな異端の巣が生まれた」
ロデリクの声は、静かであった。だが、その一言一言が、礼拝堂の空気を凍らせていく。
「奴らの『正義』は、我らのそれとは違う。奴らは武力で征服しない。パンと秩序で、人の魂を支配するのだ。飢えた者に粥を与え、怯える者に偽りの安寧を与える。そうして、民の心から神への信仰心を、静かに、確実に抜き去っていく。これこそ、最も危険で、悪質な異端のやり方よ」
彼は、黒薔薇騎士団長に、新たな命令を下す。
その声は、もはや教会の指導者のものではない。異端を根絶やしにするためならば、いかなる手段も厭わぬ、冷徹な戦略家の響きを帯びていた。
「そなたの最も優秀な『棘』を、数名、かの『オダワラ』へ送り込め。目的は戦闘ではない。破壊工作でも、暗殺でもない」
ロデリクは、大陸地図の上に置かれた辺境伯領を示す駒を、指先でゆっくりと倒した。駒は、乾いた音を立てて地図の上に転がる。
「――奴らの『正義』の、綻びを探し出してまいれ」
「必ずあるはずだ、理想国家の、醜い膿が。法の光が届かぬ場所で泣いている者が。新たな秩序に不満を抱く者が。与えられた富に飽き足らず、さらなる欲を求める者が」
「その、小さな不満の種を見つけ出し、我らが力で育て、白日の下に晒し、帝国全土に知らしめるのだ。……さすれば、民衆が、自らの手でその異端の楽園を焼き払ってくれるであろう」
黒薔薇騎士団長は、無言のまま深く一礼すると、その身が、再び影そのものへと還るかのように、音もなく闇に溶けて消えた。
◇
その日の深夜。
帝都ルーメンの地下深く、聖堂の光さえ届かぬ黒薔薇騎士団の隠れ家。その冷たい石造りの回廊に、数人の影が集っていた。
彼らは先程まで、旅の商人、物乞いの僧侶、陽気な吟遊詩人として、帝都の雑踏に完璧に溶け込んでいた者たち。だが今、その仮面を脱ぎ捨て、漆黒の戦闘装束に身を包んだ彼らの顔には、ただ、任務への絶対的な忠誠だけが浮かんでいた。
一人が、旅の商人が使う古びた荷車の、偽りの底板をはめ込む。乾いた木の音が、一度だけ響いた。その下には、毒薬、姿を変える魔法の道具、そして人の心を操る禁じられた教会の遺物が、静かに息を殺している。
一人が、吟遊詩人が使うリュートの空洞に、分解された特殊な弩の部品を、パズルのように収めていく。
一人が、ぼろぼろの僧衣の下に、投げナイフやワイヤーを、使い慣れた場所へ手際よく仕込んでいく。
彼らに言葉はない。
互いの目配せだけで、全ての準備が冷徹な、完璧な精度で進められていく。
やがて、準備を終えた彼らは一人、また一人と、帝都の地下水路を通り、誰に知られることもなく、東の闇へとその姿を消していった。
彼らは、静かに、確実に獲物の体に食い込み、内側からその命を蝕む、見えざる死の棘であった。
◇
再び、一人になった枢機卿の私室。
ロデリクは、大陸地図の上に、新たに黒曜石で作られた、一輪の黒い薔薇の駒を、静かに置いた。
その場所は、東の果て、「オダワラ」と記された小さな点の、まさに真上。
彼は、その黒い薔薇を、愛おしい芸術品のように見つめていた。
その口元に、初めて、恍惚とした静かな笑みが浮かぶ。
「北条氏康……。異世界の獅子よ。そなたは、己が新たな国を築いていると、そう信じているのだろう」
「だが、そなたが築いているのは国ではない。そなた自身の、そして、そなたが愛する民の魂を焼き尽くすための、壮大な火刑台に過ぎぬ」
「そして、私こそが……その火刑台に、神の裁きの、最初の火を灯す者となるのだ」
帝国の巨大な影が、ついに東の小田原へと、その邪悪な手を完全に伸ばし始めた。
風魔忍軍と、黒薔薇騎士団。
光の下の戦いを終えた北条家の、次なる戦場は、水面下の、影の中であった。
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