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第四十四話:権力の空白

 

 辺境伯オズワルドが、自らの民と家臣によってその座を追われた、という衝撃の報せは、すぐさま小田原城にもたらされた。


 北条氏規が帰還し、その一部始終を報告した評定の間は、戦勝の昂揚とは程遠い重い緊張感に支配されていた。


「――以上が、顛末にございます。辺境伯オズワルドは失脚し、かの地は、今や主を失っております」

 氏規の報告が終わると、三男の氏照が血気にはやる声を上げた。


「見事なり、氏規! 敵将の首を獲らずして、城を獲るとは! 父上、これこそ好機にございます! 直ちに我が軍を派遣し、旧レミントン領を完全に併合すべきです!」

 その急進的な意見に、五男の氏邦ら若い武将たちが、強く賛同の意を示す。だが、その言葉を、嫡男で現当主の氏政が、静かに制した。


「なりませぬ。かの地の民は、長年の圧政と、先の戦で深く疲弊しております。今、我らが新たな支配者として乗り込めば、彼らの目には、辺境伯と何ら変わらぬ、力による簒奪者と映りかねませぬ」

 氏政の腹心である大道寺政繁も、その意見を補強する。


「加えて、銭穀の問題もございます。かの地の民、数万を新たに養うとなれば、今、ようやく安定し始めた小田原の財政は、再び火の車となりましょう。今は、内を固めるべき時にございます」

 武力による領土拡大か、内政を優先した国力増強か。


 評定が、二つの正論の間で揺れる。

 その議論の全てを、上段の間に座す北条氏康は、ただ静かに聞いていた。やがて、彼がゆっくりと目を開くと、その場の全ての声が、ぴたりと止んだ。


「いずれの意見も、一理ある。なれど、どちらも、我が北条の道ではない」

 氏康は、紛糾する家臣たちを見回すと、誰もが予想だにしなかった名を口にした。


「――サー・ゲオルグを、ここへ」

 どよめきが広がる。なぜ、今、かの捕虜を。


 家臣たちの困惑をよそに、やがて、二人の兵に伴われ、サー・ゲオルグが評定の間に姿を現した。彼は、この場の異様な雰囲気に眉をひそめつつも、騎士としての誇りを失わず、毅然とした態度で氏康の前に立った。


 氏康は、その誇り高き騎士をまっすぐに見据え、その驚くべき策を確信を込めて告げる。


「サー・ゲオルグ。そなたを、旧レミントン領の『暫定統治代官』に任命する。我らの名の下に、そなたの故郷を、そなた自身の手で、救ってみせよ」

 その、あまりに常軌を逸した発想に、氏照が驚愕の声を上げた。


「父上、ご乱心にございますか! 敵将に、再び兵権を預けるも同然の行為! 万一、奴が我らを裏切り、帝国と通じれば、それこそ万事休すにございますぞ!」

 だが、氏康は、その懸念を、静かに首を振って制した。


「氏照よ。そなたはまだ分からぬか。真の支配とは、剣で脅すことではない。敵の誇りを一度、完膚なきまでに砕き、その上で、我らの掌の上で踊らせることよ」

 氏康の目が、再びゲオルグを射抜く。


「我らが直接統治すれば、必ずや帝国の反発を招く。だが、そなたが統治するならば、それは『帝国貴族による、領地の再建』という、大義名分が立つ。帝国も、容易には手が出せまい」


「そして、そなたにとっては、これは、故郷の民を、自らの手で救う、またとない機会となる。騎士の誉れとは、主君の命令に従うことか? あるいは、その剣で、守るべき民を守り抜くことか? ――そなたの信じる『正義』で、この問いに答えてみせよ」

 氏康の言葉が、ゲオルグの心を貫いた。


 小田原で見た「片葉の会」の光景。民のための政治。氏康は、自分が最も大切にしてきた「騎士道」そのものを、今、自分に突きつけているのだ。


 敵将の、あまりに巨大な器量と、底知れぬ深謀遠慮。ゲオルグの心を満たしていた憎しみは、今や、一種の畏怖へと変わっていた。


 誇りを捨てるのか、民を捨てるのか。

 その究極の選択を前に、彼の魂は、引き裂かれるほどの葛藤に身をよじった。


 長く重い沈黙が、評定の間を支配する。

 全ての者が、ゲオルグの決断を、固唾をのんで見守っていた。


 やがて、ゲオルグは、その場に片膝をついた。それは、臣下の礼ではない。一つの重い使命を、一人の騎士として受け入れるための、覚悟の姿勢であった。


「……承知……した」

 絞り出すような、かすれた声。


「……このサー・ゲオルグ、貴殿の、その非道で、慈悲深い策に乗ろう」

 彼は顔を上げた。その目に葛藤はなく、ただ、決意の光だけが宿っていた。


「だが、勘違いするな。私は、北条に屈したのではない。我が民のために、この屈辱を呑むだけだ」

 その、捕虜の身でありながら失われぬ気概に、氏康は、初めて満足げな笑みを浮かべた。


「よかろう。それでこそ、竜騎士団長よ。そなたの働き、期待しておるぞ、代官殿」

 評定が終わり、ゲオルグは重い足取りで大広間を後にする。


 その瞳には、新たな、あまりにも重い使命の光が宿っていた。

 彼がこれから歩む道は、故郷を救う英雄への道か、帝国への裏切り者として断罪される道か。


 ゲオルグという、もう一人の主人公の、新たな物語が、権力の空白となった荒れ果てた大地を舞台に、幕を開けようとしていた。



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