第四十三話:落日の城
使節団が去った後、レミントン辺境伯の玉座の間は、墓場の静寂に支配された。
辺境伯オズワルド・フォン・レミントンは、床に転がる一丁の鍬を、ただ呆然と見つめていた。北条からの使節が残していった、無言の、あまりにも雄弁な侮辱の証。
「……小僧が」
やがて、絞り出すような声が彼の喉から漏れた。
「小僧がァッ! あの獅子の子めがァッ!」
オズワルドの咆哮が、虚しい広間に響き渡る。彼は近くにあった銀の燭台を掴むと、力任せに大理石の壁へと叩きつけた。甲高い金属音が響き、燭台は歪む。だが、彼の心の焦燥は晴れない。
彼は、残った側近たちを睨みつけ、虚勢の鎧を纏って叫んだ。
「戯言だ! 奴らの言葉に惑わされるな! 帝国からの援軍は来る! 全軍、城門を固めよ! 籠城の準備を進めよ! 三日後、奴らが攻め寄せてきたところを、援軍と共に挟み撃ちにしてくれるわ!」
その言葉に、側近の騎士たちは「ははっ」と応える。だが、その声は魂の抜け殻のような、乾いた音であった。
誰一人として、主君であるオズワルドを見ていない。彼らの視線は、床に転がる農具と、その傍らに残された醤油の染みに注がれていた。
この城に未来はない。
その絶望を、この場にいる誰もが、一つの冷たい空気として共有していた。
◇
猶予、二日目。
北条氏規が突きつけた「銭の戦」は、悪性の熱病となり、辺境伯領の隅々までを蝕んでいた。
城下の市場では、もはや商いが成り立たない。
「米だ! オダワラの米をよこせ!」
「俺たちは、もうカビ臭い黒パンなんぞで冬は越せねえぞ!」
民衆は領主の備蓄蔵の扉を叩き、その声は飢えた獣の咆哮となっていた。衛兵も、同じ領民である彼らを力で排除できない。彼らの腹もまた、飢えているのだ。
その混乱は、城内の騎士団にまで、致命的な亀裂を生んでいた。
詰め所では、傭兵上がりの第二騎士団「アイアンボア」の団長が、部下たちを前に、床に唾を吐き捨てた。
「聞いたか、野郎ども! 辺境伯様は、俺たちへの給金も払えねえそうだ! 国庫は空っぽだとよ!」
その言葉に、騎士たちの間に怒号と絶望のため息が広がる。
「巫山戯るな! 俺たちは金のために戦ってんだ!」
「これじゃあ、犬死にじゃねえか!」
団長は、そんな部下たちを見回し、獰猛な笑みを浮かべた。
「聞け、野郎ども! 給金も出せん王に、命を懸ける義理はねえ! 我らの仕事は金をもらって戦うことだ! その金がねえなら、こんな城に用はねえ!」
彼は自らの剣を抜き放ち、高らかに宣言する。
「この剣と鎧を売り払い、南の自由都市同盟にでも高飛びするぞ! こんな沈みかけの泥船からはおさらばだ! ついてきな!」
「おお!」と賛同の声が上がる。彼らは規律を失い、自らの武具や馬を売り払って逃亡資金にしようと武器庫に殺到し始めた。
第一騎士団長はそれを止めようとする。
「裏切り者め!」
「お前だって、オダワラからの酒の味を知っているだろうが!」
騎士道も忠誠も、飢えと金の前には、あまりにも無力であった。
◇
三日目の朝。運命の夜明け。
オズワルドは、まだ来ぬ帝国の援軍を信じ、最後の威厳を示すべく城壁の上へ登った。
城門前広場には、数千の民衆が集まっていた。彼らは武器を持たない。ただ、飢えと絶望に歪んだ顔で、城を静かに、憎悪を込めて見上げていた。
「愚かな民よ! 貴様ら、異教の蛮族に屈するのか! 神の秩序を信じ、私と共に戦え! さすれば、帝国からの救いの手が、必ずや……!」
彼の演説を遮ったのは、群衆の中から放られた、一つの、乾いた泥塊であった。
それは城壁に当たり、ぱさりと砕け散る。あまりに非力な一撃。だが、それが反乱の狼煙となった。
「我らに米をよこせ!」「オダワラの米を!」
「そうだ! 俺たちをオダワラへ行かせろ!」
「圧政者め! お前一人が死ねば、俺たちは助かるんだ!」
一人、また一人と声が上がり、やがてそれは地を揺るがす巨大なうねりとなる。
風魔が流した「噂」が、近江屋がもたらした「豊かさへの渇望」と結びつき、民衆自身の「生きるための意志」として爆発した瞬間であった。
◇
玉座の間。
民衆の蜂起と騎士団の離反の報告を受け、オズワルドは孤立していた。
彼は、最後まで自分に従っていたはずの側近たちに、狂乱したように叫ぶ。
「何をしている! 早く、反乱民を斬り捨てよ! 全員、皆殺しだ!」
側近の筆頭、第一騎士団長は、その狂気から目を逸らすように、静かに自らの剣を抜いた。
そして、その切っ先を、自らの主君であるオズワルドに向ける。
「……もはや、これまでです、オズワルド閣下」
第一騎士団長の声は、冬の風のように冷たく、静かであった。
「我らは騎士として、民を見殺しにはできませぬ。貴方が守るべきだった、その民を」
その言葉を皮切りに、他の騎士たちも次々とオズワルドに剣を向ける。
忠誠の終わりを告げる、静かで冷たい儀式であった。
やがて、玉座の間の重い扉が外からこじ開けられる。
蜂起した民衆と、反旗を翻した家臣たちが、なだれ込んでくる。
オズワルドは、誰からも見捨てられ、たった一人、玉座で震え、その場にへたり込んだ。
彼の権威の象徴であった豪華なマントは民衆の手に引き裂かれ、泥水の中に転がる。彼はもはや辺境伯ではなく、ただの憎悪の対象であった。
遠く東の地平線。
北条家の陣から、降伏を確かめるための伝令の馬が、一騎、こちらへ向かってくる。その姿は、全てを見届けに来た死神のようであった。
北条家は、一人の兵も動かさず、一つの矢も放つことなく、武力ではなく、民の心と銭の流れを制することで、一つの国を滅ぼした。
「戦の終わり」であった。
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