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第四十二話:静かなる崩壊

 

 玉座の間の空気は、まるで薄い氷のように張り詰めていた。


 辺境伯オズワルド・フォン・レミントンは、玉座から半ば身を乗り出し、そのやつれた顔を怒りと屈辱に歪ませている。彼の前に、静かに佇むのは、北条からの若き使節、北条氏規。その涼やかな瞳は、目の前の権力者の激情を、まるで嵐の前の静かな水面のように、ただ映しているだけだった。


「辺境伯閣下。我が主、北条氏康より、最後のお言葉を、お伝えに参りました」


 その、場にそぐわぬほど穏やかな声が、氏規の口から紡がれる。

 彼は、一歩前に進み出ると、深々と、しかし、その背筋は一本の鋼のように真っ直ぐに伸ばしたまま、礼を取った。


「我が主、北条氏康は、こう仰せにございます。『辺境伯オズワルド殿。その座を退き、隠居・出家するならば、貴殿の余生と、一族の命までは保証しよう』と」


 氏規は、そこで一度、言葉を切った。そして、顔を上げ、オズワルドの目を真っ直ぐに見据える。


「『なれど、もし、この慈悲を退けるならば、次こそは、我ら北条の全軍を以て、その城を、石垣一つ残さず、この地から消し去ることになろう』。……以上でございます」


「出家だとォッ!?」


 オズワルドの怒声が、だだっ広い広間で虚しく響いた。彼は玉座を蹴倒すように立ち上がり、わななく指で氏規を指さす。


「この、神聖帝国の貴族たる私が、貴様ら蛮族の作法に従い、髪を剃れと申すか! 巫山戯るな! 帝国からの援軍が、援軍さえ来れば、貴様らなど、虫けらのように踏み潰してくれるわ!」


 その狂気じみた叫びにも、氏規は動じない。

 彼は、哀れな獣を見るかのような、静かな目でオズワルドを見つめ返した。


「帝国が、ですか。……では、その援軍は、一体、誰を救うために、この地へ来るのでございましょうな」


 その静かな問いが、オズワルドの怒声よりも、遥かに重く、不吉な響きを持って、玉座の間にこだました。


 氏規は、傍らに控える供の者に、目配せをした。

 供の者は、恭しく前に進み出て、持参した三つの「手土産」を、オズワルドの前に、静かに置く。


 一つは、ドワーフが打った、簡素だが頑丈な一丁の「鍬」。


 一つは、小田原の「醤油」がなみなみと満たされた、小さな樽。 


 そして最後の一つは、ずしりと重い、革袋。


「閣下。貴国の民は、まず、この鍬を求めました。己の畑を、より楽に、より深く耕すために。ですが、貴方の法は、その収穫のほとんどを、税として奪い去る」


 氏規は、次に、供の者から、小さな麻の袋を受け取ると、その中から、一握りの輝く米粒を取り出した。それは、黄梅院の力で奇跡の実りを遂げた、「陽光米」であった。


「故に、民は、この『陽光米』の粥一杯のために、なけなしの銀貨を差し出しました。貴方の元へ納める、まずい麦を作るよりも、まず、己の家族の腹を満たすために。……そして」


 氏規は、醤油の小樽を、指で、とん、と叩いた。


「腹が満たされれば、人は、次により良い『味』を求めます。人の欲とは、段階を踏むものにございます。飢えが満たされれば、次は豊かさを求める。我らが商人は、その両方を、彼らに与えてしまったのです」


「貴方の国は、もはや、我らに武力で滅ぼされる必要すらない。民の心という、見えざる血が、既に貴国から流れ出し、その体は、内側から、静かに、しかし、確実に壊死し始めておりますぞ」


 オズワルドの顔から、血の気が、完全に引いていた。

 彼は、戦の勝ち負けしか見ていなかった。だが、その足元で、自国の経済基盤そのものが、静かに、しかし、確実に腐り落ちていたという事実。それを、今、初めて突きつけられたのだ。


「それに、閣下」


 氏規は、追い打ちをかけるように、冷徹な事実を告げる。


「近頃、貴国の農民たちが、夜陰に紛れて、次々と姿を消しているとは、お聞き及びではございませんか?」


「彼らは皆、東を目指しております。『オダワラに行けば、種族を問わず、働きに応じた土地と仕事が与えられる』と。……閣下、それは、我らにとっては噂などではございませぬ。ただの『事実』。貴方が民から奪ったものを、我らが与えているだけのことにございます」


 風魔が蒔いた、希望という名の種。

 兵士や騎士だけでなく、国を支える民そのものが、既に領主を見限っている。

 その絶望的な事実が、オズワルドの最後の気力を、完全に奪い去った。


 彼は、玉座の残骸に、崩れ落ちるように座り込み、ただ、呆然と、目の前の品々を見つめることしかできない。


 氏規は、静かにオズワルドに近づくと、もはや何の感情も込めず、ただ、事実を告げるように、最後通牒を突きつけた。


「閣下。もはや、貴方の国は、死んでおります。帝国からの援軍が、もし、万が一、この地にたどり着いたとしても、その時、ここに、貴方が守るべき民は、誰一人、残ってはおりますまい」


「父が与えた猶予は、三日。三日後、この城門に、降伏の白旗が掲げられねば、我が北条の全軍が、この地を更地へと変えましょう。……ただし、我らが救うのは、城ではなく、その外で我らの軍門に下った、貴方の民、ということになりますが」


「お選びなされ。ただ一人の誇りのために、全ての民を巻き込み、無残に滅びるか。あるいは、その首一つを差し出すことで、民の、明日の暮らしを守るか。……真の『領主』とは、どちらの道を選ぶものか。我が主は、その答えを、見届けたいと仰せです」


 氏規は、もはや返事を期待することなく、オズワルドに背を向けた。

 そして、供の者たちに、革袋を拾い上げるよう、目線で静かに命じる。ずしりと重い銀貨の袋は、あたかも、最初から北条家のものであったかのように、供の者の手に、当たり前に収まった。


 氏規は、控える二十名の護衛と共に、悠然と、玉座の間を後にする。


 残されたのは、呆然自失のオズワルドと、顔を見合わせるしかない側近たち。

 そして、床の上に、まるでこの国の未来を嘲笑うかのように、ぽつんと置かれた、一丁の鍬だけであった。


 北条家の、武力だけではない、「組織」という名の、恐るべき力の前に、一つの国が、音もなく崩れ落ちていく。その決定的な瞬間であった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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