第三話:森の民と鋼の民
転移から、十日が過ぎた。
北条氏康の迅速な初動により、小田原城とその城下には、見せかけの日常が戻りつつあった。
幻庵が設えた濾過装置によって川から安全な水が供給され、氏政が断行した配給制度によって民は餓えることなく日々の糧を得ていた。城壁の上では、綱成が考案した陣形が昼夜を問わず警戒にあたり、時折飛来する「石吐き」を的確に撃ち落としていた。
だが、人々の心から不安が消えたわけではない。
自分たちはどこにいるのか。故郷の相模には帰れるのか。城壁の外に広がる、あの不気味な森の先には、何があるのか。
目に見えぬ重圧が、幾万の民の肩にのしかかっていた。
彼らにとって唯一の希望は、北条家という揺るぎない統治機構と、その長である氏康の存在だけであった。
その希望を支える「目」と「耳」――風魔忍軍は、その日も森の奥深くに分け入っていた。
◇
「……止まれ」
先頭を駆ける風魔小太郎が、音もなく右手を上げる。
配下の忍たちが、一斉に動きを止め、木々の影にその身を溶け込ませた。
小太郎の視線の先、微かに喧騒が聞こえる。
それは、獣の咆哮でも、鳥の鳴き声でもない。
野蛮な鬨の声と、金属がぶつかり合う音、そして、甲高い誰かの悲鳴。
(……人の争いか?)
小太郎は、部隊に潜行を命じ、音もなくそちらへ向かった。
木の葉一枚揺らさぬ巧みな動きで、小太郎は太い幹の陰から、眼下の光景を覗き見る。
そこは、小さな開けた場所だった。
そこで繰り広げられていたのは、一方的な蹂躙であった。
五、六人の、豚に似た醜悪な顔を持つ大男たちが、一人の人影を追い詰めている。
大男たちは、粗末な棍棒や斧を振り回し、下品な笑い声を上げていた。知性を持つ二足歩行の化け物だ。
そして、彼らに追い詰められているのは、人ではなかった。
長く、僅かに尖った耳。柳のようにしなやかな体躯。森の緑に溶け込むような衣を纏い、必死に弓を番えている。
ひとりの、見目麗しい少女であった。
少女の放つ矢は正確無比で、豚面の巨人の一人の喉を貫く。
だが、多勢に無勢。仲間が倒れても、残りの巨人たちは怯むことなく、じりじりと包囲網を狭めていく。
少女の息は切れ、その額には玉の汗が浮かんでいた。もはや時間の問題であった。
小太郎は、静かに状況を判断する。
豚面の巨人たちは、小田原にとって明確な脅威となりうる存在。
一方、耳長き少女は、この世界の住人だ。保護すれば、計り知れない情報を引き出せる可能性がある。
結論は、一瞬で出た。
小太郎は、背後の部下たちに、指で簡潔な合図を送る。
――『排除せよ』。
次の瞬間、風が吹いた。
豚面の巨人の一人が、何かに気づいたように背後を振り返る。だが、そこには誰もいない。
首を傾げたその瞬間、彼の太い首から、一筋の血が噴き出した。己に何が起きたのかも理解できぬまま、巨体がどう、と倒れる。
「グルァ!?」
仲間たちの間に、動揺が走る。
その隙を突き、森の各所から、黒い影が躍り出た。
煙玉が地面に叩きつけられ、巨人たちの視界を奪う。
足元にはマキビシが撒かれ、混乱した巨人がそれを踏み抜き、絶叫を上げた。
組織だった動きというものを知らない巨人たちは、完全に不意を突かれ、ただ棍棒を闇雲に振り回すことしかできない。
風魔の忍たちは、その愚直な動きを嘲笑うかのように、影から影へと飛び移り、クナイや鎖鎌で、確実に一人ずつ急所を貫いていく。
それは、戦いですらなかった。
ただ無慈悲な「処理」であった。
数分後。
後には、折り重なって倒れる巨人たちの骸と、息を呑んで立ち尽くす耳長き少女だけが残されていた。
小太郎が、ゆっくりと少女に歩み寄る。
少女は、警戒を解かず、残った矢を弓に番え、美しい凛とした声で叫んだ。
その言葉は、小太郎が一度も聞いたことのない響きを持っていた。しかし――
「あなたたちは何者なのです!? 敵でないというのなら、姿を見せなさい!」
「……!?」
小太郎の仮面の下で、そして周囲に潜む全ての忍たちの間に、驚愕の息が漏れた。
意味が、わかる。
まるで、少女が聞き慣れた故郷の言葉を話しているかのように、その意味が、頭の中に直接流れ込んできたのだ。
小太郎は、己の動揺を押し殺し、静かに答えた。
「……我らは北条に仕える者。そなたを害するつもりはない」
男の言葉もまた、少女には自らの故郷の言葉として、ごく自然に理解できた。
だが、少女は目の前の男たちが、言葉が通じるという当然の事実に対し、なぜあれほど驚くのか、全く理解できなかった。その奇妙な反応が、かえって彼女の警戒心を煽る。
この人間たちは、一体どこかおかしいのではないか、と。
◇
同じ頃、小田原城の大手門が、にわかに騒がしくなっていた。
「おい、聞こえんのか! 鍛冶師に会わせろと言っておるのだ! この城の主は、客人を門前払いにするような無礼者なのか!?」
門番の足軽たちが槍を交差させて制止する先に、奇妙な男が一人、仁王立ちになっていた。
背丈は低いが、肩幅は広く、がっしりとした体躯。豊かな髭をたくわえ、その目には職人らしい頑固な光が宿っている。
「怪しい者を、易々と通すわけにはいかぬ!」
「怪しいとは何だ! わしはこれなる通り、ただの鍛冶師よ! この城から上等な鉄の匂いがしたで、見に来てやったというに!」
報告は、すぐに本丸の氏康の元へ届いた。
「ほう……鉄の匂いを嗅ぎつけて、とな」
氏康は、面白そうに口の端を上げた。
「三の丸へお通ししろ。わしも直々に出向く」
簡潔な命令に、側近が息を呑む。
「殿、しかし、素性も知れぬ者を……」
「だからこそよ」
氏康は、立ち上がると、傍らの将たちに短く命じた。
「綱成、警備を固めよ。万一に備えよ」
「幻庵殿、御同道を」
やがて、三の丸の広場に、簡素な席が設けられた。
中央にどっかと腰を下ろした髭の小男の周りを、北条の兵たちが、物々しくも距離を置いて囲んでいる。
そこへ、氏康が幻庵と数人の側近だけを連れて、姿を現した。
「わしが、この城の主、北条氏康だ。客人、息災であるか」
氏康が静かに問いかけると、小男は驚いたように目を見開いた。
「ほう……。お主が、この城の主か。ただの飾り物ではないと見える。話のわかる男だといいがな」
「殿、やはり……」
幻庵が、興奮した様子で囁く。
「この世界に満ちる『気』が、我らの意思を繋いでいるやもしれませぬ。なんと興味深い!」
「して、客人。そなたの名と、民の名を教えてはくれぬか」
氏康が問いを続けると、小男は胸を張った。
「わしは、鍛冶師のドルグリム。山と鋼を愛する民――“ドワーフ”よ」
ドワーフ。その言葉の意味が、その場の全員に染み渡った。
「して、ドルグリム殿。我らに何の用だ?」
「用は一つ!」
ドルグリムは、綱成が持つ刀に目をつけ、熱っぽく語り始めた。
「その刀だ! 城門からでも、その鋼が放つ澄んだ気配がわかったわ! あれほどの鉄、どうやって打ったのだ!? 是非、その技を見せてほしい!」
その時であった。
広場の入り口がにわかに騒がしくなり、風魔の一隊が姿を現した。
その中心には、森で保護された、耳の長い少女がいた。
少女は、広場の物々しい雰囲気よりも先に、そこにいるドルグリムの姿を認め、あからさまに眉根を寄せた。
一方、ドワーフのドルグリムも、少女に気づくと、鼻を鳴らし、鍛冶で汚れた手をこれ見よがしにズボンで拭う。
険悪な空気が、二人の間に火花を散らした。
(ドワーフ……! なぜこのような場所に)
(エルフだと? けっ、面倒なことになりそうだわい)
言葉はなくとも、二人の間に流れる不和を、氏康は見逃さなかった。
(……どうやら、一筋縄ではいかぬようだな)
だが、それもまた、この世界の理。
氏康は、まず少女に、出来る限り穏やかな声で問いかけた。
「ようこそ、小田原へ。客人、我らは北条。そなたの名と、民の名を、聞かせてもらえぬか」
少女は、氏康の真っ直ぐな瞳に、嘘や偽りがないことを見て取った。
彼女は、しばしの逡巡の後、凛とした声で答えた。
「……わたくしは、リシアと申します。森と共に生きる民――“エルフ”です」
氏康はリシアの言葉に静かに頷くと、風魔の者たちが持ち帰った、豚面の巨人どもの骸へと視線を移した。
「では、リシア殿。そなたを襲っていた、あの者たちは何なのだ?」
その問いに、リシアは忌々しげに顔をしかめ、吐き捨てるように言った。
「彼らは、森を喰らう鉄の牙……“オーク”と呼ばれる者たちにございます」
エルフ。ドワーフ。そして、オーク。
この日、北条家は、初めてこの世界の主要な住人たちの名を知った。
それは、孤立していた彼らが、この見知らぬ天下と、本格的に関わり始める狼煙であった。
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