第四十一話:獅子の子、兎の巣へ
剣聖が覚醒した時より幾月か遡る。
冬の乾いた風が、小田原の城壁を撫でていた。
レミントン軍を撃退し、かの竜騎士団さえも地に堕とした勝利の興奮は、既に日常の喧騒へと溶け込んでいる。だが、その水面下で、次なる戦の準備は、静かに、そして着実に進められていた。
その日の早朝。
小田原城の大手門が、冬の冷たい空気の中、ゆっくりと開かれていく。
そこから現れたのは、わずか二十騎。だが、その一団が放つ無言の威圧感に、見送りの兵たちは息を呑んだ。
正使を務めるのは、北条氏康が四男、北条氏規。
まだ若いが、その涼やかな目には、父譲りの知性と、兄たちとは異なる柔らかな物腰の奥に、鋼の意志が宿っている。
彼が率いるのは、先の戦でその威力を証明した『異界式当世具足』を纏い、腰には『小田原鋼』の太刀を佩いた、選りすぐりの精鋭であった。
「……氏規様。まことに、よろしいので?」
供頭を務める老練な武士が、馬上で静かに問いかける。その声には、不安の色が隠せない。
「手土産が、これとは。あまりに、挑発的ではございませぬか」
彼らの荷駄車に積まれているのは、金銀財宝ではない。ずしりと重い、革袋が一つ。そして、醤油がなみなみと満たされた、小さな樽が一つ。ただ、それだけであった。
その革袋の中身が、先日、商人・近江屋利兵衛が持ち帰った、大量の「帝国銀貨」であることを、彼は知っていた。敵国から流出した富、そのものであった。
「父上の、お考えだ」
氏規は、前を見据えたまま、短く応えた。
「武で勝ち、諜報で勝ち、次は『銭』で勝つのだ、と。かの国の富が、既に我らの手に流れ込み始めているという、動かぬ証拠を突きつける」
「……戦わずして、相手の心を折る。それこそが、父上の戦」
老武士は、その言葉に、改めて背筋を伸ばした。
目の前の若き主君は、ただの使いではない。父である氏康の、冷徹な戦略の代行者なのだ。言葉は穏やかだが、その声には、冷たい響きが宿っていた。
外交とは、言葉と礼を尽くした戦場。そして、その裏には、常に、経済という血脈が流れている。それが、兄・氏政を支え、稀代の外交僧・板部岡江雪斎に師事してきた彼が学んだ、北条の流儀であった。
「皆の者、心せよ」
氏規の声が、冬の朝の、張り詰めた空気に響く。
「これより我らが赴くは、獅子の威光を背負い、傷ついた兎の巣穴を訪う、死地にも勝る戦場であるぞ」
氏規の言葉に、護衛の武士たちは、無言のまま深く頷いた。
一行は、西へ。
再び、レミントン辺境伯領を目指し、その歩みを進めた。彼らの馬の蹄の音だけが、夜明け前の静寂な街道に、冷たく響き渡っていた。
◇
森を抜け、辺境伯領へと入った瞬間から、空気が、変わった。
前回、この地を訪れた時とは比較にならぬほど、淀み、そして、重い。
道中、いくつもの村を通り過ぎた。
だが、そこに、人の営みの活気はない。
畑は、痩せた土が剥き出しのまま放置され、雑草が、まるで墓標のように生い茂っている。
家々の壁は、先の徴兵や、敗戦の混乱で、無残に壊れたまま。
道端に座り込む者たちの目は、虚ろであった。戦で夫や息子を失い、生きる気力さえも奪われた女たち。領主への不満を口にする気力もなく、ただ、北条の使節団を、恐怖と、そして、かすかな羨望の混じった、複雑な目で見つめる老人たち。
(……これが、敗戦国の、真の姿か)
氏規は、馬上で、その光景を、己の魂に刻み付けるように見つめていた。
小田原で、父・氏康が下した命令。
『降伏勧告』。
それは、勝者による、あまりにも傲慢な要求に聞こえた。だが、今、この光景を前にして、氏規は、父の真意を、痛いほどに理解していた。
戦を長引かせることこそが、最大の悪。
これ以上、民を苦しませぬためには、敵の誇りを、完膚なきまでに叩き折り、再起の念さえも抱かせぬ、絶対的な最後通牒が必要なのだ、と。
あの父は、この光景を、全て見越していたのだ。
(……父上。この氏規、しかと、心得ました。この戦、必ずや、言葉を以て、終わらせてご覧にいれまする)
若き獅子の子の心に、外交官としての、そして、この地の未来を担う者としての、確かな覚悟が定まった瞬間であった。
◇
数日後、一行は辺境伯の居城へとたどり着いた。
城門を守る兵士たちの鎧は手入れもなく、その顔には士気の欠片も見られない。一行の掲げる三つ鱗の旗印を認めると、彼らは恐怖に引きつった顔で、慌てて門を開けた。
城内は、腐臭を放っていた。
すれ違う騎士たちの間に、かつての傲慢な空気はない。代わりに、敗戦の責任を押し付け合う陰鬱な猜疑心と、北条という未知の脅威への恐怖が、澱のように満ちていた。誰もが、氏規たちと目を合わせようとしない。
やがて、玉座の間に通される。
そこは、以前にも増して、殺伐とした空気に満ちていた。高価なはずの絨毯は酒で汚れ、壁の燭台の幾つかは、火が消えたまま放置されている。
玉座に座す辺境伯オズワルドは、この数週間で十年も歳を取ったかのように、その顔をやつれさせていた。だが、その瞳だけが、焦りと苛立ち、そして、まだ届かぬ帝国からの援軍を待ちわびる狂気じみた光で、ぎらついていた。
「……また、来たか。北条の、若造が」
オズワルドは、吐き捨てた。
「此度は、何の用だ。また、我が臣下を『拾った』とでも、恩着せがましく言いに来たか」
その悪意を、氏規は静かに受け止めた。
彼は一歩前に出ると、供の者に、ずしりと重い革袋を、辺境伯の足元に置かせた。革袋の口が開き、中から、大量の銀貨が床にこぼれ落ちる。それは、紛れもなく、帝国が発行した銀貨であった。
「これは、先日、我らが小田原の市で両替された、貴国の銭の一部。我が主が、もしや、お困りであろうと、お返しするように、と」
「なっ……!」
オズワルドの顔が、怒りに歪む。自国の富が、敵国に吸い上げられているという、動かぬ証拠。これ以上の侮辱はなかった。
氏規は、構わず言葉を続ける。
「辺境伯閣下。我が主、北条氏康より、最後のお言葉を、お伝えに参りました」
その涼やかな瞳は、もはや若き使節のものではない。
この無益な戦を終わらせ、新たな秩序を告げるために来た、「北条家」という巨大な国家の意志そのものを代行する者の、瞳であった。
氏規の、静かで、有無を言わせぬ声が、張り詰めた玉座の間に響き渡った。
「貴殿の武勇は、見事であった。なれど、その誇りは盲目であったな。我が主は、これ以上の無益な流血を望まぬ。その座を退き、隠居・出家するならば、命までは取らぬ、と」
「……なんだと?」
「なれど、もし、この慈悲を退けるならば」
氏規は、一度言葉を切ると、その目を氷のように冷たくした。
「次こそは、我ら北条の全軍を以て、その城を、石垣一つ残さず、この地から消し去る、と」
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