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第四十話:修羅の先の景色

 嘆きの谷に、北条綱成は一人、足を踏み入れた。


 一歩、空気が死んだ。また一歩、音が死んだ。谷の奥へ進むにつれ、大気そのものが鉛のごとき重さを持ち、彼の呼吸を、その意思とは無関係に浅く、速くさせた。


 風の音一つしない、死の静寂。地面に突き立つ無数の錆びついた武具の残骸だけが、この先に眠るものの恐ろしさを、無言で物語っていた。


 谷の最奥。

 綱成が、苔むした巨大な山と認識していたものが、動いた。


 ゴゴゴゴゴ……という、地殻そのものが擦れ合う低い鳴動。山肌だと思っていた岩の皮膚が、脈打つように蠢く。山頂の木々だと思っていた水晶のごとき巨大な棘が、ぎらりと鈍い光を放つ。


 そして、山腹の洞窟だと思っていた二つの穴が、ゆっくりと開いた。

 中から現れたのは、溶岩のごとき、憤怒の光を宿した、巨大な眼光。それは、この谷そのものの、眠りから覚めた理不尽なまでの殺意の塊であった。


 《アース・タイタン》。

 山そのものが意思を持った伝説の化身。その巨体が、深い憤怒と共に起き上がる。

 その口が開かれ、放たれた咆哮は音ではなかった。空間そのものを震わせる、純粋な衝撃波となって谷全体を揺るがした。


 「――面白いッ!」

 綱成は、立っていることさえ困難な圧力の中、恐怖を歓喜の闘志で塗りつぶした。これだ。これこそが彼が求めていた、理不尽の化身。

 彼は大地を蹴った。常人離れした速度でタイタンの足元へ肉薄し、愛刀『獅子奮-迅』を、渾身の力でその巨大な足首へと叩き込む。


 キィィィィンッ!

 耳をつんざく甲高い金属音と共に、小田原鋼の刃が凄まじい火花を散らした。


「なっ……!?」

 綱成は自らの目を疑った。己の最強の一撃が、タイタンの皮膚にわずか数寸の浅い傷をつけただけで、完全に弾かれたのだ。


 その反動で腕が骨の芯まで痺れる。まるで大陸そのものを斬りつけようとしているかのような、絶対的な硬度。


 タイタンは、足元の小虫を払うかのように、巨大な腕を、山崩れのごとき勢いで振り下ろす。綱成は紙一重でそれを回避する。だが、拳が叩きつけられた大地が蜘蛛の巣のように砕け散り、その衝撃波だけで彼の体は木の葉のように数間も吹き飛ばされた。


 「ぐっ……はっ……!」

 体勢を立て直した、その瞬間。タイタンが大地に両手をつく。綱成の足元の地面から、何十本もの鋭利な石の槍が、予兆もなく突き上げる。


 綱成は獣の勘で、その致死の罠を数度、回避する。だが、その動きは完全に読まれていた。彼の回避した先に、次の一手が既に用意されている。


 ついに、一本の石槍が彼の脇腹を掠めた。鋼鉄の鎧が、甲高い悲鳴を上げて砕け散り、岩の穂先が深々とその肉を抉る。


「ぐ……あああああっ!」

 激痛に、綱成の動きが鈍る。


 その隙を、タイタンは見逃さない。

 死。

 北条綱成は、その訪れを、不思議なほどの静けさの中で感じていた。


 時間は粘性を帯び、琥珀の中の虫になったかのようであった。眼前に迫る山のごとき巨大な拳が、ゆっくりと沈む黒い太陽のように、彼の視界の全てを覆い尽くしていく。


 回避は不可能。抗う力も残ってはいない。

 口の中に広がるのは鉄錆の味。夥しい量の血が、谷の冷たい土をじわりと赤黒く染めていた。


 (……ここまで、か)

 悔いはなかった。


 武人として、これ以上ない強敵ともと出会い、己の持てる技の全てを出し尽くした。その果てにあるこの死は、むしろ誉れ。本望であった。 


 (殿……氏康様。この綱成、不忠の臣を、お許しくだされ……)


 彼の脳裏をよぎったのは、恐怖でも、無念でもない。ただ、自らが去った後の、主君の顔。そして、これから先、この国を襲うであろう、数多の戦の風景。


(……せめて、この一太刀。我が魂ごと、奴の拳に叩き込み、一筋の傷にでもなれば……)

 それが、この異世界で最強の武人が、最後に見た、夢であった。


 だが、その、諦観に満ちた最後の思考。

 それが、引き金となった。

 彼の脳裏に、守るべき者たちの顔が、灼熱の鉄漿となって流れ込んでくる。


 初めての戦で、震えながらも、自分の背中を信じてついてきた、あの若い足軽の目。

 豊穣祭で、泥だらけの顔のまま、握り飯を頬張った子供の、屈託のない笑顔。


 この無謀な旅を、涙を浮かべて諫めてくれた、忠義な家臣たちの、心からの眼差し。

 そして――。

 全てを理解した上で、ただ静かに許してくれた、主君・北条氏康の、不動の山のごとき横顔。


 (……違う)

 魂の奥底で、何かが灼けつくように叫んだ。


 (違う、違う、違うッ! まだ、死ねぬ! わしは、まだ、何も返せておらぬ! あの者たちを守るための、殿の『剣』となると、そう誓ったではないかッ!)


(この程度の壁! この、ただでかいだけの石くれごときに、わしの魂が、折れてなるものかァッ!!)


 死への諦観は、一瞬にして燃え尽きた。

 その灰の中から、凄まじいまでの「生」への執着と、「使命」への渇望が、炎となって立ち上る。


 その瞬間、綱成の魂の奥深く、幾星霜の時を超えて眠っていた何かが、ついにその眼を覚ました。


 ドクン、と。

 もう一つの心臓が、彼の魂の中で鼓動を始めた。

 知識や記憶ではない。

 ただ、純粋な「経験」の奔流。


 燃え盛る橋の上での、一対一の死闘。

 城壁の上で、降り注ぐ矢の雨の中、ただ一人敵将の首を狙った、あの極限の集中。


 数万の軍勢を前に、ただ一騎でその中央を突破した、あの狂気にも似た高揚。


 幾多の時代、幾多の場所で、ただひたすらに剣の理を極めんとした、名もなき無数の剣士たちの魂。その研ぎ澄まされた「残滓」が、綱成の強靭な意志に応え、今、彼と一つになったのだ。


 スキル【剣聖】の覚醒。


 次の瞬間、綱成の体から、地黄八幡の旗印と同じ、眩い黄金の闘気が光の柱となって天へと噴出した。

 それは、彼の魂そのものの輝き。


 砕かれた骨が、黄金の光の中で軋みながらあるべき場所へと戻り、裂かれた傷が瞬く間にその光で塞がれていく。

 彼は、暗闇の底から、光の奔流となって天へと「噴出」した。


 「――おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!」

 それは、人の声ではなかった。


 武の神が、その誕生を自ら告げる産声であった。

 眼前に迫る、タイタンの拳。


 覚醒した綱成は、それを脅威として認識しない。

 ただ、そこにある「斬るべき対象」として認識していた。


 地に落ちていた愛刀『獅子奮迅』が、彼の意志に呼ばれるように、その手に吸い付く。

 刀身は黄金の闘気に覆われ、その長さと幅を数倍にも伸長させていた。


 それは、神を討つための、光の巨剣。

 振り下ろされる、黄金の一閃。

 それは、この世のあらゆる理を超えていた。


 ザシュッ、という、熟れた果実を斬るかのような、あまりにも静かな音と共に、タイタンの巨大な岩の拳が、何の抵抗もなく、手首から両断された。


 時が、再び動き出す。


 自らの拳が宙を舞うという、あり得ない光景。タイタンの思考が、その事実を理解するよりも早く、断ち切られた腕の断面から、溶岩のごとき熱い血が噴出した。星を揺るがす絶叫が、嘆きの谷を支配した。

 だが、綱成は止まらない。


 彼は、落下する自らの腕を足場とし、その巨大な岩肌を駆け上がる。天へと続く、血塗られた一本道を。

 タイタンが、残された腕で彼を薙ぎ払う。


 だが、その山崩れのごとき一撃は、今の綱成の目には、ただの緩慢な岩の流れにしか見えなかった。彼はその巨腕を紙一重でいなし、その勢いを利用してさらに高く舞い上がる。大地から突き上げる無数の岩の槍を、戯れのように飛び石として駆け上っていく。


 その動きは、もはや綱成一人のものではない。ある時は、直線的な突きを主体とする剛の剣。ある時は、円の動きで力をいなす柔の剣。幾多の剣士の魂が、彼の体を通して、この世で最も美しい、死の舞踏を披露していた。


 武の化身と、大地の化身。神話の激突であった。

 ついに、綱成はタイタンの胸元、その心臓たる巨大な魔石核が埋め込まれた場所へたどり着く。


 タイタンは最後の抵抗として、その全身を漆黒の結晶体で覆い尽くした。あらゆる物理攻撃、あらゆる魔法を弾く、金剛石の鎧。絶対的な防御の構え。


 それに対し、綱成は空中で、自らの魂、意志、守るべき者たちへの想い、その全てを光り輝く『獅子奮迅』の一点に収束させる。

 黄金の闘気が極限まで圧縮され、その刀身は太陽そのものとなって輝いた。


 彼は、笑っていた。心の底から楽しそうに。武人として、この世の頂に立った、至福の笑み。

 そして、魂そのものの咆哮を上げながら、天を衝く光の剣と化した『獅子奮迅』を、タイタンの胸元に振り下ろした。


 甲高い、星そのものが砕けるかのような絶叫。

 漆黒の結晶の鎧が、蜘蛛の巣のようにひび割れ、そして、光の粒子となって砕け散った。


 光の刃は、その奥にある巨大な魔石核を貫き、両断した。


 ◇


 魔石核を砕かれたタイタンは、その巨体から生命の光を失った。五千年の時を動かした意思は消え、ただの岩の山へと還っていく。山崩れの轟音が谷を埋め、巨体は瓦礫の海と化した。

 砂埃が晴れた後、そこに立つのは綱成の影、ただ一つ。


 黄金の闘気がその身に収まる。肉体を支えた超常の力は消え、代わりに、骨の軋む痛みと心地よい疲労が、彼を人の世へと引き戻した。


 彼はその場に膝をつき、荒い息を繰り返す。

 だが、彼の心を満たすのは、魂が沸騰するごとき高揚と、深い静寂の喜びであった。 


 彼は自らの手を見つめる。そこに宿る、新しい、底知れぬ力の奔流を感じていた。

 彼は、ついに、あの分厚い壁の向こう側にある『景色』を見たのだ。


 彼は、崩れ落ちた山の残骸を見下ろし、天を仰いで笑った。それは、武人としての全てを出し尽くした、子供のような、無垢な笑みであった。


 修羅の果てに、神の領域へ一歩を踏み出した、武神誕生の産声であった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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