第三十九話:嘆きの谷のヌシ
北条綱成が、木賃宿の主人に、牙猪の牙を報酬として叩きつけてから、数日が過ぎた。
その間、彼は、ただ黙って酒を飲み、他の客たちの会話に耳を澄ませていた。この法も秩序も届かぬ辺境の宿には、およそ普通の人生を歩んでこなかったであろう、一癖も二癖もある男たちが集う。
彼らの、自らの武勇伝や、手に入れた獲物の話の中に、綱成が求める「何か」の糸口が、隠されているような気がしたからだ。
その夜も、彼は、三名の供だけを伴い、宿の中央に据えられた、巨大な暖炉の前に陣取っていた。
燃え盛る炎が、年季の入った黒い梁を、不気味に照らし出している。壁には、この地で獲れたのであろう、巨大な角を持つ鹿や、牙の鋭い熊の頭骨が、無数に飾られていた。
「――それで、そのグリズリーの奴、俺の胸元に爪を立てやがてな。だが、俺のこの戦斧が、奴の脳天を叩き割る方が、ほんのわずか、速かったってわけよ!」
大柄な傭兵が、胸の傷跡を自慢げに見せながら、大声で笑う。周囲の男たちも、野卑な声でそれを囃し立てた。
綱成は、その光景を、静かに見つめていた。その程度の武勇伝では、彼の心は、もはや微動だにしない。彼は、傍らの酒をぐっと呷ると、まるで独り言のように、しかし、その場の全員に聞こえるだけの、張りのある声で呟いた。
「……つまらんな。この辺りには、ただの獣しかおらんのか。骨のある、化け物の話の一つでもあれば、この酒も、もう少しは美味くなるものを」
その言葉に、それまで騒がしかった酒場が、水を打ったように静まり返った。誰もが、新参者のあまりに不遜な言葉に、警戒とかすかな怒りの視線を向ける。
その、張り詰めた沈黙を破ったのは、一番奥の最も暗い席で、黙って酒を飲んでいた一人の老人であった。
顔には、巨大な獣の爪で抉られたのであろう、古い傷跡が走り、片目は白く濁って何も映してはいない。だが、残されたもう片方の目が、まるで闇夜の梟のように、鋭く綱成を捉えていた。
「……若いの」
老人の、しゃがれた声が響いた。
「お前さん、自分の腕によほどの覚えがあると見える。だがな、この山には人の腕なんぞでは到底届かぬものがいる。命が惜しけりゃ、忘れな。この先の『嘆きの谷』に眠る、ヌシのことだけは」
『ヌシ』。その言葉が出た瞬間、酒場の空気が一段、冷たく重くなった。
綱成の目が、初めて興味の光を宿した。
「ほう。そのヌシとやらは、一体、どんな化け物なのだ」
「化け物なんてもんじゃねえ」
老猟師は、首を横に振った。
その目は、遠い過去の恐ろしい記憶をまざまざと見ているかのようであった。
「あれは、この山そのものが、数百年に一度、寝返りを打つだけのことよ。わしがまだお前さんくらいの年だった頃、帝国の偉そうな魔法使いの一団が、あれを討伐すると言って谷に入っていった。数日後、谷から聞こえてきたのは人の悲鳴ではなく、大地が裂ける轟音だけだった。後で命知らずの仲間が見に行ったが、そこには何一つ残ってはいなかったそうだ。魔法使いも、その魔法も、谷の土に喰われたようにな」
老人の話に、別の席にいた鉱夫が、震える声で付け加える。
「ドワーフの古い伝承にもある。かつて龍殺しの異名を持つドワーフの英雄が、自慢の斧を手にヌシに挑んだ。だが、谷の入り口で、その英雄は己が振るったはずの斧によって、鎧ごと真っ二つにされていた、と。ヌシは、人の技をそのまま持ち主に返すのだと……」
それは、武勇伝ではない。
抗うことさえ許されぬ、理不尽な「死」の物語。神話。天災。酒場にいた男たちの顔に、純粋な畏怖の色が浮かぶ。だが、綱成だけが、その話に打ち震えるほどの歓喜を感じていた。
その瞳は、血に飢えた獣のように爛々と輝き、その口元には獰猛な笑みさえ浮かんでいた。
「……それだ。それこそが、わしが求めていたものよ!」
彼は席を立つと、卓上にずしりと重い革袋を叩きつけた。中には金貨が何枚も入っている。
「主人! 今宵の酒代は全てこれで払う! ――わしは、そのヌシの寝顔を、拝みに行く」
◇
宿の一室に戻った後、三名の供たちが綱成の前に身を投げ出して懇願した。
「殿! お考え直しください! それは武勇ではございません! ただの自決にございますぞ!」
筆頭家臣である武骨な中年の侍が、その額を床にこすりつけ、涙ながらに訴える。
「殿のそのお命は、殿だけのものではなく、我ら北条家全てのもの! 殿がここで果てられたら、我らは、どのような顔で氏康様にご報告すればよいのですか!」
「左様です! 我らも共に行きまする! 殿の盾となり死ぬならば、それこそが本懐!」
若い近習も、震える声で、しかし固い決意を込めて言った。
綱成は、彼らの忠義を黙って聞いていた。そして立ち上がると、窓の外にそびえる、雪を頂いた峻厳な山脈を見つめた。
「……お前たちの忠義、嬉しく思う。なれど、この戦だけは、誰にも譲れぬ」
その声は静かであったが、その底には何者にも揺るがせぬ、鋼の意志が秘められていた。
「わしがなぜ、この北の果てまで来たか。それは、わしの剣が迷っておるからよ。オークの王との、竜騎士との戦で、わしは己の力の限界を見た。そして同時に、その先にあるまだ見ぬ力の入り口を垣間見た。だが、今のわしにはその扉を開けることができぬ。このままでは、わしはただ腕の立つだけの、錆びついた剣で終わる」
彼は、自らの家臣たちに一人ひとり向き直った。
「ならば聞く。お前たちは、このまま志半ばで腐っていくわしと、あのヌシに挑み武人としての本懐を遂げて果てるわしと、どちらの姿を殿にご報告したい? わしは行く。これは、わし一人の、わしの魂のための戦よ」
その言葉には、いかなる説得も通じぬ、絶対的な覚悟が満ちていた。
夜明け前、綱成は供たちが眠る隙に、一人宿を抜け出した。彼らの忠義を無駄にせぬため、あえて彼らを振り切ることを選んだのだ。
嘆きの谷への道は、人を拒絶する険しい岩場と、万年雪に覆われた危険な山道。綱成は一人、黙々とその道を進む。肺を凍らせる冷気が彼の体を打ち、鋭い岩がその手足を傷つける。だが、彼の心は不思議なほど穏やかで、澄み渡っていた。自らの死地へと向かう、巡礼者のように。
数日後。彼は、嘆きの谷の入り口にたどり着いた。
そこは、噂に聞いた通り、不気味な静寂に支配されていた。風の音一つせず、鳥の声も、虫の音も聞こえない。完全な無音の世界。
谷の地面には、おびただしい数の砕け散った武具の残骸が、雪の中から突き出ている。ドワーフの斧、エルフの弓、帝国の騎士剣。それらが過去の挑戦者たちの無念の墓標のように、谷の奥へと点々と続いていた。
綱成は、谷の奥に巨大な山のごとき影が、静かに横たわっているのを認める。
彼は、背負った『獅子奮迅』の柄を一度強く握りしめると、覚悟を決めた顔で、その死と伝説が待つ谷へと、確かな第一歩を踏み出した。
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