第三十八話:様々な魔物と焦燥
綱成は、焦っていた。
小田原を発ち、北の山脈地帯へ入って一月。肌を刺す風は故郷のそれとは比べ物にならぬほど冷たく、鋭い。木々の葉は落ち、空は鉛色の雲に覆われる日が多い。
彼は、自らの剣の錆を落とし、新たな境地を拓くべく、この異世界の荒野が差し出すあらゆる脅威にその身を投じてきた。だが、彼の心は満たされず、日に日に乾いた砂漠のように渇いていく。
その日、一行は月明かりさえ届かぬ北の密林の奥深くにいた。
森の闇から、無数の燐光を放つ双眸が浮かび上がる。森狼の群れ。その数、およそ三十。彼らは声もなく、統率された動きで綱成と三名の供たちを包囲していく。その連携は、あたかも一人の将が指揮しているかのように完璧であった。
「殿!」
若い近習の声が、緊張に上ずる。
「面白い!」
対照的に、綱成の声には久方ぶりの喜色が滲んでいた。
「良いか、者ども! 怯むな、背中合わせに円陣を組め! 敵はただの獣ではない! 兵法を解する一個の軍勢と思え! あの、一際体の大きい奴が頭だ。わしがまず、あの頭を叩く! お前たちはそれまで何があっても陣を崩すな!」
綱成の的確な指揮の下、供たちは互いの死角を補い合う、小さな、揺るぎない砦となる。
次の瞬間、綱成の体が地面を爆ぜるように蹴った。円陣から一本の矢となり、直線的に群れの頭目へと向かう。
数頭の狼が、彼の側面に躍りかかる。だが、綱成は目もくれない。彼の背後を守るように、供たちの槍が正確に突き出され、狼たちの突進を阻んだ。
信頼。少数で多数を打ち破るための、唯一の戦術。
綱成の刃は、既に頭目の喉元へと迫っていた。
「グオオオオッ!」
頭目たる狼は、その巨体に似合わぬ俊敏さで身を翻し、鉄をも断つ鋭い爪を綱成へと振るう。
キィン、という甲高い金属音。
綱成は、その一撃を愛刀『獅子奮迅』の鎬で受け流す。爪と刀が火花を散らす一瞬。彼は手首の返しだけで刃の向きを反転させ、返す刃で狼の首を深々と切り裂いていた。
頭目を失った群れは、もはや統率された軍勢ではない。ただの烏合の衆。
残りの狼たちが恐慌状態に陥り逃げ惑うのを、綱成たちは一人、また一人と冷静に、無慈悲に処理していった。
やがて、森に静寂が戻る。
供たちが勝利の安堵に息をつく中、綱成は、刀に付着した血を振り払いながら、その顔に深い虚しさを浮かべていた。
(……違う。これではない)
彼は、内心で吐き捨てる。
見事な連携であった。だが、それは「兵法」の範囲内の敵。自分の知る理屈で読み、捌き、勝ててしまう相手。
オークの王ゴルドーが放った、理屈を超えた純粋な質量と獣の猛り。竜騎士ゲオルグが、その誇りの全てを乗せて放った魂そのもののような槍の一撃。
死の淵で感じた、肌を焼く緊張感。魂が沸騰するような高揚が、ここにはない。
確かに感じた、自らの内に眠るまだ見ぬ力の「兆し」。魂の芯が灼熱の鉄のように熱くなり、手のひらの中に世界そのものを掴めるかのような巨大な力が満ちる、あの予感。
それが、今は指の隙間から零れ落ちる砂のように、感じられなくなっていた。
◇
次なる相手を求め、一行は、北の岩だらけの高原地帯へ足を進めた。
木々は消え、ただ、風に削られた岩と、乾いた土だけが広がる、灰色の世界。そこで彼らが対峙したのは、一頭の、小屋ほどもある巨大な牙猪であった。その蹄が大地を掻くたびに、岩盤が軋む音を立てる。
「お前たちは、手を出すな」
綱成は、供たちを下がらせ、自らその巨大な獣の前に立った。
彼の脳裏に、あのオークの王ゴルドーとの死闘が蘇る。あの、人の理を超えた、絶対的な質量と、憎悪の塊。それを、今一度、この身で体感したかった。
「グルルルルル……」
牙猪は、綱成を矮小な獲物と侮り、威嚇の唸り声を上げ、その巨大な頭を左右に振る。
「……来るか」
綱成の呟きが、引き金だった。
牙猪の突進が始まった。それは突進ではない。一つの天災。城壁さえも砕く質量が、彼に迫る。
だが、綱成は動かない。極限まで、敵を引き付けた。牙猪の鋭利な牙が、自らの鼻先を掠める、その刹那。
綱成の体が、消えた。
彼は牙猪の突進の勢いを、最小限の体捌きでいなし、その巨体の、がら空きになった側面へと、吸い付くように回り込んでいた。それは回避ではない。激流の流れに身を任せ、その中心にある淀みを見つけ出す、水のごとき動き。
そして、一閃。
狙うは分厚い筋肉で守られた胴ではない。巨体を支える、アキレス腱。
『獅子奮迅』の刃が、巨大な腱を、音もなく断ち切った。
悲鳴を上げる間もなく、牙猪はその巨体を支える力を失い、無様に転倒する。その、無防備に晒された首筋に、綱成の冷徹な、とどめの一撃が振り下ろされた。
またしても、圧勝。
供たちが安堵の息を漏らす中、綱成の心は、さらに深く冷え込んでいた。
(……これも、違う)
この牙猪は、強い。だが、それはただの獣の力。ゴルドーが持っていた、あの憎悪と、狡猾さと、王としての意志の力が、ここにはない。魂と魂が火花を散らす、命のやり取りがない。
これでは、ただの「狩り」だ。
彼が求める、自らの限界を超えるための「死闘」では、断じてなかった。
◇
「もっと強い奴はいないのか!」
夜、野営の焚火の前で、綱成は苛立ちを隠さず叫んだ。
「もっと、わしの骨を軋ませるような、業そのもののような奴は、この世界にはおらんのか!」
供の者たちは、主君のその尋常ならざる様子に、ただ心を痛めることしかできなかった。
その渇望に突き動かされ、彼は地図にも載っていない、北の未開の地へと足を踏み入れていく。
「殿、お待ちください! この先は、何の保証もございませんぞ!」
若い近習の制止を、綱成は振り払った。
「ええい、黙れ! 保証された戦なぞ、稽古と同じよ! わしは、そのようなものを求めてここまで来たのではない!」
数日間の過酷な行軍の末、彼らがたどり着いたのは、吹雪が吹き荒れる山脈の谷間に、一軒だけ存在する、古びた木賃宿であった。
どの国の旗も掲げられていない。そこは、法も秩序も届かぬ辺境の最果て。力だけが唯一の法である場所であった。
宿の扉を開けると、燻された木の匂いと、安物のエール、男たちの汗の匂いが混じり合い、鼻をついた。
中には、国を追われた傭兵、お尋ね者の鉱夫、そして山の魔物を狩って生きる人相の悪い猟師たち。その全員が、油断ならぬ目で、綱成たちを一瞥した。一触即発の、危険な空気。
だが、綱成は、その空気を心地よいとさえ感じていた。
「――主人! この宿で一番強い酒を! それから、腹にたまるものを、ここにいる全員分、持ってこい! 勘定は、こいつで払う!」
綱成はそう言うと、牙猪の巨大な牙を卓上に、ドン、と叩きつけた。
その圧倒的な武人の覇気と気前の良さに、宿の中の刺々しい空気は、わずかに和らいだ。
彼は、この血と鉄の匂いがする場所こそが、自らが求める「何か」に最も近い場所であることを、本能で感じ取っていた。
彼は、窓の外に広がる、荒々しい手つかずの山々を、獲物を求める獅子の目で見つめる。
その瞳の奥で、燻り続ける焦燥の炎が、新たな獲物を見つけ出し、再び燃え上がろうとしていた。
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