第三十七話:言の葉の契約
城の鬼門に「鎮守の祠」が建立されて一月。
幻庵の狙い通り、その小さな白木の社は、新生・北条領に住まう者たちの、新たな心の拠り所となっていた。
日ノ本の民は故郷を懐かしみ柏手を打ち、ドワーフの職人は仕事の成功を祈願して自慢の酒を供える。医療院で命を救われたオークさえもが、その祠の前では敬意を込めて静かに頭を垂れた。
城下では、ささやかな、確かな奇跡の噂が囁かれ始める。
「鎮守様のおかげで、病で寝込む者が減った」
「うちの畑の作物が、病害虫に食われなくなった」。
それらは、見えざる隣人たちからの「御利益」であった。
だが、その穏やかな空気の中に、一つの不協和音が混じり始める。
城の西を流れ、多くの田畑を潤す大河。その水が、秋の長雨があったわけでもないのに、日を追うごとに清冽さを失い、濁り始めていた。
その日の早朝、鎮守の祠。日課である朝の祝詞を終えた幻庵は、西から吹く風に、眉をひそめた。
「……む?」
【神祇感応】のスキルが、彼の魂に警鐘を鳴らす。風のマナに、微かだが無視できぬ「苦しみ」と「淀み」が混じっていた。それは、まるで健康な肉体に巣食う、小さな病巣のようであった。その源は、西の大河。
時を同じくして、医療院の薬草園。リシアは、薬草の葉についた朝露を指で拭っていた。だが、ふと、その指を止め、西の空を見上げた。
彼女の、エルフとしての鋭敏な五感が、風の中に、か細い悲鳴を聞き取っていた。
「……川が、泣いている……?」
二人の報告は、ほぼ同時に、本丸の氏康の元へ届けられた。
幻庵とリシアは、評定の間で顔を見合わせ、互いの目に、同じ確信を見る。
「殿。西の大河に、何らかの異変が起きております。マナの流れが淀み、土地そのものが、苦しんでおる」
幻庵の言葉に、リシアも頷いた。
「はい。わたくしにも、聞こえます。川の精霊たちの、助けを求める、悲しい歌が……」
◇
半刻後。幻庵とリシアは、数名の護衛を伴い、問題の大河のほとりに立っていた。
川の水は、一見して清流であったが、その流れには生命の輝きがなかった。川底の石には、粘ついた灰色の苔が、病んだ皮膚のようにまとわりついている。そして、鼻をつく、微かな腐臭。それは、死んだ魚が腹を上にして浮いている、淀んだ水の匂いであった。
「これは、ひどい……」
リシアは、その淀んだ水面に映る自らの顔が、苦痛に歪むのを見た。
「幻庵様、マナが病んでいます。毒を流し込まれたかのように、川そのものが喘いでいるようです」
「うむ……」
幻庵は目を閉じ、【神祇感応】の力を解放した。彼の意識が、川の流れと、その地に宿るマナと同調していく。
(……痛い、苦しい、穢される……!)
言葉にならない悲鳴が、彼の脳裏に直接流れ込んできた。
「何者かが、この川を上流で傷つけておる……。リシア殿、参るぞ。この川の源流へ」
一行は、川筋に沿って上流へ向かった。進むにつれて、川の濁りと腐臭は酷くなる。
森が深くなり、川幅が狭まった淵にたどり着いた、その時だった。
ゴボゴボッ、と。川の中心で水が不自然に泡立ち、渦を巻き始めた。
「な、なんだ!?」
護衛の武士たちが、刀の柄に手をかける。
渦の中心から、陽炎のごとき、青白い光の人影が立ち上った。確かな形はない。水そのものが意思を持って集まったかのような、マナの集合体。川の精霊であった。
だが、その姿に神々しさはない。光は苦痛に喘ぐように激しく明滅し、その輪郭は怒りと悲しみで不安定に歪んでいた。
「ウ……オオオオオオォォ……」
言葉にならない怒りの波動が、周囲の空気を震わせた。
幻庵は、精霊の怒りの原因が、人の営みそのものではなく、特定の穢れの源にあることを、【神祇感応】で瞬時に理解していた。
彼は、動揺する護衛たちを手で制すると、その揺らめく精霊の前に進み出た。
「川の主よ。そなたの苦しみ、この目に焼き付けた。そして、その原因も見抜いた」
幻庵は、その場に片膝をつくと、一切の駆け引きのない、真摯な言葉を紡いだ。
「しばし、待たれよ。我らがその穢れの源を断ち、そなたの苦しみを取り払うことを、北条の名にかけて誓おう。その証を以て、改めて、そなたと語り合わん」
幻庵の、曇りのない意志。言霊となって、精霊の荒れ狂うマナを鎮めていく。
精霊は言葉を発しない。だが、その激しい明滅が緩やかになり、じっと幻庵を見つめ返しているかのようであった。そして、すぅっと水の中に溶けるように姿を消した。
怒りが、かすかな「期待」へと変わったのを、幻庵は肌で感じ取っていた。
◇
城に戻った幻庵のただならぬ気配に、氏康は人払いを命じた。
「――はぐれオークの仕業にございますか」
幻庵の報告を聞き終えた氏康は、静かに頷くと、広間の影に向かって、ただ一言だけ命じた。
「小太郎」
「は」
影が人の形をとり、風魔小太郎が音もなくその場に跪く。
「西の川の上流、水源を汚すはぐれオークの一団がいる。――掃討せよ。そして、泉を元の姿に戻せ」
「……御意」
短いやり取り。それだけで、北条家の最も鋭利な刃が、鞘から抜き放たれた。
その半日後。川の上流、森の奥深く。
はぐれオークたちの無秩序な野営地は、怠惰と腐臭に満ちていた。彼らは、自分たちの行いが、遥か下流の人間たちに感知され、死の影が迫っていることなど、知る由もなかった。
風が、木々の葉を揺らす。
それが、合図であった。
一人のオークが見張りの持ち場を離れた一瞬。彼の背後の木の幹から、黒い影が音もなく滑り降り、その首を無慈悲に掻き切った。悲鳴を上げる間もない。
次々と、森の闇のあらゆる場所から、風魔の忍たちが現れる。その動きに一切の無駄はない。ただ、静かに、効率的に、命を刈り取っていく。
眠っている者は、眠ったまま。酒を飲んでいた者は、杯を口に運んだまま。
それは戦いですらなかった。ただの、害虫駆除であった。
数分後。野営地には、動くものは何一つなくなった。
風魔たちは、オークの死体を川から遠ざけると、幻庵から指示された薬草を、汚染された泉とその周辺に手際よく撒いていく。それは、穢れを祓う、簡易な、しかし効果的な浄化の儀式であった。
やがて、一羽の鷹が闇夜に高く舞い上がった。任務完了の報せであった。
◇
翌日。幻庵とリシアは、川の淵へ赴いた。
川の水は、昨日までの鉛色の淀みを失い、川底の石の一つ一つを数えられるほどの、清冽さを取り戻していた。
二人が淵のほとりに立つと、川面が応えるように輝き、その水そのものが一つの形を取り始める。昨日までの苦しげな揺らめきはない。月の光を溶かし込んだ水晶のように、澄み切った輝きを放つ、穏やかで力強い精霊の姿があった。
幻庵は、その姿に一礼する。
「約束は果たした、川の主よ。改めて問わせていただきたい。我らと友誼を結び、この地を共に守る『盟友』となってはくれぬか」
精霊は言葉の代わりに、その輝きを増す。完全な承諾の意思表示であった。
「幻庵様、今です!」
リシアの助言を得て、幻庵は祝詞を紡ぎ始める。日本の神道の様式と、エルフの精霊信仰の様式が融合した、新たな「契約の祝詞」。幻庵が古式ゆかしい日本の言霊を紡ぎ、その言葉の隙間を、リシアが古エルフ語の柔らかな響きで埋めていく。
「――高天原に神留り坐す……我が真名は北条幻庵。川の主よ、そなたの真名を示し、この契約を受け入れる証として、その輝きを我に見せよ」
幻庵がそう唱えると、精霊の光がひときわ強く、清らかに一度だけ脈打った。その光の脈動が、一つの名を幻庵の魂に直接刻む。それは、せせらぎのような、心地よい響きであった。
「……セセラ。良き名だ」
幻庵は得られた名に頷くと、契約の祝詞を続けた。
「セセラよ、そなたの真名をここに刻む……」
日本の言霊と、古エルフ語の誓いが、一つの旋律となる。その言の葉は眩い黄金の光を放ち、川の精霊セセラを力強く包み込んだ。
光が収まった時。幻庵の心に、セセラの明確な約束が、清流のように流れ込んできた。
(――我が友、幻庵よ。契約、感謝する。この川は、汝らの民を襲わぬ。嵐が来る時は、その流れで汝らに知らせよう。汝らが引く水路の水は、我が力で常に清浄に保つ)
幻庵は、見えざる、しかし偉大な盟友を得た。
彼はこの成功から、森に、山に、風に、あらゆる場所に存在する精霊たちとも、対等な「隣人」として関係を築ける可能性を見出す。
北条家の統治は、この世界の霊的な理そのものをも、味方につけ始めた。それは、来るべき大いなる戦乱と、世界の謎に立ち向かう上で、何よりも強力な布石となるのであった。
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