第三十五話:見えざる隣人
大きな戦の季節が終わり、小田原に冬の気配が訪れていた。南の海で繰り広げられているであろう外交の緊張とは裏腹に、城下の暮らしには、ひとまずの安寧が戻っていた。
だが、その穏やかな日常の、水面下。
戦とは全く無縁の、不可解で、しかし、どこか微笑ましい出来事が、静かな波紋を広げ始めていた。
最初の報告は、北の工業地区、ドワーフの工房からであった。
「どうにも、気味が悪いんでさぁ」
ドルグリムの弟子のひとりが、町奉行所を訪れ、大道寺政繁を前に、困惑しきった顔で頭を掻いた。
「毎朝、工房に行くと、昨日、散らかしたまま帰ったはずの槌やヤスリが、大きさ順に、きれーーーいに並べられてるんでさ。誰がやってるのか、夜通し見張ってても、誰も来やしねえ。山の神様の悪戯か、それともエルフどもが言う、あのふらふらした精霊ってやつが、こんな仕事場まで入り込んでるのか……。どっちにしろ、仕事にならねえんでさ」
報告は、それだけではなかった。
東区の開拓農地からは、「うちの畑の、隅の一角だけ、どういうわけか、野菜の育ちが良すぎる。夜の間に、誰かが特別な肥料でも撒いているのではないか」という、奇妙な相談が寄せられた。
楽市楽座の商人からは、「夜中に、蔵の中で、ひとりでに米俵が動く音がする。朝になると、一番重い俵が、なぜか、持ち上げやすい一番手前に移動している」という、およそ信じがたい訴えがあった。
盗まれたわけでも、壊されたわけでもない。むしろ、僅かに「助かって」いる。
政繁は、山と積まれた、それらの奇妙な報告書を前に、どう裁定すべきか、頭を抱えるしかなかった。
「――ほう。座敷わらし、か」
報告を受けた北条氏康は、厳しい政務の合間に、その不可解な現象を、どこか面白そうに聞いていた。
政繁が、怪訝な顔で問う。
「ざしきわらし、にございますか?」
「うむ。わしが子供の頃、祖母から聞いた話でな。住み着いた家に富をもたらすという、子供の姿をした、悪戯好きの神のようなものがいる、と」
氏康は、腕を組むと、傍らに控える幻庵に視線を向けた。
「幻庵殿。そなたは、これを、どう見る」
「はっ。ただの気のせい、あるいは、民の噂話と片付けるのは、早計かと」
北条幻庵は、その皺深い顔に、抑えきれない知的好奇心を浮かべていた。
「これらの現象には、一つの共通点がございます。いずれも、悪意がない。むしろ、僅かながら、人の営みを助けようとする『善意』すら感じられる。これは、人の仕業ではありますまい。何か、我らの知らぬ『理』が、この地に働きかけていると見るべきですな」
「ならば、その『理』の正体を、突き止めるまでよ。幻庵殿、この件、そなたに任せる」
「御意。この老骨、久々に、心が躍りますわい」
◇
その日の夜。
幻庵は、マナの扱いに長けたエルフであるリシアを伴い、月明かりだけが頼りの、静まり返った城下を歩いていた。
「リシア殿。そなたの目には、この夜の闇が、どう映るかな」
「……はい、幻庵様」
リシアは、目を閉じ、意識を集中させる。彼女の、エルフ特有の鋭敏な感覚が、この地に満ちるマナの、微細な流れを捉え始めていた。
「とても……穏やかです。城下の皆さんの、安らかな寝息と、満足した心持ちが、マナの流れを、絹のように滑らかにしています。ですが……」
彼女は、小首を傾げた。
「ですが、ところどころに、小さな『光の溜まり』のようなものが、見えます。それは、誰かの感情というよりは……もっと、純粋な、喜びや、好奇心のような……」
二人は、例のドワーフの工房の前で、足を止めた。
リシアが、はっと息を呑む。
「幻庵様、ここです! この工房の中が、まるで、日向ぼっこをしている猫のように、暖かく、心地よいマナで満たされています!」
幻庵は、リシアに合図し、音を殺して、工房の窓から、そっと中を覗き込んだ。
中は、月明かりに照らされているだけで、当然、誰の姿もない。
だが、リシアの目には、全く違う光景が映っていた。
陽炎のように、ゆらゆらと揺らめく、いくつもの小さな光の塊。それらが、床に転がっていた小さなノミを、楽しげに持ち上げ、壁の道具掛けに、こつん、と引っ掛けている。また別の光の塊は、使いかけの砥石を、濡れた布で、健気に拭いている。
それは、物理的な存在ではない。この地に宿るマナが、意思を持って動いている、神秘の光景であった。
幻庵は、その光景を直接見ることはできない。だが、リシアの驚愕した表情と、工房の中から聞こえる、微かな物音から、全てを察した。
彼の脳裏に、日本の古い伝承が、鮮やかに蘇る。
使い古された道具に、魂が宿り、夜な夜な動き出すという、『付喪神』の物語。
土地に宿り、その家の繁栄を守るという、『座敷わらし』の伝説。
あるいは、あらゆるものに神が宿るとする、八百万の神々の思想。
「……なるほど。そういうことであったか」
幻庵は、畏怖でも、恐怖でもなく、長年の謎が解けた哲学者のように、深く、そして、満足げに頷いた。
「これは、呪いや祟りなどという、おどろおどろしいものではない。我らの知る理で言えば、『土地神』や、物に宿る『精霊』とでも呼ぶべき、見えざる隣人たちよ」
幻庵の言葉に、リシアも、興奮したように頷いた。
「はい! おそらくは、この小田原が、とても豊かで、穏やかなマナで満たされるようになったことで、古くからこの土地に眠っていた、名もなき精霊たちが、目を覚ましたのです! 彼らは、この場所が、ここで暮らす人々が、とても好きなのですね。だから、つい、手助けや、悪戯をしたくなってしまうのです」
原因が、わかった。
この土地そのものが、北条の統治によって健やかさを取り戻し、喜んでいる。その、何よりの証であったのだ。幻庵は、工房の中で楽しげに揺らめいているであろう、見えざる隣人たちに、静かに語りかけるように呟いた。
「ならば、彼らを恐れ、追い払うは愚の骨頂。むしろ、敬意を払い、我らの隣人として、共にこの地で生きていく道を探るべきじゃな」
北条家は、この日、この世界の物理的な法則の、さらに奥深くにある霊的な法則と、初めて本格的に向き合うことになった。
それは、彼らの「禄寿応穏」という統治理念が、人間や亜人だけでなく、この世界の、見えざる存在にまで及んでいくことの、始まりの合図であった。
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