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第三十四話:金貨の盟約

 

 評議会の間に、重い沈黙が落ちていた。

 板部岡江雪斎が突きつけた、あまりにも非対称な取引。それは、商人たちが拠って立つ基盤そのものを差し出せという、無茶苦茶な要求であった。だが、彼らがそれを一蹴できないのは、目の前にある『清酒』と『醤油』という、抗いがたい利益の輝きと、そして、江雪斎の言葉の裏にある、底知れぬ真意を計りかねているからであった。


(……この坊主、ただのハッタリか? いや、違う。あの目……あの目は、全てを見透かした上で、我らを試しておる)

 海運ギルドの長は、ゴクリと唾を飲んだ。


(我らを「盟友」と見るか、だと? 馬鹿馬鹿しい。だが、もし、もしこの話に乗らねば、奴らは、別のギルドにこの甘い汁を吸わせるやもしれぬ。それだけは、断じてならん……!)


 金融ギルドの長もまた、その肥え太った指で、卓を神経質に叩いていた。葛藤。疑念。そして、強欲。いくつもの感情が、円卓の上で渦を巻いていた。


 その、張り詰めた膠着状態を破るかのように、江雪斎は、ゆっくりと立ち上がった。

 彼は、評議会に運び込まれていた、巨大な大陸地図を、円卓の中央に、静かに広げる。


「皆様。戦というものは、何も、槍と剣を交えることばかりではございませぬ」

 江雪斎の声は、先程までの鋭さを潜め、まるで、壮大な物語を語り始めるかのような、穏やかな響きを帯びていた。


「我らが真に戦うべきは、帝国の騎士団ではございませぬ。我らが狙うべきは、帝国の『胃袋』と、そして、その『財布』にございます」


 彼の指が、地図の上、東の果てにある、小さな「オダワラ」の文字を指し示す。


「我ら北条の領地では今、『陽光米』という、奇跡の米が、これまでの倍以上の収穫量で実っております 。その味は、皆様が知るどの麦よりも、滋味深く、そして、力が湧く。この米を、もし、我らが、帝国の半値で、大陸中に流通させることができたなら……」

 江雪斎の指が、今度は大陸中央、アークライト神聖帝国へと滑る。


「帝国の農村は、どうなりましょうか。領主へ納める麦を作ることさえ馬鹿らしくなり、自らの土地を捨て、我らの米を求めるようになるのではございませぬか。帝国の国力は、その根幹である『農』から、静かに、しかし、確実に腐っていくことになりましょう」


 商人たちの目つきが、変わった。彼らの脳裏に、安価で良質な商品が、市場の相場を破壊していく光景が、ありありと浮かび上がる。


「我らは、『小田原鋼』という、帝国のどの鋼よりも強く、しなやかな鋼を生み出しました 。これで打った武具は、帝国の騎士たちが喉から手が出るほど欲しがるでしょう。我らは、それを、彼らに、適正な価格で売りましょう。さすれば、帝国の金貨は、川の流れのように、我らが小田原へと、流れ込んでくる」


 江雪斎は、そこで一度、言葉を切った。そして、商人たち一人ひとりの顔を見つめ、最後の、そして、最も甘美な毒を、彼らの耳へと注ぎ込んだ。


「――そのための、『道』と『船』を、お持ちなのは、皆様方ではございませぬか」

「我らが『生産力』と、皆様方の『商業網』。この二つが結びつけば、我らは、一人の兵も動かすことなく、一滴の血も流すことなく、かの巨大なアークライト神聖帝国を、経済によって、内側から完全に支配することができる。武力ではなく、『富』によって、帝国を包囲するのです」


 それは、あまりにも壮大で、野心的で、そして、悪魔的とも言える構想であった。

 だが、その構想は、商人である彼らにとって、これ以上なく魅力的であった。戦のリスクを冒すことなく、ただ、自分たちが最も得意とする「商い」をするだけで、大陸最大の国家を手玉に取り、そして、史上空前の利益を手にすることができるのだ。

 恐怖と、興奮。相反する感情が、商人たちの心を鷲掴みにする。


「……狂っておる」

 評議会の議長が、かすれた声で呟いた。


「……貴殿のその考えは、まさに狂気の沙汰だ。だが……」

 彼は、江雪斎の目を、真っ直ぐに見据え、そして、その口の端を、獰猛に吊り上げた。


「……その、狂った儲け話、乗った」


 その一言が、合図であった。

 それまで互いを牽制していた商人たちが、堰を切ったように、今度は、その壮大な計画の実現に向けて、具体的な提案を、再び競うように口にし始めた。


「ならば、我が『青波商会』が、全ての海路の安全を請け負おう! 我らの船以外、その米も、酒も、運ばせはせん!」


「我ら金融ギルドが、この計画に必要な全ての銭を動かす! その見返りは、帝国から得た利益の、三割だ! いや、二割五分で手を打とう!」


 江雪斎は、その光景を、満足げに、静かに見つめていた。


 ◇


 数日後。商工会館の一室で、一枚の羊皮紙に、江雪斎と、評議会の長たちが、次々と署名をしていった。

 表向きは、北条家と自由都市同盟との間で結ばれた、限定的な交易協定。


 だが、その水面下では、軍事・諜報面での協力と、経済による帝国への静かなる侵攻という、恐るべき密約が、固く交わされていた。


 それは血ではなく、金貨と互いの野心によって結ばれた極めて異質な同盟。

 後に、この密約は、畏怖とかすかな賞賛を込めて、こう呼ばれることになる。

 ――『金貨の盟約』、と。


 北条家は、この日、異世界で最初の、最も狡猾で頼れる盟友を手に入れた。

 帝国の巨大な影に対し、彼らは、武力ではない全く新しい武器をその手にしたのである。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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