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第三十三話:海軍と水銀

 

 欲望の渦。

 板部岡江雪斎が投じた『醤油』と『清酒』という二つの石は、自由都市同盟の商人たちの心に、これ以上ないほどの大きな波紋を広げていた。


 評議会の間は、もはや、外交交渉の場ではなかった。互いの利益を巡り、剥き出しの強欲が火花を散らす、競りの市場そのものであった。


「江雪斎殿! 我ら『青波商会』こそが、貴殿らの最高の取引相手だ! 我が船団は、この大陸のどの港へも、安全に、そして迅速に、その至高の酒を届けることができる!」


「戯言を! 海の上でしか威張れぬ船乗りどもめ! 江雪斎殿、真の販路とは、陸路にこそある! 我ら陸運ギルドと組めば、帝国の内陸、貴族どもの食卓にまで、その『ショーユ』とやらを届けてみせようぞ!」


「銭だ! 話はそれからだ! 我ら金融ギルドが、この取引に必要な全ての初期投資を約束する! その見返りは、このポルト・マーレにおける、独占販売権だ!」


 彼らは、江雪斎に語りかけているようで、その実、互いを鋭く牽制しあっている。この千載一遇の商機を、ライバルに奪われることだけは、断じて許さない。その一心であった。


 江雪斎は、その醜くも、人間らしい欲望の応酬を、ただ、静かに、そして、どこか楽しむかのように、柔和な笑みを浮かべて聞いていた。彼の前では、茶を勧められても、誰もそれに手をつける者はいなかった。茶碗を持つその一瞬の隙さえ、惜しいとでも言うように。


 やがて、喧騒が頂点に達した時。

 江雪斎は、すぅ、と息を吸うと、その場の全ての音を塗りつぶすかのような、静かで、しかし、凛とした声を放った。


「――皆様方の、熱意、痛み入りまする」


 その一言で、ぴたり、と全ての声が止んだ。

 江雪斎は、居並ぶ商人たちの顔を、一人ひとり、ゆっくりと見回した。


「いずれのお申し出も、我ら北条にとっては、身に余る光栄。なれど、残念ながら、我らが求めるは、目先の銭や、つかの間の安寧ではございませぬ」


 彼は、商人たちが提示した全ての提案を、その柔らかな物腰で、しかし、きっぱりと、一蹴した。


「……なに?」

「では、貴殿らは、一体、何を望んでおるのだ」


 商人たちの顔に、困惑と、苛立ちの色が浮かぶ。銭でも、販路でもない。ならば、この者たちは、何のために、この危険な海を渡ってきたというのか。


 江雪斎は、その問いを待っていたかのように、ゆっくりと、懐から一枚の白紙を取り出し、円卓の中央に置いた。


「我らが、かの至高の酒と、万能の調味料を提供する、その対価。それは、三つにございます」


 一つ、と江雪斎は、人差し指を立てる。その所作は、まるで、子供に物事を教え諭す、老教師のようであった。


「一つ。皆様方が誇る、『外洋航海船の設計図』。そして、それを自在に操る、『海軍の育成ノウハウ』。その全てを、我らにお渡しいただきたい」


 その言葉に、海運ギルドの長の顔が、引きつった。自分たちの力の源泉、その根幹を、明け渡せというのか。


 江雪斎は、構わず、二本目の指を立てる。


「二つ。皆様方が、このポルト・マーレの、いや、この大陸の海運を牛耳る上で、欠かすことのできぬ情報網。すなわち、諜報ギルド『水銀マーキュリー』。そのギルドが持つ、『アークライト神聖帝国の内情』に関する全ての情報を、我らと共有していただきたい」


 今度は、評議会の全ての商人たちの顔から、血の気が引いた。『水銀』は、彼らが金を出し合って運営する、同盟の目であり、耳である。その情報を渡すことは、自らの懐の内を、全て見せることに等しい。


 そして、江雪斎は、最後の指を立てた。その目は、もはや、柔和な僧侶のそれではない。敵の喉元に、刃を突きつける、戦国の将の目であった。


「――そして、三つ。この全ての取引を、金貨や銀貨といった、価値の変わりやすいものではなく、互いの『信頼』のみを担保として、行うこと」


 静寂。

 死んだような静寂が、広間を支配した。

 やがて、その静寂は、一人の商人が、椅子を蹴倒して立ち上がったことで、爆発的な怒号へと変わった。


「ふざけるなッ! それは、取引などではない! 我らの牙を抜き、首に縄をかけ、好きに操ろうという、ただの支配ではないか!」


「そうだ! 海軍も、情報も、我ら自由都市同盟が、帝国と渡り合うための、命そのものだ! それを差し出せとは、我らに死ねと申すか!」


「馬鹿にするのも、大概にしろ! 東の蛮族どもめが!」


 商人たちの顔は、欲望から、屈辱と、怒りに真っ赤に染まっている。交渉は、完全に決裂したかに見えた。近江屋利兵衛でさえ、顔面を蒼白にさせ、冷や汗を流している。


 だが、その怒りの嵐の中心で、江雪斎は、なおも、泰然自若としていた。

 彼は、立ち上がると、怒り狂う商人たちを、哀れむような、それでいて、どこか慈しむような目で見つめた。


「皆様。獣は、目の前の餌にしか、興味を示しませぬ。なれど、人は、三日後の天候を読み、冬に備えて、種を蒔くものではございませぬか」


 その、禅問答のような言葉に、商人たちは、一瞬、言葉を失う。


「我らが共通の敵は、誰か。いずれ、我らの首を締めに来るであろう、アークライト神聖帝国ではございませぬか。その時、皆様は、船と、銭と、情報、そのいずれを失うことを、最も恐れられるか」


「我らが求めるは、皆様の富ではない。帝国という巨大な熊を前に、共に立ち向かうための、『力』。それも、一時しのぎの傭兵のような力ではなく、共に、同じ船に乗り、同じ未来へと漕ぎ出すための、真の『盟友』としての力にございます」


 江雪斎は、円卓の中央に置いた白紙を、指で、とん、と叩いた。


「この白紙こそが、我らが皆様の『誠意』を計る、試金石。皆様は、我らを、ただ利用すべき、都合の良い田舎者と見るか。あるいは、帝国という共通の敵を前に、共に未来を歩むべき、真の『仲間』と見るか」

「……その答えを、今、この場でお聞かせいただきたい」


 江雪斎は、単なる商取引を、国家の存亡を賭けた、「信義」を問う、高度な政治の舞台へと、一瞬にして昇華させたのだ。


 商人たちは、もはや、怒鳴ることもできない。ただ、互いの顔を見合わせ、江雪斎が突きつけた、あまりにも重い選択肢を前に、己の欲望と、国家の未来とを、天秤にかけるしかなかった。


 その葛藤の表情を、江雪斎は、静かな、そして、全てを計算し尽くした笑みで、見つめていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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