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第三十二話:商人たちの評議会

 

 ポルト・マーレの桟橋に第一歩を記した瞬間、板部岡江雪斎は、自らが知る世界の全てが、塗り替えられていくのを感じた。


 空気を満たすのは、潮の香りだけではない。南方から運ばれてきたのであろう、未知の香辛料のむせるような匂い。獣の脂が焼ける香ばしさ。そして、人いきれの汗と、得体の知れない酒が発酵する甘い腐臭。その全てが、この港町の、剥き出しの生命力そのものであった。


 道行く人々の会話は、マナの共鳴によって意味は理解できるものの、その響きは千差万別であった。帝国の貴族が使うであろう流麗な言葉、船乗りたちの荒々しい罵声、そして、江雪斎の耳には判別もつかぬ、幾多の少数民族の言葉。それらが、まるで巨大な市場の喧騒のように、ごちゃ混ぜになって彼の耳に飛び込んでくる。


「へっへっへ。和尚様、こいつはとんでもねえ場所でさぁ」

 隣を歩く商人・近江屋利兵衛が、興奮を隠しきれぬ様子で囁いた。


「ご覧なせえ。あの建物に使われてる煉瓦、あの船のマストに使われてる木材、どれもこれも、産地がてんでんばらばらだ。つまり、この街は、この大陸の、ありとあらゆる富が一度は流れ着く、巨大な『終着点』であり、そして『始発点』なんでさ。……金儲けの匂いが、ぷんぷんしやすぜ」


 その言葉を裏付けるように、彼らを迎えたのは国の役人ではない。胸に天秤と金貨の紋章をつけた、商人ギルドの私兵と名乗る者たち。彼らの態度は丁重であったが、その目は、江雪斎一行が纏う『異界式当世具足』と腰の『小田原鋼』の価値を、値踏みするように光っていた。


 一行が案内されたのは、街の中央にそびえる「商工会館」。異国から集められた最高級の大理石や黒檀を使い倒した、豪華で品のない建物であった。


 通されたのは、「評議会の間」と呼ばれる円形の広間。

 中央の巨大な円卓を、十数人の男たちが囲んでいた。彼らは、江雪斎一行が入室しても、その視線を上げる者は少ない。ある者は爪を磨き、ある者は金貨の重さを指先で確かめ、ある者はただ、目の前の盃に映る自分の顔を眺めている。


 海運ギルドの長であろう、顔に深い傷跡を持つ男が、初めてその重い口を開いた。その声は、岩が擦れるような、嗄れた声であった。

「……で、何の用だ。東の国から来た、物珍しい見世物の一座か?」


 その言葉に、指という指に宝石の指輪をつけた肥え太った男が、腹を揺らして笑う。

「おいおい。客人に失礼であろうが。その、腰に差した見事な刀。一本、銀貨何枚で我らに譲ってくれるかな?」


 彼らの目に、血統への誇りや、正義といった光はない。ただ、目の前の獲物を、いくらで買えるか、どう食い散らかすか。その、鋭敏な獣の光だけが宿っていた。


「――して、東の森から来たという、ホウジョウの使節殿」

 最初に口を開いたのは、評議会の議長を務める、最も老獪そうな男だった。


「単刀直入に聞こう。我らに、何の用かな? 我々は、暇ではない。貢物でも捧げて、帝国の属国に加えてほしい、という陳情であるならば、お門違いだぞ」


 あからさまな侮蔑。彼らにとって、北条家は、東の果てでオークを退けただけの、成り上がりの小勢力に過ぎない。

 だが、江雪斎は、その言葉に動じることなく、柔和な笑みをたたえたまま、深々と、しかし、堂々と一礼した。


「お初にお目にかかります、自由都市同盟の皆様方。わたくしは、北条家当主・氏康が名代、板部岡江雪斎と申します。此度参りましたのは、ただ一つ。皆様方と、『友誼』を結びたればこそ」

 江雪斎は、まず、贈答品として、小田原鋼で打たれた脇差を披露した。


 商人たちは、その見事な出来栄えに「ほう」と声を漏らすも、「良い品だが、値段次第だな」と、さほど関心を示さない。彼らは、世界中のあらゆる逸品を見慣れているのだ。


「なるほど、皆様方のお目は、実に確かでいらっしゃる」

 江雪斎は、少しも落胆した様子を見せず、次の品を、供の者に用意させた。


 運ばれてきたのは、小さな火鉢と、鉄串に刺された、分厚い牙猪の肉。そして、黒い液体で満たされた、一つの小さな壺であった。肉が焼ける香ばしい匂いが、広間に広がる。江雪斎は、焼きあがった肉の上に、その黒い液体を、数滴、垂らした。

 ジュッ、という音と共に、これまでとは比較にならぬほど、芳醇で、食欲を掻き立てる香りが、爆発的に立ち上った。


「これは、我らが『醤油』と呼ぶ、秘伝の調味料にございます。どうぞ、お一口」


 商人たちは、訝しげに、しかし、その抗いがたい香りに抗えず、肉の小片を口に運んだ。

 次の瞬間、評議会の間に、驚愕の沈黙が落ちた。


「な……なんだ、これは!?」


「ただの塩味ではない! 深い……あまりにも、深く、複雑な『味』がする!」


 彼らが、生まれて初めて体験する「旨味」の衝撃。それは、彼らの、金と物しか信じてこなかった舌と脳を、根底から揺さぶった。


「さて、皆様」

 江雪斎は、商人たちの動揺を好機と見て、最後の、そして、最高の切り札を、静かに卓上へと置いた。

 至高の『清酒』が、透き通ったガラスの杯に、とくとくと注がれていく。


「お口直しに、我が国が誇る、魂の酒を、どうぞ」


 商人たちは、もはや、疑うことさえ忘れていた。まるで、魔法にでもかかったかのように、その杯を手に取り、一斉に、その澄み切った液体を、喉へと流し込んだ。


 ――衝撃。


 ドワーフの王がそうであったように、彼らの動きが、完全に止まった。

 これは、酒ではない。少なくとも、彼らが知る、ただ酔うための液体ではない。洗練の極みに達した、文化そのものであった。


 やがて、我に返った商人たちの目が、変わった。

 それまでの、値踏みするような目ではない。

 獲物を見つけた、飢えた狼の目に。

 この『醤油』と『清酒』を、もし、己のギルドが独占できたなら。その先に待つ、莫大な、天文学的な富を、彼らは一瞬にして計算し終えていたのだ。


「……江雪斎殿、と申されたかな」

 それまで黙っていた海運ギルドの長が、前のめりになって口を開いた。


「素晴らしい! 実に素晴らしいもてなしだ! 我ら『青波商会』と、独占交易の契約を結んでいただきたい! その見返りとして、我らが誇る海軍が、貴殿らの航路の安全を、未来永劫、保証しよう!」


「お待ちいただきたい!」

 すかさず、肥え太った金融ギルドの長が、声を荒らげる。


「船乗りどもに、商いの何がわかる! 江雪斎殿、我ら『黄金天秤銀行』と組むべきだ! 貴国が帝国と事を構える際の、軍資金、我らが無利子で、いくらでも融通してご覧にいれようぞ!」


 一人、また一人と、ギルドの長たちが、互いを牽制し、より魅力的な条件を提示し、江雪斎に殺到する。評議会の間は、剥き出しの欲望が渦巻く、新たな戦場と化していた。


 その、欲望の渦の中心で、江雪斎は、ただ、静かに、柔和な笑みを浮かべていた。彼の脳裏では、冷徹な算盤が、驚くべき速度で弾かれている。


(……面白い。実に、面白い獣たちよ。さて、どの網に、最初にかけるべきか)


 北条家が「文化」を武器とした、新たな外交戦の幕は、今、切って落とされた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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