第二話:最初の襲撃
評定の大広間は、静まり返っていた。
畳の上に置かれた、禍々しいまでに長大な牙。それは、この見知らぬ天下の脅威と、そして恵みの象徴であった。
北条氏康は、その牙から家臣たちへと視線を移した。
絶望の色は、もう誰の顔にもない。代わりに宿っているのは、為すべきことを前にした、武家としての覚悟と緊張感だ。
「小太郎の報告、皆も聞いた通りだ」
氏康の声が、静かに広間を満たす。
「この地は、我らの知る相模ではない。なれば、我らが今為すべきは、ただ一つ。生き抜くこと。そして、幾万の民を一人たりとも飢えさせぬことだ」
彼は、指を一本立てた。
「喫緊の課題は三つ。――水、食料、そして医療」
「まず、水。城内の井戸だけでは幾万の喉を潤し続けることはできぬ。城外の川が使えるのか、安全なのか、それを確かめる必要がある」
「次に、食料。備蓄には限りがある。風魔が仕留めた化け猪のように、新たな糧を得る術を探ると同時に、全ての食料を厳格に管理し、公平に分配せねばならぬ」
「最後に、医療。先の転移の混乱で怪我を負った者も多い。何より、未知の風土病がいつ発生するとも限らぬ。薬師衆を中心に、万全の体制を整えよ」
氏康は、それぞれの課題を提示するごとに、家臣たちの顔を鋭く見据えた。
「幻庵殿。水源の確保と検分、お頼みできますかな」
「ほう。この老骨に、面白い役目をくださる」
幻庵は、その皺深い顔に知的な笑みを浮かべた。未知の探求は、彼にとって何よりの喜びであった。
「氏政。食料の管理と配給、そして新たな田畑を開拓する任、そなたの務めじゃ。これは、この新生・北条領の礎を築く大役ぞ。やり遂げられるか」
「……はっ! この氏政、身命を賭して!」
氏政は、父からの重責に身を固くしながらも、力強く応えた。
偉大な父や叔父たちに囲まれ、自身の当主しての役割を模索していた彼にとって、これはまたとない機会であった。
「綱成。そなたは引き続き、城の防衛を。風魔の報告を元に、かの化け物どもの習性を探り、万全の守りを固めよ」
「御意。この綱成がいる限り、城壁は一枚たりとも破らせませぬ!」
綱成は、新たな強敵との戦いを予感し、その目に好戦的な光を宿らせた。
氏康から矢継ぎ早に放たれる指示に、先程までの混乱が嘘のように静まり、評定の間には確かな活気が満ちていく。その一言一句に迷いはない。評定が終わるやいなや、家臣たちは、己の役目を果たすべく一斉に動き出した。
◇
幻庵は、数人の供だけを連れ、城外の川辺に立っていた。
川の水は、見た目には清廉そのものだ。だが、この世界の理がわからぬ以上、安易に飲むことはできない。
「ふむ……」
幻庵は、川の水を桶に汲むと、匂いを嗅ぎ、指で粘り気を確かめる。
そして、懐から取り出した小さな銀の針を、そっと水に浸した。
「……毒物の反応はなしか」
彼は次に、供の者たちに命じて川辺の土を掘らせた。戦陣でしばしば用いられる手法に則り、炭と砂、そして清浄な布を幾重にも重ねた、即席の濾過装置を組み上げる。
汲み上げた水が、ゆっくりと装置を通り、澄んだ水滴となって下の桶に溜まっていく。
「これならば、ひとまずは安全な水が確保できよう。だが、問題は量じゃな。幾万の民に行き渡らせるには、もっと大規模な仕組みがいる」
幻庵は、川の流れを見つめながら、新たな構想を練り始めていた。
彼の好奇心は、すでに揚水水車の設計図を描き始めていた。
◇
一方、氏政は城下町の広場で、商人たちを前に頭を抱えていた。
「皆の者、存分は承知の上! なれど、この未曽有の事態、民の命を救うため、城下の全ての食料を一度、城の管理下に置かせてもらう! 後日、必ず正当な対価は支払うゆえ、どうか協力願いたい!」
彼の必死の説得にも、商人たちは難色を示す。
「ご当主自らとはいえ、そ、そのようなご無体な……」
「これは我らが汗水流して蓄えた商品。それを全て召し上げるとは……」
無理もなかった。彼らにとって、商品は財産そのものだ。
氏政は、歯を食いしばった。父ならば、どうする。
力で押さえつけるのは簡単だ。だが、それでは民の心は離れてしまう。
「皆の気持ちは、痛いほどわかる。だが、考えてもみてほしい。この先、銭が何の役に立つ? 金銀が、腹を満たしてくれるか? 今、我らにとって最も価値があるのは、一粒の米、一握りの塩だ! それを皆で分け合い、この危機を乗り越えることこそが、我ら全員が生き残る唯一の道なのだ!」
氏政の、腹の底からの叫び。
その真摯な言葉に、商人たちの間に動揺が走る。
そこへ、巨大な鍋を乗せた大八車が、何台も運び込まれてきた。
鍋から立ち上るのは、獣肉と野菜の混じった、食欲をそそる芳醇な香り。
風魔忍軍が仕留めた、あの化け猪の肉を使った「しし鍋」であった。
「まずは、これを食ってくれ! 腹が減っては、話もできまい!」
氏政の合図で、兵たちが次々と民に鍋を振る舞い始める。
おそるおそる口にした民の顔が、驚きと安堵に変わっていく。
「う、うめぇ……」
「ああ、温かいものが腹にしみる……」
温かい食事は、何よりの薬だった。
民の顔に少しずつ生気が戻るのを見て、氏政は確信する。
温かい粥が、民の凍てついた心と体を解かしていく。その光景を見つめる氏政の胸に、父の言葉が熱い奔流となって流れ込んだ。そうだ、民を養うことこそが、国づくりの、全ての始まりなのだ。
彼の脳裏には、既に次なる一手――厳格な配給制度の確立と、この見知らぬ森を黄金色の田畑に変える壮大な開拓計画――が描かれていた。彼は、その未来図を胸に、固く拳を握りしめた。
◇
その頃、城壁の上では、綱成が眉間に深い皺を刻んでいた。
彼の目の前には、血まみれの足軽が横たわり、肩で息をしている。
「……間違いありませぬ。森の見張り櫓が、空飛ぶ化け物に……」
「空、だと?」
足軽の報告は、衝撃的なものだった。
風魔とは別の、通常の見張りが、森の端に物見櫓を立てていたところを、空から奇襲されたというのだ。
「人の大きさで、岩のような皮膜の翼が生え……口から、石つぶてを吐いてきまして……」
翼を持ち、石を吐く。その報告に、綱成は吐き捨てた。
「空からの攻撃か……厄介な!」
戦は、常に地の上で行われるもの。それが、彼の常識だった。
だが、この世界では、その常識が通用しない。
「鉄砲隊を集めろ! 大至急だ!」
綱成の号令一下、城がにわかに活気づく。
彼は、鉄砲隊の者たちと、空への射撃の訓練を即座に開始した。
上空を高速で移動する的を撃ち落とすのは至難の業だ。
さらに、敵が石つぶてを吐くというのなら、射手は無防備に身を晒すことになる。
「長槍隊! 竹を束ねた巨大な盾、『掻盾』を構えろ! 鉄砲隊の上を覆い、敵の攻撃から守るのだ! 射手は、盾の隙間から狙え! 斉射の後は、すぐに盾の後ろへ!」
綱成は、即座に新しい陣形を考案し、兵たちに徹底させる。
敵の習性を分析し、こちらの土俵で戦う。それが北条軍の基本原則であった。
その、訓練の最中だった。
城下の炊き出しの煙と匂いに誘われたのか、遠くの空に、黒い点がいくつも現れた。
それは、みるみるうちに大きくなり、不気味な翼を持つ化け物の群れとなって、城へと迫ってきた。
「敵襲! 空より、異形の獣の群れ!」
見張り台からの絶叫が響き渡る。
城下が、再びパニックに陥りかけた。
「うろたえるな! 報告にあった『石吐き』どもだ! 訓練通り、陣形を組め!」
綱成の雷鳴のような一喝が、兵たちの恐怖を吹き飛ばす。
長槍隊が、巨大な掻盾を天に向け、鉄壁の屋根を作り上げる。
鉄砲隊が、その隙間から、静かに銃口を空に向けた。
翼を持つ獣の群れが、城壁上空に到達し、けたたましい鳴き声と共に、石つぶての雨を降らせてくる。
バチバチと、掻盾に石が当たる音が響くが、兵たちに届きはしない。
「――放てぇッ!!」
綱成の号令と共に、数十の火縄銃が一斉に火を噴いた。
轟音と硝煙が、城壁を包む。
空中で、数羽の獣が悲鳴を上げ、翼から血しぶきを上げてきりもみ状に墜落していった。
◇
本丸の櫓から、氏康はその光景を静かに見下ろしていた。
城壁では、兵たちが勝鬨を上げ、地に落ちた獣の骸を検分している。
城下では、民が熱いしし鍋を啜り、一時の安らぎに顔をほころばせていた。
硝煙の匂いと、肉の焼ける匂い。
戦と、暮らし。
二つの匂いが混じり合うこの異様な光景こそが、今の自分たちの現実だった。
氏康は、視線を上げた。
城壁の外には、底知れぬ闇をたたえた原生林が、どこまでも広がっている。
まるで、小田原という小さな灯火を、飲み込もうと待ち構える巨大な獣のようだ。
明日もまた、民は腹を空かせる。
そして、あの森の闇からは、次なる脅威が必ずや現れるだろう。
氏康は、熱い鍋を囲む民の顔をもう一度目に焼き付けると、固く拳を握りしめた。
この灯火を、絶やすわけにはいかぬ。
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