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第三十一話:南への船出

 

 天高く馬肥ゆる秋。

 レミントン辺境伯領との大戦を制し、北条家は新たな季節を迎えていた。

 生存のための必死の闘争は終わった。その舵は、今や「国家」としての未来を築く、まだ見ぬ大海原へと切られていた。


 北のドワーフとは技術交流の、西のオークとは傭兵としての盟約の道筋が見え、エルフの革新派とは水面下で連携が始まった。捕虜となった竜騎士団長サー・ゲオルグは、小田原の統治のあり方に、その騎士としての価値観を根底から揺さぶられている。


 その日の早朝、小田原城下の南、相模湾があったはずの場所に面した急ごしらえの港は、夜明け前の冷気と、男たちの熱気に満ちていた。潮の香りと、濡れた木材の匂い。


 朝靄の中、三隻の船が、巨大な獣のようにその威容を浮かべていた。日本の安宅船を骨格としながらも、その姿は異質であった。竜骨にはドワーフの技術で強化された鉄材が走り、帆にはガーゴイルの皮膜を応用した特殊な素材が、夜明け前の風を孕んで、静かに脈打っている。それは、北条家がこの世界で手に入れた、技術融合の最初の結晶であった。


 陣羽織姿の北条氏康が、その船首を見据える。


「康英、抜かりはないな」

 伊豆衆を率いる猛将・清水康英が、日に焼けた顔を引き締めて応えた。


「はっ。この船も、乗り組む者どもも、殿の命を待つばかりにございます」


「うむ。南の海に、我ら北条の、新たな道を拓いてまいれ」

 その旗艦に乗るのは、板部岡江雪斎。氏康が最も信頼する、稀代の外交僧である。


 夜明け前、小田原の南港。潮の香りと男たちの熱気が、朝靄の中に満ちていた。

 総大将・北条氏康が、その船首を静かに見据えている。


「江雪斎。此度の旅、道中の全てをそなたに一任する」

「はっ。この江雪斎、舌先三寸にて、彼の国の富、根こそぎ我が物としてご覧にいれましょう」


 その柔和な笑みの隣で、商人・近江屋利兵衛が、算盤の珠を弾くかのようにその目を細めていた。彼もまた、己の商才を見込まれ、この国家事業に参加する。


 船の甲板には、護衛の武士が二十名、仁王立ちになっていた。彼らが纏うは『異界式当世具足』。腰には『小田原鋼』の太刀。少数ではあるが、その一人ひとりが一つの城にも匹敵する北条の力を示す、無言の威嚇であった。


 やがて、東の空が白み、夜と朝の境界線が溶ける。

 清水康英の張りのある号令が、港に響き渡った。


「――出航!」


 銅鑼が打ち鳴らされ、重い錨が引き上げられる。三隻の船は岸を離れ、南を目指す。

 頼りは、流れ着いた商人たちが残した一枚の海図のみ。未知なる航海の始まりであった。


 ◇


 彼らが知る相模湾とは、何もかもが違っていた。


 沖へ出て三日。陸の影は消え失せ、三百六十度、紺碧の海と、どこまでも続く空だけが広がっていた。肌を焼く陽光。インクを溶かしたかのような、深く濃い海の色。

 船首に立つ江雪斎は、頬を撫でる潮風の濃さに目を細めた。


「……これは、なんともはや。海というよりは、天そのものが、我らの下に広がっているかのようですな」

 その時、水兵の一人が驚きの声を上げた。


「おい! 見ろ! 魚が、空を飛んでやがる!」

 その指差す先、船の脇の海面から銀色の鱗を持つ魚の群れが飛び出す。彼らは蝶のごとき虹色の鰭を羽ばたかせ、水面の上を数十間も滑空し、再びしぶきを上げて海中へ消えた。


 だが、その穏やかな光景を嘲笑うかのように、海は牙を剥いた。


 航海の十日目。凪いだ海面に、小山のごとき影が浮上した。船乗りたちが『海坊主』と恐れる海獣。その無数の触腕が、船を砕かんと水面を叩く。

 だが、船を率いる清水康英の目に揺らぎはない。


「うろたえるな! 大筒、用意! 狙いは奴の目玉だ!」

 彼の号令一下、船に備え付けられた青銅製大筒が轟音と共に火を噴く。砲弾は海獣の巨大な眼球の脇を掠め、その巨体を怯ませた。その隙に、船は帆を張り、危険な海域を離脱する。


 夜になれば、夜光虫が船の軌跡を天の川のように描き、空には見たこともない星座が宝石をちりばめて瞬く。

 満天の星の下、江雪斎は、船倉の積荷を検分する利兵衛に声をかけた。


「……近江屋殿。かの自由都市同盟とは、いかなる場所か」


「へっへっへ。和尚様。そいつぁ、俺っちのようなもんにとっちゃ、天国であり、地獄でもありまさぁ」

 利兵衛は、醤油の樽の蓋を愛おしげに撫でながら、にやりと笑った。


「法も身分も、そこにはあってないようなもの。銭と力が、全ての理を決める場所。王侯貴族なんぞより、よっぽど狡猾で強欲な商人どもが牛耳っているに違いねえ。……だからこそ、俺っちにも付け入る隙があるってもんでさ」


 ◇


 航海を始めて一月。水樽は底が見え、食料も尽きかけ、船乗りたちの顔には死の色が浮かんでいた。

 その時、見張り台の兵士が、かすれた、しかし歓喜の叫びを上げた。

「――陸だ! 南に、陸が見えるぞ!」


 その声に、船上の誰もが最後の力を振り絞って甲板へと駆け出した。

 江雪斎も、利兵衛も、清水康英も、その水平線の先に、確かな黒い影を認めた。


 船が近づくにつれ、その影は異様な姿を現す。城壁ではない。港を守るように、湾に沿って無数の岩礁が、巨大な獣の牙のように突き出している。その岩礁と陸地を、巨大な石の橋や木造の桟橋が、蜘蛛の巣のように無秩序に結びつけていた。


 風が、街の匂いを運んでくる。潮と、魚と、未知の香辛料、そして、人いきれの汗と、剥き出しの欲望の匂い。

 建物は石、木、色鮮やかな煉瓦、その全てが何の統一性もなく密集し、ひしめき合っている。その景観は、小田原の整然とした城下町とも、レミントンの武骨な石の城とも違う。生命力と、危険な匂いに満ちていた。


 港には、北条の船とは比べ物にならぬ巨大な三本マストの帆船が何隻も停泊し、その帆には様々な商会の紋章が描かれている。

 そこは人種の坩堝であった。肌の色、髪の色、纏う衣服、全てが違う者たちが、互いに怒鳴り、笑い、肩をぶつけ合いながら、一つの濁流となって道を行き交う。その中にはドワーフの姿や、獣の特徴を持つ亜人の姿さえも見える。


(活気。混沌。そして、剥き出しの欲望)

 港町「ポルト・マーレ」。自由都市同盟の玄関口。

 江雪斎は、その空気を肌で感じながら呟いた。

「……なるほど。ここが、銭と、欲の、新たな戦場か」


 彼の口元には柔和な笑みが浮かぶ。だが、その瞳の奥には、これから始まる舌戦への、武者震いにも似た光が宿っていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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