幕間五:片葉、芽吹くとき
オークとの大戦が終わり、小田原にかりそめの平穏が訪れて一月。
城下の一角、傷痍軍人たちが療養する長屋の一室。元・侍大将の赤井久綱は、虚空を見つめていた。
彼の右腕があった場所には、真新しい晒布が巻かれている。だが、久綱の脳裏には、存在しないはずの腕が、指が、確かな熱を持って疼く。あるはずのものがない。その喪失感が、彼の心を蝕んでいた。
誉れの討ち死にではない。オークの獣に、右腕を食い千切られた。武士としての道は、絶たれた。
(……もはや、殿の御役に立てぬ、穀潰しよ)
窓の外から、城下復興の槌音が聞こえる。ドワーフの怒声と、人間の職人の応答。その活気ある槌音の一つ一つが、彼の孤独と無力感を抉る、鉄の楔であった。
彼は、傍らに置かれた脇差に、残された左手を伸ばした。
冷たい鞘の感触。鞘に巻かれた鮫皮の凹凸が、彼の掌に、武士であった頃の記憶を呼び覚ます。
武士として生きられぬのなら、武士として死ぬ。それこそが、最後の情け。
彼が、その切っ先を抜き、自らの腹に向けようとした、その時であった。
戸口に、一つの影が立った。北条幻庵であった。
「――赤井よ。死ぬには早いのではないか」
久綱は、抜き放った脇差を、慌てて背に隠した。
「幻庵様……。なぜ、ここに。この、役立たずの元へ」
「そなたの、その左腕が、この国には必要でな」
幻庵は、久綱の隣に、どっかと腰を下ろした。
「……左腕? この、刀も握れぬ腕が、何に」
「赤井よ。失くした腕を嘆くのは、もうよせ。そなたが失ったのは一本の腕。なれど、そなたがこれまでの戦で培ってきた兵を率いる知恵、部下を思いやる心まで、失われたわけではあるまい」
幻庵は、彼の目を見据え、その言葉を告げた。
「殿からの、お言葉だ。『死ぬな。そして、生き恥を晒せ。そなたの新たな戦場は、ここにある』、と」
幻庵は、言葉を失う久綱を伴い、新設された小田原医療院と、それに隣接する工房へと向かった。
久綱がそこで見たのは、絶望の静寂とは無縁の、生命の熱気であった。槌の音、木を削る音、ドワーフの怒声と人間の笑い声。薬草と汗と、熱した鉄の匂い。
自分と同じ、手足を失った兵士たち。だが、その顔に、彼が抱えていた絶望の色はない。
ドワーフと日本の職人たちが、無骨な、人の腕の形をした「鋼鉄の義手」の試作品を、槌音高く打ち出している。
「もう少し、この指のバネを強くできんか。これでは、槌が握れん」
「無理言うな。お前の肩がもたんわい。まずは、この盃を持つことから始めろ」
ドワーフの職人が、鋼鉄の義手を装着した足軽に、木の盃を握らせている。
足軽は、ぎこちない金属の指で何度も盃を落とし、そのたびに舌打ちしながら拾い上げる。その顔には、絶望ではなく、ただ、新しい腕を使いこなそうとする、職人のような意地があった。
幻庵の言葉と、工房の熱気。それが、久綱の死んだように冷え切っていた心に、再び、小さな火を灯した。
彼は、自ら、その鋼の義手の最初の被験者となることを申し出た。
数日後。まだ慣れぬ、鉄の腕を装着した久綱は、院内にいた、同じ境遇の者たちを集めた。その鋼の腕は彼の意志に逆らい、ぎこちなく震えている。だが、彼の瞳には、失われた光が戻っていた。
「皆、聞け! 我らは、もう、戦の先陣は切れぬ! 敵の首級を挙げることも、叶わぬやもしれん!」
彼の声は震えていた。それは恐怖ではない。失ったものと正面から向き合う、武士の震えであった。
「なれど、我らは戦える! この腕でも槌を振るい、次の世代の鎧を作ることはできる! この足でも書状を運び、兵站を支えることはできる! 我らが培った知恵で、若き者を育てることもできる!」
「我らは、散った片葉にあらず! 次なる春に、新たな芽を吹くための、礎の葉となるのだ!」
彼は、鋼鉄の拳を天に突き上げた。
「今日、この日より、我らは『片葉の会』と名乗る! そして、殿より賜ったこの命、この役目に、我が魂の全てを賭けると、ここに誓う!」
その誓いに、沈黙していた傷痍軍人たちが、一人、また一人と応えた。
ある者は残された片腕を突き上げ、ある者は松葉杖で床を叩き、ある者はただ声もなく涙した。それは、絶望の淵から這い上がった者たちの、再生の鬨の声であった。
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