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第二十九話:帝国の影

 

 男は、走っていた。


 砕けた鎧の縁が、一歩ごとに肉を抉り、熱い血が脚を伝う。折れた左腕が死んだ獣のように揺れ、骨の芯から思考を鈍らせる痛みを訴える。だが、男は足を止めない。止まれば、死ぬ。


 彼は、レミントン第一騎士団「グリフォン」所属の騎士。一週間前まで、彼は自らを神に選ばれた誇り高き騎士団と信じていた。今は違う。彼は、恐怖に駆られた敗残兵であった。


 彼の脳裏に、あの地獄が焼き付いている。

 威風堂々たる我らの突撃。それを、獣の皮と骨でできた異形の鎧が、嘲笑うように受け止める光景。馬ごと騎士を叩き潰す、オークの棍棒の鈍い音。天の支配者たる竜騎士団が、地に堕とされる姿。そして、その全ての中心にいた、黄金の鬼神。


 (……なんだ、あれは。なんなのだ、あの者たちは。騎士の誉れも、神の秩序も、あの戦場にはなかった。ただ、我らが知らぬ『理』だけがあった)


 あの光景は、戦ではない。一方的な蹂躙。殺戮。

 クーヘンは、死体の山の中から這い出した。仲間の、まだ温かい血と泥にまみれ、ただ、獣のように逃げ出したのだ。


 彼は、故郷の村にたどり着く。だが、そこで彼を待っていたのは、安らぎではなく、更なる混乱であった。 


「聞いたかい? 西の街道から、オダワラってとこの商人が来たんだと」


「ああ! あの、『ショーユ』って黒い汁、あれを焼いた肉にかけたら、天国が見えるみてえな美味さだったって!」


「道具も、すげえらしい。ドワーフが打った鍬は、岩に当たっても、刃こぼれ一つしねえって話だ」


 村の酒場で、人々が、目を輝かせながら語り合っている。自分たちが命を懸けて戦った、あの「蛮族」の国の噂を。まるで、救世主の到来を待ち望むかのように。


 クーヘンは、その光景に、戦場で受けた傷よりも、遥かに深い絶望を感じた。

 自分たちは、一体、何のために戦ったのだ。


 彼は、領主である辺境伯に、この恐るべき事実を報告せねばという使命感と、報告すれば「敗戦の責任を問われ、処刑されるのではないか」という恐怖との間で、数日、葛藤した。


 そして、彼は決意する。辺境伯ではない。この事態は、もはや、辺境伯一人の手には負えぬ。帝国の、中央の、本当の権力者に、この事実を伝えねばならない、と。


 彼は、一縷の望みを託し、帝都ルーメンへと続く、巨大な中央街道を目指し、再び、西へ、西へと、その傷ついた体を引きずり始めた。


 ♢


 神聖帝国の首都ルーメン 。

 そこは、権威と、富と、そして、退屈に満ちた都であった。天を突く白亜の大聖堂、貴族たちの豪奢な馬車、磨き上げられた石畳。その全てが、帝国の栄華を物語っている。


 だが、その輝きの裏では、物乞いが力なく倒れ、衛兵たちは、そんなもの、景色の一部でしかないとでも言うように、気にも留めずに通り過ぎていく。


 帝都の中央政庁。その一室で、教皇庁から出向してきた中級官僚の男は、山と積まれた書類の束に、うんざりしながら目を通していた。


 その中の一通、「東の蛮族に関する、レミントン辺境伯領からの緊急報告書」も、当初は「また、辺境伯の泣き言か」と、軽視していた。


 だが、敗残兵クーヘンから直接聞き取ったという、その報告書の内容は、あまりに荒唐無稽で、信じがたいものであった。


「オークと手を組む人間」


「雷の音を放つ妖術の筒」


「天を舞う竜騎士団の壊滅」


 官僚は、クーヘンを精神に異常をきたした者として追い返そうとした。だが、彼が、最後の証拠として差し出した、懐の布包み。


「……雷鳴が……。奴らの妖術は、我らの鋼の鎧を、紙のように……」

 中から現れたのは、歪んだ、ただの鉛の塊であった。クーヘンが、自らの胸当てを貫き、体内に食い込む寸前で止まっていた弾丸だ。


 官僚は、その意味を解さず、眉をひそめる。だが、クーヘンが震える手で自らの胸当てを見せると、その表情が凍り付いた。帝国最高と謳われる鋼鉄の胸当てに、小さな、しかし完璧な円形の孔が空き、その縁が熱で溶け、歪んでいる。


 官僚は、すぐさま兵部省から、帝国一と謳われる鎧師を呼び寄せた。

 老いた鎧師は、その胸当ての孔を覗き込み、顔色を変えた。彼は指でその縁をなぞり、歪んだ鉛の塊を手に取り、その重さを確かめる。


「……ありえん」

 鎧師は、わななく声で言った。


「この孔は……槍でも、矢でもない。これほどの高熱と、一点に集中した衝撃……神の鉄槌でもなければ、帝国最高の鋼鉄の胸当てに、このような孔は……」

 彼は、官僚を見上げた。


「そして、これを成したのが、この、ただの鉛のつぶてだと申すのか。……閣下。これは、妖術ではございません。我らが知る、全く新しい、『戦の理』そのものにございます」

 官僚の顔から、血の気が引いた。


 これは、辺境の蛮族の話ではない。帝国の存亡に関わる、脅威の報告なのだと、彼は骨の髄まで理解した。


 事の重大さを悟った官僚は、この報告を、正式な議題として、宰相が主催する帝国の上級評議会に提出した。


 報告書が読み上げられると、議場は紛糾した。


「竜騎士団が敗れただと? 馬鹿な! 辺境伯の、軍費をせしめるための狂言であろう!」 


「いや、この報告が真実ならば、由々しき事態です。ですが、今、帝国正規軍を動かすとなれば、南方、自由都市同盟との睨み合いに、隙が生じますぞ!」


「そもそも、東の果ての、取るに足らぬ土地のために、これ以上、帝国の金を使うなど、論外ですな!」

 貴族たちは、脅威そのものには向き合わず、ただ、互いの権益と、責任問題について、ぐだぐだと、何一つ決まらぬ議論を続ける。


 ♢


 その、醜悪な議論の真っ只中。評議会の、重厚な扉が、何の合図もなく、静かに開かれた。


 全ての貴族が、驚きと共に、そちらに視線を向ける。そこに立っていたのは、深紅の法衣を纏った、枢機卿ロデリク 。その両脇には、聖堂騎士が、氷のような無表情で控えている。


「――皆様の、実に、建設的な議論、感服いたしました。なれど、もう、お遊びの時間は終わりです」

 ロデリクは、居並ぶ大貴族たちを、まるで子供でも見るかのような、冷たい目で見渡し、告げる。


「この件は、もはや、帝国の領土問題にあらず。神の教えに背く、『異端』の問題。――よって、これより、我が教会の管轄とさせていただきます」

 彼は、自らの諜報網が得た、より詳細な報告書を、卓上に放った。そこには、北条家がエルフやドワーフと共存している様が、克明に記されていた。


 ロデリクの、有無を言わさぬその言葉と、圧倒的な情報量の前に、評議会の誰もが、反論できない。彼らは、この帝国において、皇帝よりも、教会の方が、強い権力を持っていることを、改めて思い知らされた。


 ロデリクは、凍り付いた貴族たちに背を向けると、自らの私室へと戻る。そこには、既に、漆黒の鎧を纏った「黒薔薇騎士団」の団長が、跪いて、その命令を待っていた。


「団長。東の辺境に、神を恐れぬ、新たな異端の巣が生まれた」


「世俗の者どもは、軍隊の勝ち負けにしか、興味がない。だが、問題の本質は、そこではない。奴らは、獣と手を取り、民に等しく富を与えようとしている。それは、神が定めた、この世界の序列そのものを破壊する、甘美な『毒』だ」


「そなたの最も優秀な『棘』を、かの『オダワラ』へと送り込め。目的は、戦闘ではない。破壊工作でも、暗殺でもない」

 ロデリクは、大陸地図の上に置かれた、辺境伯領を示す駒を、指先で、ゆっくりと倒した。


「――奴らの『正義』の、綻びを探し出してまいれ。必ずあるはずだ、理想国家の、醜い膿が。それを見つけ出し、白日の下に晒し、帝国全土に知らしめるのだ。……さすれば、民衆が、自らの手で、その異端の楽園を焼き払ってくれるであろう」

 黒薔薇騎士団長は、無言のまま、深く一礼すると、再び、影の中へと溶けるように消えていった。


 ロデリクは、一人、闇に包まれた聖堂で、これから始まる、新たな「聖戦」の筋書きに、静かに、そして、恍惚とその心を躍らせていた。


 帝国の巨大な影が、ついに、東の小田原へと、その手を伸ばし始めた瞬間であった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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