表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/102

第二十八話:南からの船


 レミントン辺境伯領との、最初の激しい衝突から、数ヶ月。小田原は、勝利の熱気と、次なる戦への緊張感を内に秘めながら、冬の季節を迎えていた。西の陸路への警戒が最大限に高められる一方で、もう一つの、広大なる未知――海もまた、北条家の視界に入り始めていた。


 小田原城から東南へ数里。切り立った崖の上に、急ごしらえの沿岸監視砦が築かれていた。

 伊豆衆を率いる水軍の将であった清水康英しみず やすひでは、目の前に広がる、どこまでも青く、そして全く見知らぬ大海原を、苦々しい表情で眺めていた。


「……西では、竜騎士団とかいう者どもと、派手な合戦があったそうだ。綱成殿は、さぞご満悦であろうな」

 潮風が、彼の頬を容赦なく叩く。


「それに引き換え、俺たちはどうだ。来る日も来る日も、この空と、海を眺めるだけ。殿は『海からの脅威に備えよ』と仰せだったが、現れるのは、見たこともない、気味の悪い魚ばかりよ」


 伊豆の水軍を率い、相模湾を庭としてきた男にとって、この海の静けさは、退屈であると同時に、得体の知れない恐怖でもあった。


 眼下の入り江には、彼が指揮して建造した、数隻の「小早こばや」や「関船せきぶね」が浮かんでいるが、この外洋の荒波の前には、あまりに心許ない。


(……水軍衆も共にこの世界に来ていれば……)


 彼は、この世界で、自分たちが培ってきた「海の技」が、もはや無用の長物なのではないかと、内心で恐れ始めていた。


 その、いつもと変わらぬ、退屈な一日の昼下がり。

 物見櫓に立つ見張りの兵が、突如、けたたましく鐘を鳴らし、叫び声を上げた。


「て、敵襲ーッ! いや、違う! 船だ! 見たこともない、巨大な船が、南から!」


「なに!?」

 康英が、遠眼鏡を手に、慌てて櫓へ駆け上る。


 その目に映ったのは、日の本の船とは、全く構造の異なる、巨大な帆船であった。


 船体は、荷を多く積むために、ずんぐりと丸みを帯びている。高くそびえる船首楼と船尾楼は、さながら海に浮かぶ城のようだ。そして、帆。


 日本の四角い帆ではなく、風を巧みに捉える、三角のラティーンセイルを、三本のマストに、複雑に掲げている。

 掲げられた旗には、「青地に、黄金の天秤」の紋章が描かれていた。


(……なんだ、あの船は。戦船いくさぶねか? いや、武装は少ない。だが、あの大きさ……我らの小早など、一飲みにされよう)


 康英は、即座に砦に臨戦態勢を敷かせると同時に、一隻の、最も快速の小早に、白旗を掲げさせ、意思疎通を試みるべく、慎重に接近させることを命じた。「決して、近づきすぎるな。相手の出方を見よ」


 ◇


 巨大な帆船と、木の葉のような小早が、互いに距離を保ったまま、海上で対峙する。


 帆船の甲板に、派手な衣装を纏い、腰に曲刀を下げた、日に焼けた男が姿を現した。彼の周りには、肌の色の違う、様々な人種の船乗りたちがいる。

 康英が、小早の船首に立ち、腹の底から声を張り上げる。


「我は、この地を治める北条家に仕える者、清水康英! 貴殿ら、何者か! 何故、我らが海域を侵す!」


「これは失礼。私は、自由都市同盟、港町ポルト・マーレの商人、マルコ・ベリーニと申す。嵐で航路を外れ、補給のための水と食料を求めて、陸地を探しておりました。貴殿らの海域を侵すつもりは、毛頭ない」

 自由都市同盟。南方に存在する、商業都市国家の連合体。


 その名は、氏康が開いた評定で、リシアの口から語られていた。


 マルコは、斥候から報告のあった「オークを殲滅した、東の謎の勢力」が、目の前の彼らであると確信していた。彼は、交易の可能性を探るため、言葉巧みに情報を引き出そうとする。


「この辺りでは、先日、オークの群れが、雷の魔法で消し飛んだという、奇妙な噂を耳にしましたが……」


「我らは、この地を脅かす者は、獣であろうと、人であろうと、これを退けるのみ」

 康英は、氏康の教えに従い、一切の情報を与えず、毅然と返す。


 押し問答の末、マルコは、一つの賭けに出た。


「ならば、我らが敵意なきことの証として、この船に積んでいる、南方のワインと香辛料の一部を、貴殿らの水と食料と、交換してはいただけないだろうか。我らは、ただの商人にございますので」

 康英は、しばし熟考した。


 この男の申し出を受け入れることは、独断専行であり、危険を伴う。だが、このまま追い返せば、この世界における、海からの貴重な情報を、永遠に失うことになるかもしれない。


(……殿は、仰せだった。『海の男の判断は、海の男にしかできぬ』と。ならば、この清水康英、我が水軍の知識と、勘を信じるまで!)


「……よかろう。だが、交易は、この場では行わぬ。我が主君に、判断を仰ぐ。返答があるまで、貴殿らには、この入り江にて待っていただく。兵糧と水は、こちらで用意しよう」


 ◇


 早馬によって、康英からの報告と、ワインや香辛料といった「現物」が、小田原城にもたらされた。


 緊急の評定の席。幻庵が、物珍しそうに胡椒の粒を指で潰し、その刺激的な香りに顔をしかめている。


 ドルグリムは、ワインの入った樽の構造を調べ、「フン、たがの締め方が甘いわい」などと、職人らしい評価を下していた。


 氏康は、康英の報告書を読み、そして、マルコが「友好の証」として託した、一枚の、大雑把だが広大な「南方海域図」を、広間の床に広げた。


 そこには、小田原が位置する大陸の、さらに南に広がる、無数の島々と、都市の名が記されていた。


「……自由都市同盟。レミントンとも、帝国とも違う、第三の勢力か。そして、この海図……。面白い。実に、面白い」

 氏康は、家臣たちに向き直る。


「康英の判断は、見事であった。これより、かの商人、マルコと、正式な交渉の席を設ける。使節は、政繁、お前が適任であろう」


「はっ」

 政繁が、静かに頭を下げる。


 その交渉の席で、マルコ・ベリーニという男は、度肝を抜かれることになる。


 彼が、小田原で、ドワーフの打った鉄鍋の安さと品質に驚き、「醤油」と「清酒」という、この世の物とは思えぬ調味料と酒の存在を知り、その商業的価値に狂喜乱舞するのは、また、別の話である。


 氏康の視線は、もはや、マルコ個人には向いていない。その背後にある、巨大な海洋国家連合と、その先の、まだ見ぬ世界へと向けられていた。


「我らが目は、これまで、西の陸にばかり向いていた。だが、この世界は、遥かに広い。この海もまた、我らが進むべき『道』の一つよ。これより、水軍の増強を、国家の急務とする! 康英に、全権を与えよ! ドワーフ、エルフの知恵も借り、この外洋を渡れる、新たな船を建造させるのだ!」

 氏康は、広げられた海図の上に、小田原から、南へと続く一本の線を、その指で強く引いた。


 それは、北条家が、陸の覇者から、やがては海の覇者へと、その野心を拡大させる、新たな「天下布武」の始まりを告げる、一筋の航路であった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

 皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ