第二十七話:騎士の目覚め
サー・ゲオルグの意識を、暗い淵から引きずり出したのは、右腕を駆け巡る、骨の芯を焼く激痛であった。
最後の記憶は、黄金の鬼神の一閃。自らの宝剣が、玩具のように砕け散る音。首筋に触れた、冷たい刃の感触。
(……ここは、神の御前か。あるいは、蛮族の地下牢か)
だが、彼が目を開いた先に広がっていたのは、裁きの天光でも、拷問の闇でもなかった。
日の光が差し込む、簡素な石造りの一室。空気は、洗い立ての麻布と、薬草の匂いがした。寝台のシーツは硬いが、清潔な肌触りであった。
誇り高き竜騎士の鎧は剥ぎ取られている。だが、その下の体は、戦の泥や血が拭われ、清められていた。問題の右腕は、木の板と真新しい布で、寸分の狂いもなく固定されている。骨の芯を焼く痛みはある。その痛みを、化膿止めの薬草が放つ、冷たい清涼感が包み込んでいた。
鎖も、枷もない。
部屋の入口に、二人の足軽兵が、槍を手に立つだけ。
「……何なのだ、これは」
ゲオルグは、掠れた声で呟いた。
(蛮族どもめ、私を騎士としてではなく、ただの病人として侮辱するつもりか? 殺すなら、殺せ。このような情けは、騎士への最大の侮辱だ)
だが、その思考は確信には至らない。
なぜ、手当てなど。なぜ、日の差す部屋に。なぜ、殺さぬ。
理解不能な行いが、彼の騎士としての死生観を、根底から揺さぶっていた。
そこへ、一人の侍女が、盆を手に、静かな足取りで入ってきた。盆の上には、湯気の立つ白湯と、米を煮ただけの、白い粥。
彼女の目に、ゲオルグを恐れる色はない。ただ「食事を運ぶ」という、自らの役目を果たすだけの、静かな瞳。
「お食事にございます」
彼女は、無言で盆を置くと、再び静かな足取りで去っていく。
その、あまりの無関心さ。憎しみでも、恐怖でもない。ただ、そこに在るだけの「物」として扱われるかのような、その空気。それが、ゲオルグの誇りを、先の敗北以上に、深く傷つけた。
◇
食事に手も付けず、寝台の上で黙考を続けるゲオルグの前に、一人の男が立った。猛将・綱成とは異質の、涼やかな目を持つ若き文官。町奉行の大道寺政繁であった。
彼は護衛も一人しか連れず、その態度は、商人が帳簿を確認するかのごとき、無機質なものであった。
「……何の用だ。私から情報を引き出すつもりか。無駄だ。騎士は、口を割らぬ」
ゲオルグは、自分に言い聞かせるように、誇りを奮い立たせた。
政繁の返答は、彼の予想を貫いた。
「いやはや、騎士殿。残念ながら、貴殿から聞くべきことは何もない。貴殿らの軍の編成も、魔法の威力も、先の戦で、この目で拝見しましたのでな」
その言葉には、悪びれる気配も、勝利を誇る色もない。ただの、事実確認。
「私が参ったのは、現状報告にございます。貴殿は、我が主、北条氏康様の庇護下にあり、怪我が癒えるまで、この小田原医療院にて療養していただく」
「医療院だと? 牢ではなく?」
「牢に、医者や薬師はおりませぬ。食事も薬も、我が国の民と同じものが提供されます。ご不満かな?」
政繁の声は、温度を失っていた。
「我が主は、無益な殺生を好まれぬ。貴殿のような高名な騎士を斬り捨てるのは惜しい。今の貴殿は、我らにとって、得難い『吟味』の対象なのですよ。竜を駆るその技、騎士道と呼ばれるその思想、そして、貴殿が信じる神。……我らは、その全てを知りたい」
ゲオルグは、息を呑んだ。
吟味。その言葉は、彼の騎士としての尊厳を、根こそぎ否定する。戦斧で斬られるよりも深い屈辱。目の前の男は、自分を対等な敵と見ていない。ただ、観察し、分析し、理解すべき、未知の現象として扱っているのだ。
この人間たちの、底知れぬ合理性の前に、ゲオルグの誇りは、音を立てて崩れ始めた。
◇
数日後。腕の痛みが引いたゲオルグは、医師の許しを得て、院内の歩行訓練を命じられた。
衛兵の監視はつく。だが、彼はこれを好機と捉えた。敵の施設構造、兵の士気、その全てを、その目に焼き付けるために。
彼が案内されたのは、医療院の活気ある一角。彼が想像した、死を待つ者たちの、静かで暗い場所ではなかった。
そこは、工房であった。槌の音、木を削る音、そして薬草と汗と熱した鉄の匂いが混じり合った、生命の熱気そのものがあった。
片腕を失った侍が、ドワーフの職人と、鋼鉄の義手を前に顔を突き合わせている。
「もう少し、この指のバネを強くできんか」
「無理言うな。お前の肩がもたんわい」
ゲオルグの世界では、戦えぬ兵士はただの穀潰しであった。
だが、目の前の二人の目には悲壮感はない。より良いものを作ろうという、職人の熱だけがあった。
別の場所では、両足を失った足軽が、車輪付きの台座に乗り、木片を削っていた。その手から生まれるのは、子供のための、小さな木彫りの馬。その顔に、絶望の色はない。ただ、己の仕事に没頭する、静かな誇りがあった。
そして、隣室からは低い声が聞こえる。先の戦で負傷した若い兵士たちが、足に怪我を負った古参の武士を囲み、兵法の講義を受けていた。
「良いか、戦はな、ただ槍を振るうだけじゃねえ。いつ、どこで、誰が、何を食うか。それを考えるのが、本当の戦よ」
ゲオルグは、立ち尽くした。
彼の信じてきた世界が、音を立てて崩れていく。
弱者は、切り捨てられるべき存在ではなかったのか。戦えぬ者は、ただ野に朽ちるだけの存在ではなかったのか。
だが、この者たちは違う。失った腕の代わりに、槌を握るための鋼の腕を得る。失った足の代わりに、次の世代を育むための知恵を得る。死ぬ場所ではなく、生きるための、新たな戦場を与えられている。
(……これが、あの蛮族どもの、本当の強さか)
ゲオルグは、自らの衛兵に問うた。その声は、自分でも気づかぬほど、か細く震えていた。その衛兵は、オークとの戦で片腕を失った、初老の侍であった。
「……なぜだ。なぜ、貴様たちは、戦えなくなった者を、こうして手厚く扱う。我らの国では、傷ついた兵は、野に捨てられるだけだというのに」
侍は、ゲオルグを一瞥すると、自らの鋼の義手を持ち上げ、その指を開閉させて見せた。無骨な金属の擦れる音が響く。
「俺たちは、もう戦場で槍は振るえぬ。だが、この腕でも槌を振るい、次の世代の鎧を作ることはできる。この足でも書状を運び、兵站を支えることはできる」
「殿は、俺たちに、新たな『戦場』を与えてくださった。死ぬ場所ではない。生きるための、戦場をな。ここ『片葉の会』は、そういう者たちの集まりよ」
侍は、穏やかな目で、懸命に仕事に取り組む仲間たちを見つめた。
「禄なき者は、禄なき者なりの戦い方がある。そして、生きる誇りがある。それが、我が殿のやり方よ」
禄寿応穏。民の暮らしを守り、安寧を保つ。
その言葉の意味が、雷鳴となって、ゲオルグの魂を貫いた。
(……な、なんだ。なんなのだ、この国は。この者たちは。弱者を切り捨てず、新たな役割を与える。……ただ、民が、豊かに、安らかに暮らす、そのために……)
(我らが掲げた『神の正義』とは、何だったのだ? 圧政に苦しむ民を顧みず、異端を排除するという、領主の、我らの自己満足ではなかったのか?)
彼の信じてきた「正義」が、音を立てて内側から崩壊する。自分が「蛮族」と蔑んだ者たちの方が、人間を、命を、尊んでいた。
その事実は、彼の魂を砕いた。
◇
自室に戻ったゲオルグは、座ることさえ忘れていた。
彼の脳裏には、あの工房の光景が焼き付いている。鋼の義手を掲げた侍の顔。木彫りの馬を作っていた、足のない足軽の横顔。
そこへ、音もなく、大道寺政繁が姿を現した。
政繁は、ゲオルグの抜け殻のような佇まいを一瞥すると、一枚の書状を差し出した。
「――我が主より、貴殿への贈り物にございます」
それは、ゲオルグが率いた竜騎士団の、捕虜となった者たちの名簿。その一人ひとりの名の横に、彼らが受けている治療内容が、無機質な、しかし正確な筆跡で書き連ねてあった。
「彼らの命は保証いたします。だが、彼らの今後の処遇は、貴殿の働き次第となりましょう」
政繁の声は、どこまでも冷徹であった。
「……我が主は、貴殿の持つ『竜を駆る技』と、その『騎士としての誇り』、その双方に、興味をお持ちですのでな」
政繁が去った後、一人残されたゲオルグは、その書状を、震える手で握りしめた。
彼の心の中に、一つの感情が生まれた。それは、憎しみではない。屈辱でもない。
失われた誇りではない。守るべき、新たな誇り。
己の命を捧げるべき、新たな『主君』ではない。己が、その命を賭して守り抜かねばならぬ、『民』。
その書状の重みが、彼の手に、確かな熱を帯びていく。
誇り高き騎士の、本当の『目覚め』。その静かな始まりであった。
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