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第二十五話:獅子と竜

 西の森を抜けた瞬間、レミントン辺境伯領の全軍は、光の奔流に目を焼かれた。木々の影に慣れた目に、遮るもののない平野の陽光は、暴力的なまでの眩しさであった。


「……森が、ない」

 第一騎士団長は、馬を止め、眉をひそめた。


 眼前に広がるのは、見慣れた森ではない。無数の切り株が、戦場の墓標のように大地に突き立つ、広大な平野。


 土は耕されたばかりの生々しい匂いを放ち、人の手で、この数ヶ月のうちに作り上げられた、異常な戦場であった。


「団長……これは、一体? 我らが知る地図とは、違いますぞ」

 副官の問いに、騎士団長は答えなかった。彼は、この異常な平野が持つ、冷徹な軍事的意図を理解していた。


(……誘い込まれたのか。森での乱戦を避け、奴らの妖術…あの鉄の筒が、最も威力を発揮する、開けた場所へと)


 そして、その平野の遥か先、東の地平線。

 巨大な城郭――『オダワラ』が、朝の陽光を浴び、まるで、この全てを仕組んだ王のように、静かに鎮座していた。


 その平野の中央、数千の兵が、一つの巨大な生き物のように沈黙していた。


 彼らが纏う鎧は、レミントンの騎士が知るどの国のものとも違う。獣の皮や骨を組み上げた、生物的な、獰猛な形状。掲げられた旗印には、北条の「三つ鱗」が、不気味に揺れていた。


 その静かなる本陣の両翼に、レミントンの騎士たちが最も侮蔑する者たちの姿があった。グルマッシュ・ブラッドアックスに率いられた、オーク傭兵部隊。


 彼らは、北条から与えられた新しい盾を無造作に地面に置き、骨をも砕く巨大な棍棒や戦斧を、肩の上で弾ませている。


 その喉からは、戦の喜びを抑えきれぬ、低い唸り声が漏れていた。その瞳は、血の匂いへの渇望に、獣の光を宿していた。


 後方の本陣。北条綱成は、馬上で西の空を見上げ、鼻をひくつかせた。


「……なんだ?この、獣の臓物ぞうもつと、硫黄を混ぜたような、不快な臭いは…」

 彼の、戦場の獣としての本能が、まだ目に見えぬ脅威の存在に、警鐘を鳴らしていた。だが、その正体は掴めない。空を見上げても、そこにいるのは、鳥の群れだけ。


 両軍の陣形が整うと、レミントン軍の中から、一騎、ひときわ豪奢な鎧を纏った騎士が白馬を駆る。第一騎士団「グリフォン」を率いる団長。彼が進むのに合わせ、背後の騎士団が槍の石突で大盾を叩き始めた。


 ドン、ドン、ドン。


 地を這うような重低音が、戦場を支配した。そのリズムは一つの巨大な心臓の鼓動となり、兵たちの腹の底から獣の雄叫びを引き出す。


「「「ウラァァァッ!!」」」


 戦の前に自らの武威を示し、敵を威嚇する、彼らの伝統の儀式であった。

 アルブレヒトは両軍の中間地点で馬を止め、その口上を戦場に響かせた。


「我こそは、レミントン辺境伯オズワルド様が第一騎士団長、アルブレヒト・フォン・クラウゼヴィッツ! 神聖アークライト帝国の名の下、神の秩序を乱す蛮族『オダワラ』に、鉄槌を下さんと馳せ参じた! 卑劣なる妖術に頼らず、騎士の誉れに従い、尋常に勝負せよ!」

 後方の本陣。その古風な儀式を、北条綱成は馬上で腹を抱えるように笑っていた。


「ハッハッハ! 聞いたか、若造ども! 丁寧な名乗り口上、盾を叩いての威嚇、まるで源平の頃の戦じゃあるまいし。古風で好ましいわ!」

 氏照が、怪訝な顔で問う。


「叔父上……?」


「ああ。我ら北条も元を辿れば伊勢の平氏。このような古式ゆかしい戦、坂東武者の血が騒ぐわ」

 綱成の目に、好戦的な光が宿る。


「――もっとも、戦は遊びではないがな」

 彼は、先陣の氏照・氏邦に代わり、馬を一歩前に進めた。


 その一歩だけで、戦場の空気が変わる。その声は、アルブレヒトのそれとは異質であった。戦場の隅々までを震わせる、真の将の覇気。


「――聞き届けたぞ、レミントンの騎士殿! その古式に則った名乗り、見事! 返礼に、こちらも名乗ってつかわそう! 我こそは、北条家が武運を預かりし者、地黄八幡が旗頭、北条綱成なり!」

 綱成の口元に、獣の笑みが浮かぶ。


「さて、口上は済んだな。――次は鏑矢かぶらやでも射るかの?」

 アルブレヒトは、言葉を失った。


 作法を理解した上で、それを上回る武人の格で応じ、そして、子供をからかうかのように、その全てを無価値なものへと貶める。これほどの侮辱。彼の騎士としての誇りが、音を立てて砕け散った。


 彼は怒りに顔を赤く染め、震える手で馬首を返し、自軍の陣へと戻っていった。


「――《火炎槍フレイムランス》!」

 開戦の合図は、祈りではない。帝国宮廷魔術師団の、幾何学的な詠唱であった。彼らの足元に浮かんだ魔法陣から、数十の炎の槍が生まれ、北条軍の先陣へと殺到する。


掻盾かいだて、構え!」

 最前列の足軽たちが、巨大な盾を大地に突き立てる。盾に刻まれたエルフのルーンが、マナの光で青白く明滅し、炎の槍を霧散させた。だが、数発は盾を溶かし、兵士の肉を焼いた。陣形に、悲鳴と、肉の焦げる匂いが満ちる。


「怯むな! 鉄砲隊、撃ち返せ! 狙いは、あの杖持ちどもだ!」

 氏照の号令。盾の壁の隙間から、数十の銃口が火を噴いた。轟音と白煙が、魔法という神秘を、鉄と火薬という暴力で塗り潰した。


「全軍、突撃ィィィッ!」

 魔法部隊の詠唱が途切れた一瞬の隙。それこそがレミントンの騎士団の合図であった。


「槍衾、構え!」氏邦の冷静な号令が響く。


「オークども! 好きに暴れろ!」グルマッシュが吼える。


 ガギィィィンッ!

 耳をつんざく金属音と共に、二つの軍勢が激突した。


 一人の帝国騎士が、眼前の槍衾を突破せんとランスを構える。だが、その足元の泥の中から、二頭のオークが飛び出した。一頭が馬の足を棍棒で砕き、騎士が体勢を崩したその背中を、もう一頭の戦斧が叩き割った。


 統率された槍衾と、予測不能なオークの猛攻。個々の武勇で上回るはずの騎士たちが、この、人の理と獣の理が融合した、奇妙な戦術の前に、次々と泥濘に沈んでいった。


「これぞ我らの戦よ!」

 氏照は、自ら馬を駆り、敵陣に踊り込む。


 一人の騎士が彼を目掛けランスを突き出すが、氏照はそれを紙一重でかわし、すれ違いざまに『小田原鋼』の太刀を抜き放った。騎士の分厚い鎧が火花を散らして裂け、馬上から、首のない骸が転がり落ちた。


「兄者ばかりに、良い格好はさせぬ!」

 氏邦もまた、側面から敵を圧迫する。彼の冷静な指揮が、この混沌の戦場に、確かな秩序を与えていた。


 その時、天が陰った。

 ヒュウウウウ、と空が悲鳴を上げた。それは風切り音ではない。世界の天井そのものが、引き裂かれる音であった。


 遥か上空、戦況を見つめていたサー・ゲオルグが、その右手を振り下ろす。


「――神の鉄槌を」

 その号令が、数百の死の宣告となった。竜騎士団が、急降下を開始する。


「空を見ろ!」

 兵の絶叫に、優勢に沸いていた氏照が天を仰ぎ、絶句した。幾多の巨大な影が太陽を喰らい、自分たちの頭上を完全な闇で覆い尽くしていく。


 最初の犠牲者は、後方で次弾の装填を急いでいた鉄砲隊であった。


 革の翼が巻き起こした暴風が、兵士たちを木の葉のように舞い上げ、地面に叩きつける。そこへ、竜の顎から吐き出された炎の奔流が追い打ちをかけ、陣地は火薬樽ごと誘爆し、一瞬で地獄と化した。


「ぐわあああああっ!」

 人の体が、炭と化していく。


「逃げろ! 空からだ!」「我らの矢が、奴らには届かぬ!」

 兵士たちの間に、絶望が伝染した。密集陣形は裏目に出る。


 炎は兵士たちを飲み込み、鎧を、肉を、骨ごと焼き尽くす。他の飛竜は、鋭利な爪で兵士の体を紙のように引き裂き、その巨体で陣形ごと踏み潰した。


「怯むな! 陣を立て直せ! 盾を上に! 空を見ろ!」

 氏邦が、残った兵をまとめ、対空の方円の陣を組ませようと叫ぶ。

 だが、その試みは、上空からの竜の咆哮…魔力を帯びた音波の壁によって砕かれた。


 兵士たちは耳を押さえてうずくまり、その魂から、戦う意志そのものが奪われていく。

 一方的な、空からの蹂躙。北条軍の先陣は、なす術もなく恐慌状態に陥り、崩壊していく。


「兄者! 危ない!」

 サー・ゲオルグの駆る深紅の飛竜『イグニス』が、指揮官である氏照に狙いを定め、滑空する。


「小虫が、その気概だけは褒めてやろう。神の御前で、灰となるがいい」

 氏照は、馬上で刀を構え、力を振り絞って、その爪を受け止めようとする。だが、竜の爪と人の骨とでは、勝負にならなかった。


 凄まじい衝撃が彼を馬ごと吹き飛ばし、地面に叩きつける。鎧が砕け、意識が闇に遠のいていった。


「……終わりだな。蛮族どもめ」

 サー・ゲオルグは、眼下の地獄絵図を、冷ややかに見つめていた。


 勝敗は決した。後は、この混乱に乗じて、敵の前衛の大将首を獲るのみ。彼は、馬ごと吹き飛ばされ、動けぬ氏照の姿を捉えると、イグニスに、とどめを刺すべく降下を命じた。


 その、瞬間であった。

 戦場の後方、本陣でその全てを見つめていた綱成の、堪忍袋の緒が切れた。

 彼は、竜騎士団が現れた直後から、出撃しようとするのを、必死にこらえていたのだ。


(まだだ…! 奴らは高すぎる! 今、突っ込んでも、上から焼かれるだけだぞ!)


 地を噛む思いで、彼は戦況を見つめる。先陣が崩壊し、兵たちが命を落としていく様に、彼の巨躯は怒りに震えていた。


(若造ども、持ちこたえろ…! 持ちこたえてさえくれれば…!)


 好機は、敵が勝利を確信し、高度を下げた時にしかない。戦の天才である彼には、それが痛いほど分かっていた。だが、その好機と引き換えに、甥たちが、兵たちが、目の前で死んでいく。その葛藤が、彼の内臓を焼き焦がしていた。


 そして、ゲオルグが、とどめを刺さんと氏照に狙いを定めた、その光景。

 それが、綱成の中で、戦術や理性を司る最後のたがを、粉々に吹き飛ばした。


 「――あの羽虫がァッ!!」

 怒りの咆哮は、もはや人の声ではなかった。

 それは、自らの子を護らんとする、獅子の咆哮そのものであった。


 「甥の命まで獲らせるかッ! 全軍、俺に続けぇぇぇッ! 目標、敵将が首、ただ一つ!」

 戦場の後方、楯の壁に守られた本陣から、一つの雄叫びが、戦場全体の音を塗り潰すかのように轟いた。


 そこに現れたのは、燦然と輝く「地黄八幡」の旗印。

 そして、それを掲げ、千の精鋭を率いて、疾風のように駆け抜けてくる、一人の鬼神。北条綱成であった。


「若造どもには、良い薬になったわ! だが、ここから先は、大人の戦の時間よ!」

 綱成は、馬上で愛用の刀を抜き放った。


「見つけたぞ、大将首」

 綱成の、血に飢えた獣のような目が、天を舞うサー・ゲオルグの姿を、確かに捉えた。


 異世界の最強戦力と、戦国の最強の武人。

 今、二つの天道が、雌雄を決するべく、激突しようとしていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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