第一話:見知らぬ天下
水を打ったような静寂が、本丸の櫓を支配していた。
窓の外に広がるのは、どこまでも続く鬱蒼とした原生林。
昨日までそこにあったはずの相模の海も、箱根の山々も、そして民の暮らす村々も、全てが幻であったかのように消え失せていた。
「そん、な……馬鹿な……」
最初に声を発したのは、氏政だった。
彼の顔からは血の気が引き、目の前の光景が信じられないとでも言うように、何度も瞬きを繰り返している。
「これは、かの越後の竜の妖術か? 我らは城ごと、幻術の中に囚われているとでもいうのか!?」
「……静まれい、氏政」
隣に立つ幻庵が、低い声でそれを制した。
老練な幻庵の顔にも驚愕の色は浮かんでいたが、その奥では燃えるような知的好奇心が灯っていた。
「これは、ただの幻術などという生易しいものではござらん。風の匂い、土の気配、大気の湿り気……何もかもが違う。まるで、世界そのものが塗り替えられたかのようじゃ」
その言葉を裏付けるように、城下の喧騒が耳に届き始めた。
最初は戸惑いの声だったものが、やがて恐怖の叫びへと変わっていく。
何が起きたのか分からぬまま、人々が右往左往し、泣き叫ぶ子供の声が響く。秩序を失った鐘が、あちこちで乱打されていた。
幾万の民が、未曽有の事態にパニックを起こしかけていた。
その混乱の全てを一身に受けながら、北条氏康はただ一人、静かに呼吸を整えていた。
彼の瞳には、もはや驚きも戸惑いもない。
あるのは、為政者としての冷徹な覚悟のみ。
「伝令!」
氏康の張りのある声が、櫓に響いた。
控えていた近習が、はっと顔を上げる。
「城下の者たちに伝えよ!『敵襲にあらず。原因は目下調査中。各自、持ち場を離れず、次の沙汰を待て』と! 蔵奉行には、備蓄米の一部を炊き出しにする準備を命じよ。温かい粥は、人の心を落ち着かせる」
「は、ははっ!」
近習が慌てて階下へと駆け下りていく。
矢継ぎ早に、氏康は氏政と幻庵に向き直った。
「氏政、城内の武士たちをまとめ、城門の警備を固めさせよ。何者かが侵入する隙を見せるな」
「幻庵殿には、各奉行衆を集めていただく。これより、本丸御殿にて緊急評定を開く!」
氏康のその声には、有無を言わせぬ響きがあった。
彼の断固たる態度に、狼狽していた氏政も、思索に耽っていた幻庵も、即座に現実へと引き戻される。
そうだ、今はただ動くべき時なのだ。
◇
本丸御殿の大広間には、北条家の宿老たちが、固い表情で居並んでいた。
上座に氏康が着座し、その両脇を氏政、幻庵、そして「地黄八幡」の旗印で知られる北条軍随一の猛将・北条綱成が固めている。
「――以上が、各所の見分結果にございます」
多目元忠が、震える声で報告を終えた。
内容は、誰もが予期していた通り、絶望的なものだった。
城と、それを支える城下町一帯の大地が、綺麗に切り取られたように、見知らぬ森の真ん中に「置かれている」。それが、今の彼らの状況だった。
「やはり、妖術か……」
「馬鹿な、幾万の人間と城郭そのものを動かすなど、いかなる妖術師に可能なのだ……」
広間に、動揺と諦観の混じった声が広がる。
その空気を断ち切ったのは、武骨な声だった。
「原因が何であろうと、我らの為すべきことは一つ!」
北条綱成が、その巨躯を乗り出すようにして言った。
「ここは敵地の真っ只中と心得よ! すなわち、我らは籠城戦の内にいるも同然! 食料と水の算段、城の守りの再構築、そして何より、周囲の索敵! 全て、戦の作法に則って進めるべきかと存ずる!」
綱成の、迷いのないその一喝は、広間に満ちていた動揺と諦観の空気を断ち切った。
混乱の極みにあって、彼はただ一点、戦場という現実だけを見据えている。その明快な指針に、他の家臣たちも、はっと我に返った。
それに、氏政も続く。
「綱成殿の言う通りです、父上。まずは、我らがどれだけ持ち堪えられるか。城内の水、食料、武具、薬、その全ての数を正確に洗い出さねば……」
守りを固めるべき。内を固めるべき。
家臣たちの意見を聞きながら、氏康は静かに目を閉じた。
そして、ゆっくりと目を開くと、凛とした声で言った。
「皆の意見、もっともだ。だが、三つ、足りぬものがある」
広間が、静まり返る。
「一つ、民の心。二つ、正確な法。そして三つ、外の世界の情報だ」
氏康は、一同を見回した。
「我らはもはや、相模の国の主ではない。見知らぬ天下に投げ出された、孤立無援の国人衆よ。この新たな地で生き抜くには、新たな法と秩序がいる。そして、敵が、あるいは味方がいるのかもわからぬ暗闇の中で、目と耳なくして戦えるものか」
氏康の視線が、広間の隅へと向けられる。
そこには、まるで影が人の形をとったかのような、異形の忍が控えていた。
「……小太郎」
「は」
短い返事と共に、音もなくその場に膝をついたのは、風魔忍軍五代目頭領、風魔小太郎であった。
「そなたらに、我が北条家の『目』と『耳』となってもらう。直ちに精鋭を率い、城の外を調べよ。目的は三つ」
「一つ、危険の察知。獣、人、あるいは魔の類か。我らを脅かすものの正体を探れ」
「二つ、資源の探索。飲み水、食料、使える木々や鉱物、この地で我らが生きていくための糧を見つけ出せ」
「三つ、この世界の理の解明。人はいるのか、国はあるのか。些細なことでもよい、全ての情報を持ち帰れ」
「……御意」
風魔小太郎は、深く頭を下げると、次の瞬間には、煙のようにその場から姿を消していた。
その見事な手並みに、家臣たちからかすかな感嘆の声が漏れる。
評定は、絶望的な現状確認の場から、次なる一手へと移っていた。氏康という絶対的な中心がいる限り、この組織は決して崩壊しない。
◇
小田原城の外に広がる森は、人の手が入ったことのない、まさに原生林と呼ぶにふさわしい場所だった。
日の本のものとは明らかに異なる、天を突くような巨木群。湿った腐葉土の匂い。そして、時折聞こえる、未知の生物の鳴き声。
その森の中を、十数人の影が、音もなく疾駆していた。
風魔小太郎率いる、風魔忍軍の精鋭たちである。
彼らは、感情を表に出さず、淡々と周囲の状況を分析していく。
(……空気が濃い。呼吸が楽だが、妙な匂いが混じる)
(見たこともない植物ばかりだ。毒の有無、慎重に見極めよ)
(獣道はあるが、その主は相当に大きいぞ……)
身振り手振りと、鳥の鳴き声に似せた合図だけで意思を疎通し、彼らは森の奥へと進んでいく。
その時、先頭を駆けていた小太郎が、ぴたりと足を止めた。
前方の茂みが、ガサガサと大きく揺れている。
潜んでいるのは、鹿や猪ではない。もっと巨大な何かの気配。
小太郎が手で合図を送ると、配下の者たちは一瞬で四方へと散り、木々や茂みにその姿を溶け込ませた。
やがて、茂みから姿を現したのは――
「……!?」
歴戦の風魔忍たちでさえ、思わず息を呑んだ。
それは、猪に似た姿の獣だった。
だが、その大きさが尋常ではなかった。小屋ほどもある巨体に、筋肉が鋼のように盛り上がっている。そして何より目を引くのは、その口から野太刀のように伸びた、二本の長大な牙であった。
その化け猪は、鼻を鳴らしながら地面を掘り返し、木の根を貪り食っている。
小太郎は、冷静に敵を観察する。
特徴、硬い皮、凄まじい突進力。知能は低そうだ。弱点は、目か、関節か。
一人の忍が、試しにクナイを投げつけた。
金属音。クナイは、獣の分厚い皮に弾かれ、乾いた音を立てて地面に落ち、化け猪が、その巨体に似合わぬ俊敏さで顔を上げる。
血走った目が、忍たちの潜む方向を正確に捉えた。
「グオオオオオオオッッ!!」
大地が揺れるほどの咆哮と共に、化け猪が突進してくる。
それは、もはや獣ではなく、一つの破壊現象だった。
だが、風魔の庭に、油断はない。
化け猪の進路上に、一人の忍が飛び出し、マキビシをばら撒く。
しかし、化け猪はマキビシなど意にも介さず、蹄で踏み砕きながら突き進む。
「やはり、小細工は通じぬか」
小太郎が呟くと同時に、左右の木々から二人の忍が飛び出した。
彼らが投げたのは、クナイではない。先端に鉤をつけた鎖鎌だ。
鎖が化け猪の両牙に絡みつき、二人の忍は全体重をかけて大木に鎖を巻き付けた。
巨体の突進が、僅かに鈍る。
その一瞬の隙。
小太郎が、動いた。
化け猪の頭上高く跳躍し、空中で体を捻る。
その手には、通常のクナイより一回りも二回りも大きい、手槍とでも呼ぶべき刃が握られていた。
狙うは、弱点と定めた右目。
「……!」
刃は、抵抗なく突き刺さった。
絶叫。化け猪は狂ったように暴れ、忍二名を振り払い、大木にその巨体を叩きつける。
だが、勝負は決した。
脳まで達した一撃に、やがてその巨体はゆっくりと傾ぎ、地響きを立てて倒れ伏した。
森に、再び静寂が戻る。
配下の忍たちが、警戒しながら姿を現した。
「……見事です、頭領」
「うむ。死体を調べよ。殿への報告に、土産がいる」
忍たちは、手際よく化け猪の死体を検分し始めた。
その硬い皮は、加工すれば優れた盾や鎧になるだろう。
巨大な牙は、槍の穂先として申し分ない。
そして何より、この膨大な肉は、幾万の民を支える貴重な食料となる。
◇
小田原城、本丸御殿の大広間。
緊張した空気の中、評定は続いていた。
そこへ、一陣の風が吹き込んだかのように、風魔小太郎が姿を現した。
彼は、氏康の前に進み出ると、恭しく膝をつく。
そして、無言のまま、布に包まれた何かを畳の上に置いた。
布が開かれると、そこに現れたのは、磨かれた骨のように白く、そして禍々しいまでに鋭い、巨大な牙であった。
広間に、どよめきが走る。
「小太郎、報告せよ」
氏康の声だけが、静かに響いた。
「は。城の外は、新たな天下にございます」
小太郎は、顔を上げぬまま、淡々と告げた。
「そこには、我らの知らぬ理があり、見たこともない脅威がおります」
「――なれど、同時に、尽きることのない恵みもまた、眠っておりました」
氏康は、畳に置かれた巨大な牙を、その黒い瞳で見据えた。
その瞳の奥に、絶望に代わって、新たな闘志の炎が宿る。
この見知らぬ天下で、民を食わせ、国を興す。
やることは、何も変わらない。
相模の獅子の、異世界における国づくりが、今、静かに始まろうとしていた。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




