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第二十三話:戦の始まり

 


 小田原城、本丸御殿。

 冬の日差しが、静まり返った広間に、長い影を落としていた。評定の席には、氏康と、その四男である北条氏規が、ただ二人、向き合っている。氏規はまだ若いが、その佇まいは、兄たちとは違う、柔らかな、しかし、芯の通った落ち着きを感じさせた。


「――氏規。聞こえておったな」

「はっ。父上」

「そなたに、此度、レミントン辺境伯領への使節を命ずる」


 父からの、あまりに重い、そして唐突な命令。氏規の瞳に、初めて動揺の色が浮かんだ。

「……父上。それは、あまりに大役。なぜ、江雪斎殿ではありませぬか。わたくしのような若輩者が、果たして……」


 兄・氏政を支え、外交僧・江雪斎に師事してきた彼にとって、師の存在は絶対であった。その彼を差し置いて、なぜ自分が。その問いは、当然のものであった。


 氏康は、その息子の動揺を、静かな、しかし、全てを見通すような目で見つめた。

「氏規よ。そなたは、まだ分かっておらぬか。此度の使いは、『交渉』にあらず。『通告』にこそある」


 彼は、言葉を続ける。

「江雪斎を遣わすは、相手と『対話』する意思があるという証。対等な卓に着くという、我らの礼を示すものよ。だが、今、我らが為すべきは、それではない」


「先ごろ、我らが庭で捕らえた『迷い鼠』。これを、主の元へ、手土産としてくれてやるのだ」

「……!」


 捕らえた密偵を、わざわざ送り返す。その異常な行いが持つ意味を、氏規は即座に理解した。


「表向きの言葉は、友好。我らは、無用な争いを望まぬ、と伝えよ。されど、その裏にある真意を、かの辺境伯に、その肌で感じさせてやるのだ。『我らはお前たちの動きを全て見ている』『これ以上の無礼は、許さぬ』とな」


「言葉は、蜜のごとく。なれど、その腹には、牙を隠しておけ。江雪斎の舌は、あまりに切れすぎる。此度の役目には、そなたの、その柔らかな物腰こそが、最大の武器となる」


「……そして、見てまいれ、氏規。かの地の領主が、理を解する男か、あるいは、ただ力に屈するだけの獣か、をな。それを見極めることこそ、そなたに課した、真の初陣よ」


「……御意。この氏規、身命を賭して、お役目を果たしてご覧にいれまする」

 彼は力強く頭を下げた。


 その瞳には、もはや、動揺の色はなかった。父の、その深遠な意図を理解し、自らが、北条の、新たな刃となる覚悟を決めた、若き獅子の光が宿っていた。


 ♢


 数日後、北条家の使節団が、小田原城の門を出立した。

 正使である氏規を中心に、護衛の武士は数十名。その全員が『異界式当世具足』に身を包み、腰には『小田原鋼』の太刀を佩いている。その威容は、この国が持つ異質な力の程を、無言で示す。


 そして、一行の中には、顔面蒼白の一人の男がいた。手足の枷こそないが、その瞳には、地下牢の闇と、風魔小太郎への恐怖が焼き付いている。レミントン辺境伯が放った、密偵の長であった。


 一行が西へ向かう道は、始め、実りの道であった。

 黄金色の稲穂を刈り取った後の、豊かな土の匂い。すれ違う民の顔には、冬に備える確かな営みの光があった。だが、森を抜け、辺境伯領へ入った瞬間、道は、そして、世界はその色を失った。


 道はぬかるみ、畑は雑草に喰われている。点在する村々は、痩せた犬と、虚ろな目をした老人たちの住処であった。民は、使節団の掲げる三つ鱗の旗印を、恐怖の目で見つめ、家の中へと姿を隠す。


 氏規は、馬上で、その光景を己の魂に刻み込む。その隣で、密偵の長クラウスは、自らの故郷の無様な姿に、唇を固く結んだ。


 やがて見えてきた辺境伯の居城。それは、民の血肉を吸って肥え太った、武骨な石の塊であった。小田原城のような機能美も、計算された縄張りもない。民を見下ろし、威圧するためだけの、権力の象徴。


(……これが、この地の城か。守るための城ではなく、支配するためだけの、石の檻……)


 玉座の間は、無駄に広く、悪趣味なほどに華美であった。

 辺境伯オズワルド・フォン・レミントンは、氏規の若さを見て、侮蔑の表情を浮かべた。


「ほう。オダワラとやらの主は、このような若造を寄越したか。舐められたものだ」


「お初にお目にかかります、辺境伯閣下」

 氏規は、その侮蔑を柳に流し、隙のない所作で礼を取った。


「我が主、北条氏康よりの言伝を預かりました。先日、我らが領地に迷われた、閣下の臣下の方をお見受けしました。さぞ、ご心配であろうと、お送り届けに参った次第」

 氏規が合図すると、密偵が兵に促され、震えながら辺境伯の前に進み出る。


「なっ……! ク、クラウス!?」

 辺境伯の顔が、驚愕から屈辱へと、赤く染まる。自らが放った最も信頼する密偵の長が、このような無様な姿で帰ってくるとは。これ以上の屈辱はない。


「我が主は、こうも申しておりました。『隣人とは友誼を結びたいもの。だが、夜陰に紛れて無断で庭に忍び込む作法は、我らの流儀にはない』と」


「……なんだと?」

 辺境伯の額に、青筋が浮かぶ。


「つきましては、閣下。今後、何か我らにお伝えしたいことがある折には、このような者を遣わすのではなく、正式な使節を、白昼堂々お送りいただきたい。我らはいついかなる時も、対話の門戸を開いておりますゆえ」

 その言葉は丁寧であったが、行間には「お前たちの動きは全てお見通しだ」という、冷たい刃が隠されている。


「……小僧が……!」

 辺境伯が怒りに震え、玉座から立ち上がろうとした、その時。


「おっと」と、氏規は続けた。


「そういえば、父より、閣下への贈り物も預かっておりましたな」

 彼は、供の者が捧げ持っていた桐箱を開けた。中には見事な白磁の徳利と、揃いの盃。


「これは、我が国でしか作れぬ、『清酒』というもの。どうぞ、お納めください。我らが友好の、ささやかな証にございます」

 その、場違いな、余裕に満ちた振る舞い。辺境伯の怒りは、一周して、冷たい恐怖に変わっていた。目の前の若き使節と、その背後にいる「ホウジョウ・ウジヤス」という、まだ見ぬ敵の底知れぬ器量に。


 氏規は、役目を終えると、優雅な礼を一つ残し、玉座の間を後にした。残されたのは、怒りに言葉も出ない辺境伯と、自らの無能さを恥じ、ただ震えるだけの密偵だけであった。


 ◇


 氏規ら公式の使節団が出立した数日後。

 小田原の商人、近江屋利兵衛の小さな商隊は、辺境伯領の奥深く、寂れた宿場町に到着していた。小田原の新たな市で一財産を築いたこの男の目には、他の商人には見えぬ、巨大な商機が映っていた。


 彼の始まりは、一枚の銀貨であった。

 小田原に流れ着いた難民の一人が、その輝きも鈍い銀貨を、なけなしの米一握りと交換する様。利兵衛は、その銀貨を手に、懇意のドワーフ職人の元へ持ち込んだ。

「ほう、これはなかなかの代物だ。混ぜ物も少なく、銀としての質は良い。だが……」ドワーフは首を傾げた。「奇妙なもんだ。これだけの銀を使いながら、打ち方が甘い。価値を分からぬ者が、形だけ真似て作ったかのようだ」


 その言葉に、利兵衛の頭の中で、巨大な算盤が一つ、珠を弾いた。

(質は良い。だが、価値が分かられていない)

 難民の話では、辺境伯領ではこの銀貨一枚で、質の悪い黒パンが二十個。小田原の相場ならば、米が一俵買える。

(……経済が、死んでおるわ)


 利兵衛の商魂に、火が付いた。

 彼はリスクを承知の上で商隊を組織する。積荷は、小田原でしか手に入らぬ「醤油」と、ドワーフの打った頑丈な農具。

 町奉行の大道寺政繁に、彼は「個人の商いとして、西へ物見遊山に参りたく」と届け出た。政繁は、書状から目を上げぬまま、ただ一言、「死ぬなよ、近江屋」とだけ言い、黙って判を押した。


 辺境伯領の宿場町は、淀んだ水と、諦めの匂いがした。

 利兵衛は、役人に法外な通行税を笑顔で支払うと、市場の一角で、醤油を使い、牙猪の干し肉を焼き始めた。

 ジュウ、と肉の焼ける音。そして、これまでこの町が知らなかった、魂を直接揺さぶるような、香ばしい匂いの爆発。


「な……なんだ、この匂いは……?」

 淀んだ目をした町民たちが、匂いの源へと吸い寄せられる。

 一口食べた男が、天を仰いで絶叫した。

「うまい……! 神々の食い物か!?」


 人々は熱狂し、醤油は、利兵衛が提示した法外な銀貨の枚数で、奪い合うように売れていく。現地の者にとって、それは美味い調味料への対価。利兵衛にとって、それは「小田原の醤油一樽」を、「質の良い銀という金属塊」に交換する、錬金術であった。


 帰路、空になった荷車に、ずしりと重い銀貨の袋を積み込みながら、利兵衛はほくそ笑んだ。

(食い物の恨みは恐ろしい。だが、もっと恐ろしいのは、一度知ってしまった豊かさへの渇望よ)


 彼は、辺境伯領の民に商品を売ったのではない。

「豊かさ」という抗いがたい毒を、そして、「貧しさ」という自覚症状を、売りつけてきたのだ。

 この銭の戦は、いずれかの国の経済を根底から腐らせる。そのことを、利兵衛は確信していた。

 風魔の噂よりも、竜騎士団の武威よりも深く、確実に。

 銭の戦こそが、この戦国商人の、真骨頂であった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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