第二十二話:水面下の暗闘
冬の乾いた空気が、小田原城の城壁を撫でていた。だが、城下の中央広場は、その寒さを吹き飛ばすほどの熱気に満ちていた。
新たに誕生した『異界式当世具足』の量産が、工業地区の炉を昼夜問わず赤々と燃え上がらせている。一見、その光景は、盤石の安寧そのものであった。だが、その平和な水面下で、見えざる戦いの火蓋は切られていた。
◇
「……これが、噂の『オダワラ』か」
男は、行商人に偽装した出で立ちで、中央広場の喧騒を、冷徹な目で観察していた。
彼の名は、クラウス。レミントン辺境伯が信頼を置く、諜報組織の長であった。彼は選りすぐった四人の部下と共に、数日前、この忌まわしき森の城塞都市へ潜入していた。
彼の目に映る光景は、砦で聞いた猟師の報告を遥かに超えるものであった。
(……馬鹿な。この秩序は、なんだ)
道にはゴミ一つ落ちていない。家々は整然と立ち並び、その間を、身なりの良い町人たちが行き交っている。
そして何より、信じがたいのは、その中に、当たり前のように、ドワーフやエルフ、果ては荷役作業に従事するオークの姿までが混じっていることであった。
彼らは互いに罵り合うでもなく、ただ自らの役割をこなしている。市場には、北条家が定めた『公定相場』の木札が掲げられ、異なる種族の者たちが、様々な国の銀貨や銅貨、あるいは現物で、その値に従って楽しげに言葉を交わしながら商品を売買していた。
(……腐臭がしない。絶望も、恐怖も、この街にはない。辺境伯様の、どの都市よりも豊かですらある。これが……蛮族の都だと? 冗談ではない)
クラウスは、部下たちに、目線だけで指示を送った。
一人は、城壁の高さや、堀の深さを、歩幅を元に測量し始める。
一人は、兵糧を運び込む荷駄隊の規模と頻度を、執拗に観察する。
一人は、酒場の席で、傭兵たちの与太話に耳を澄ませ、この城の兵の士気や、指揮官の人柄を探る。
そして、もう一人は、最も危険な任務――工業地区に近づき、あの雷鳴のような轟音の正体と、噂に聞く「新しい鋼」の秘密を探ろうと試みていた。
彼らは、辺境伯領でも最も腕利きの密偵たちであった。自らの技術と経験に、絶対の自信を持っていた。
この、どこか気の抜けたような平和な街ならば、情報を抜き取るのは、赤子の手をひねるより容易いだろう、と。
彼らは、まだ、気づいていなかった。自らが、蜘蛛の巣に迷い込んだ、哀れな蝿であるという事実に。
◇
旅籠の屋根裏。埃と、乾いた木の匂い。
その闇の中、風魔小太郎は、眼下に広がる城下を、ただ見下ろしていた。
「……五匹か。思ったより、少ない」
背後の闇から、腹心である「霞」の声がする。
「はっ。いずれも手練れと見受けられます。一人は、北の工業地区を嗅ぎまわっております」
「泳がせておけ。我らが狙うは、この小魚ではない。その背後で糸を引く者よ」
小太郎の言葉に、霞は無言で頷いた。
風魔忍軍の恐ろしさは、個々の戦闘能力ではない。
彼らが張り巡らせた、緻密な情報網にある。市場で威勢のいい声を張り上げる魚屋も、道端で物乞いをする男も、工業地区で槌を振るう寡黙な職人も、その実、全てが風魔の一員。
彼らは客の顔、荷の行き先、その全てを記憶し、観察し、分析する。日常の風景に混じる、僅かな「異物」の存在を、彼らは見逃さない。
クラウスたちがこの街に入った瞬間から、彼らの一挙手一投足は、小太郎の元へ届けられていた。
「町奉行所にも、報せを入れよ。あの男も、我らとは違う網で、鼠を炙り出すであろう」
「御意」
霞は音もなく闇に消えた。
小太郎の目には、この街は巨大な将棋盤であった。そして、盤上に放たれた哀れな駒たちが、自らの意志で動いていると思い込む、その滑稽な軌跡を静かに愉しんでいた。
◇
小田原町奉行所。
大道寺政繁は、山と積まれた書状の山から、いくつかの木簡を抜き出していた。城下の治安に関する、些細な揉め事や陳情。だが、彼の目は、その中から注意すべき報告を的確に選び出す。
「……ふむ。『近頃、見慣れぬ商人風の男たちが、城壁の普請の様子を熱心に眺めております。商いの気配はありませぬ』。三番組の五人組頭からか」
「『新しく店を借りた旅人たちが、酒を注文せず、兵たちの噂話に耳を立てている。支払った銭も、古い帝国の銀貨であった』。南門の居酒屋の亭主が、目安箱に投じたものだな」
「『北の工房へ薬草を届けたところ、見かけぬ男が、警備兵に交代の時間を尋ねておりました』。医療院の薬師見習いから……」
政繁は、それらの情報を、文机に広げられた地図の上に、筆で一つ一つ書き込んでいく。
風魔がもたらす『点』の情報を、民の生活という『線』で結び、敵の意図という『面』を浮かび上がらせる作業であった。
そこへ、風魔の忍が音もなく現れ、一枚の書状を差し出す。
政繁はそれに目を通すと、皮肉な、しかし満足の色を口元に浮かべた。
「……揃いも揃って、北の工業地区と、東の城壁に興味がおありか。分かりやすいことだ」
彼は、小太郎からの報告書を燭台の火で燃やしながら、立ち上がった。
「小太郎殿に伝えよ。『魚は、全て網にかかった。今宵、引き上げる』と」
♢
夜の工業地区は、音と沈黙が支配していた。遠くの工房から響く槌音とドワーフの仕事歌。その光が届かぬ闇の中を、クラウスは部下と共に進んでいた。
(……警備は手薄。噂に聞く『魔石機関』とやらも、この地区にあるはず。一つでも破壊できれば、辺境伯様への良い手土産となる)
彼らが、目当ての工房の分厚い壁に取り付いた、その時だった。
「――そこで、何をされている、鼠輩め」
その声は、背後からではない。闇そのものが、囁いたかのようであった。
クラウスの全身の毛が、総毛立つ。彼が驚愕と共に振り返った先には、黒装束に不気味な仮面をつけた一人の忍が、ずっと前からそこにいたかのように佇んでいた。
風魔小太郎、その人であった。
「貴様! いつからそこに!」
「最初からだ」
小太郎が、短く応える。
クラウスは思考の速度で動いた。腰の短剣を抜き、闇の中心へと必殺の一撃を繰り出す。彼は諜報員であると同時に、暗殺術にも長けた一流の使い手であった。
だが、刃が触れたのは残像。陽炎のように揺らめき、小太郎の姿が消える。
(……消えた!?)
次の瞬間、クラウスの首筋に、柄頭による、骨の芯まで響くような硬い衝撃が走った。
「ぐ……っ!」
声にならない呻きと共に、彼の視界が白く染まり、膝から崩れ落ちる。いつ、どこから。全く、理解ができなかった。
隣にいた部下もまた、声もなく地面に崩れ落ちていく。その首には、あり得ない角度で一本の手裏剣が深々と突き刺さっていた。
意識が闇に落ちる寸前、クラウスは闇の中から現れた数人の黒い影に、その四肢を拘束されるのを感じた。
(……これが、オダワラの闇……。我らは、初めから……弄ばれていた、というのか……)
◇
小田原城、地下石牢。松明の光が、湿った石壁と、床に転がる男の影を不気味に揺らしていた。
意識を取り戻したクラウスの前には、二人の男が立っている。
闇に溶け込む風魔小太郎。
そして、松明の光を背に、その表情を半分影に沈ませた、大道寺政繁。
「さて」
政繁は、手にした扇を検分するような仕草で、クラウスを見下ろした。
その口調は、茶会の客人に話しかけるように穏やかであった。
「レミントン辺境伯の、目と耳殿。我らの城下は、貴殿の目に、どう映ったかな」
「……殺せ」
クラウスは、吐き捨てた。
「案ずるな。すぐには殺さぬ。そなたには、まだ役目がある」
政繁は、その場にしゃがみ込むと、恐怖に歪むクラウスの顔を、扇子で、とん、と軽く叩いた。
「そなたは、生きて主君の元へ帰るのだ。そして、我らが伝えたい『真実』を、その耳に届けよ」
「何を……」
「一つ。我らが『小田原鋼』の切れ味は、そなたの仲間がその命で証明した」
「二つ。我らが『異界式当世具足』は、貴殿らが誇る騎士の槍も通さぬ」
「そして、三つ」
政繁は、扇子を、ぱちり、と閉じた。
その乾いた音が、静かな石牢に響く。彼は、その扇の先端を、クラウスの喉元に突きつけた。
「――我ら北条は対話の扉を開いているが、土足で庭に上がり込む、礼儀を知らぬ輩に、容赦はせぬ、と」
クラウスは、その若き官僚の瞳の奥に、戦国の世を生き抜いた、底知れぬ冷徹な知性を見た。
それは、彼が仕える辺境伯が持つ傲慢な暴力とは異質の、系統立てられた、恐るべき「力」であった。
水面下の暗闘は、一方的な、静かな幕切れを迎えた。だが、この敗北は、辺境伯の苛立ちを、抑えきれぬ怒りと、破滅的な行動へと駆り立てる。
本当の戦乱の足音は、もう、そこまで迫っていた。
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