幕間四:森の亀裂
生命樹の都イグドラシオン。
長老会を統べる、純白の広間。議長のロエリアン・シルヴァリウスは、国境警備隊から人間たちの使節団を追い返したとの報告を手に、満足げにその白銀の眉を撫でていた。
彼の執務室は、生きた白樺の木をそのまま利用して作られており、壁や天井には、魔法によって四季折々の葉が、ゆっくりと、しかし絶え間なく生え変わり、そして散っていく。数千年変わらぬ、森の営みそのものが、この部屋の装飾であった。
「……ふむ。人間ども、すごすごと引き返したか。それでよい。災いの種は、芽吹く前に摘み取るに限る」
彼の傍らに控える長老たちも、一様に頷いている。
彼らにとって、数千年という長大な寿命は、変化を「悪」と断じる、揺るぎない価値観を育んでいた。
「ロエリアン様の、ご慧眼の賜物ですな。あの者どもを都に招き入れていれば、今頃、どんな騒動が起きていたことか」
「いかにも。これで、森には、また数百年、変わらぬ平穏が訪れましょう」
彼らにとって、数十年、数百年という時間は、瞬きほどの長さでしかない。変化とは、すなわち、平穏を乱すリスクであり、根絶やしにすべき病であった。
だが、その老成した平穏は、駆け込んできた一人の伝令によって、無慈悲に引き裂かれた。
「も、申し上げます! 各地の村より、緊急の報せが!」
伝令のエルフは、顔面を蒼白にさせ、震える声で報告を続けた。
風の精霊にのって運ばれてきた、いくつかの葉を、震える手で差し出す。
「南のシルフィンの村より、若者七名が! 西のエルダナンの里より、十一名が! その他、各地の集落から、総勢にして、五十を超える若者たちが、昨夜、一斉に姿を消しました!」
「……なに?」
ロエリアンの表情から、余裕が消えた。
「置き手紙が、残されておりました。いずれも、似た内容で……」
伝令が、そのうちの一枚を読み上げる。
「『我らは、古き教えに未来はないと知った。森の停滞は、緩やかな死に他ならない。我らは、エルウィン様の切り拓いた道の後を追い、東の人の都へ赴き、真の知恵を学ぶ』と……!」
広間が、水を打ったように静まり返る。
五十人。それは、エルフの総人口からすれば、決して多くはない。だが、その全てが、未来を担うはずだった「若者」であるという事実が、長老たちの心を、見えざる氷の槌で打ち砕いた。
ロエリアンは、わななくように立ち上がった。
数ヶ月前、ただの世間知らずの小娘と、生意気な若造の「家出」だと、せせら笑っていた、あの出来事。あれは、家出ではなかった。自分たちの足元を根こそぎ腐らせる、「反乱」の始まりだったのだ。
(……エルウィン……! あの裏切り者めが……!)
ロエリアンの脳裏に、小田原にいるはずの、若きエルフの顔が浮かんだ。奴が、森に残る仲間たちに、何らかの方法で連絡を取り、この集団脱走を扇動したに違いない。
そして、その背後には、あの人間たちがいる。自分たちが門前払いした、あの人間たちが、今度は、森の若者たちの魂そのものを奪おうとしているのだ。
エルウィンは、もはや、ただの危険分子ではない。森の秩序を、その根幹から破壊しようとする、許されざる「感染源」であった。
「――全氏族に通達せよ!」
ロエリアンの声が、怒りに震えながら、広間に響き渡った。
「“風渡り”のエルウィン、及び、奴に同調し、森を捨てた全ての者を、今日この時より、『ダーナ・シル(森の裏切り者)』と断ずる! 彼らとの一切の接触を禁じ、その名を、森の歴史から抹消せよ! この禁を破る者は、同罪と見なす!」
それは、シルヴァナール連邦、数千年の歴史上、最も厳しい、同族へ向けた絶縁の宣告であった。
長老たちは、その宣告を以て、押し寄せる時代の奔流を堰き止めようとした。
だが、彼らの目は、生命樹の分厚い樹皮の下を見ていない。
その最も深い場所、古い根が眠る土壌に、新しい時代を求める若き芽が、いくつも産声を上げていた。
そして、その芽には、東の地から一条の光が注がれていた。それは、北条が示す『豊かさ』という名の水。そして、『希望』という名の、力強い陽光。
一度、光を知った芽が、再び古い樹皮の下の闇へ戻ることはない。
森の平穏は、失われた。この亀裂は、エルフの社会を二つに引き裂き、森の千年を揺るがす、血を分けた争いの始まりであった。
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