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第二十話:森の深奥へ

 冬の訪れを告げる冷たい風が、小田原城の櫓を撫でていた。

 評定の間の空気もまた、その風のように張り詰めている。中央には、不完全な大陸地図。その卓を、北条氏康、氏政、そして町奉行の大道寺政繁が囲んでいた。


「ドワーフとの盟約は、江雪斎が成し遂げよう。だが、片輪だけで車は進まぬ。もう一方の車輪……エルフぞ」

 氏康の言葉に、政繁が地図上の広大な森へ目を落とす。


「……かの森の民、にございますな」


「うむ。ドワーフとは違う知恵と力を持つ。彼らとの関係を築くことは、我らがこの地で盤石の地位を築く上で不可欠となる」


 その言葉に、氏政が慎重な面持ちで口を挟んだ。

「父上。ですが、リシア殿の話では、エルフの長老会は人間との交流を禁忌とさえしているとか。江雪斎殿が不在の今、下手に接触すれば、彼らの警戒心を煽るだけではありませぬか」


 氏康は、息子の懸念に静かに頷くと、政繁に視線を移した。


「だからこそ、そなたなのだ、政繁」


「……わたくし、にございますか。外交は、江雪斎殿の……」

 若き官僚の戸惑いに、氏康は首を振る。


「此度の使いは、交渉にあらず。実見にある。そなたは、この小田原の法と市を、その手で築き上げた。その『物差し』を持つそなたの目で、かの森の国の真の姿を見てくるのだ。凝り固まった長老たちの他に、我らと『話』ができる者がいるのかどうか。その芽を、見つけ出してこい」


 氏康は、控えていた近習に命じ、エルウィンとリシアを評定の席に招き入れた。

 二人のエルフが礼を取ると、氏康は単刀直入に問うた。


「エルウィン殿。今、我らが使節を送れば、長老会は受け入れると思うか」

 エルウィンの金色の髪が、悔しさに揺れた。


「…お言葉ですが、氏康殿。長老会議長ロエリアンは、『人間は災いをもたらす』という数千年前の教えを、今も信じております。門前払いが関の山かと」

 その言葉に、今や使節の正使たる政繁が、探るような目で問いを重ねる。


「では、エルウィン殿。長老会が我らを拒むという事実そのものを、我らは武器とすることはできませぬか」

 その問いに、今度はリシアが、強い意志の光を瞳に宿して応えた。


「できます。長老たちが我らを拒んでも、その事実は、他のエルフたちに伝わります。『人間が、礼を尽くして対話を求めてきた。しかし、長老たちは、聞く耳さえ持たなかった』と。その事実は、長老会の古い考えに疑問を抱く者たちの心に、波紋を広げるはずです」

 リシアとエルウィンの言葉が、エルフ族の内情が単純な一枚岩ではないことを、明確に示す。


「なるほどな」

 氏康は、深く頷いた。


「戦わずして、敵の内側から結束を崩す。風魔の常套手段にも通じる理屈よ。――政繁」


「はっ」


「そなたを正使とする。リシアを案内役とし、シルヴァナールの森へ赴け。目的は、面会ではない。我らが対話の意思があるという『事実』を、森の歴史に刻んでくるのだ」


 ◇


 数日後。小田原の城門から、目立たぬ一団が闇に紛れて消えた。

 正使である大道寺政繁。案内役のリシア。そして、その姿を落ち葉や木々の影に溶け込ませた、数名の風魔忍軍。公の使節ではない。秘密裏の偵察行であった。


 小田原の周辺林を抜け、一行は世界の理が変わる境界線を越えた。

 分け入る森は、様相を一変させる。空を覆う巨木は、一本一本が城の櫓のごとき威容を誇り、その幹には、賢者の顔を思わせる深い皺が刻まれている。空気は神社の境内のように澄み、肌を粟立たせる濃密なマナが満ちていた。


「政繁様、お気をつけを。この先、人の道はございません。わたくしが示すマナの『流れ』に沿ってお進みください」


 リシアは、人間には見えぬ力の道筋を読み取り、一行を導く。

 政繁は、地図を描くように周囲を観察する。彼の目に映るのは、道なき道、絶えず形を変える混沌の森。蔦は意志を持ち、川の流れに逆らって木の根が橋を架ける。


 彼の信じる世界は、数字と法、そして人の営みという、目に見える理でできていた。目の前の光景は、その全てを否定する。非合理。神秘。彼の常識が、音を立てて崩れていく。


「……流れ、か」

 政繁は、案内役の少女に問いかけた。

「リシア殿、その流れは、地図に書き写せるものか」


 その問いに、リシアは少し困ったように微笑んだ。

「いいえ。流れは、常に形を変えますから。ただ、感じるものなのです」


 数週間の旅の果て、一行は、世界の理が変わる境界線を越えた。

 生命樹の都「イグドラシオン」。

 大道寺政繁は、言葉を失った。彼が生涯をかけて信じてきた、法と数字で築かれる人の世の営み。その全てが、眼前の光景の前では、矮小な子供の戯れに思えた。


 天を支える一本の柱のごとき、巨大すぎる樹。その幹や太い枝の上に、白い貝殻のように優美な建造物が宿っている。無数の滝が奏でる永遠の音楽。陽光を受けた飛沫が、虹色の宝石となって風に舞っていた。


 だが、その神々の庭に住まう者たちの瞳は、冬の湖のように凍てついていた。

 彼らを迎えたエルフの衛兵たち。その所作は優雅だが、一行を見る視線は、まるで病に冒された標本を検分する医者の視線であった。


「人間よ。何の用かな」

 政繁は、使節としての礼を尽くし、声を発した。


「我らは、東の国主、北条氏康が使者。貴国が長老会に、主君からの親書を届けに参った」


 衛兵は親書を受け取ると、「しばし、待たれよ」とだけ告げ、一行を蔦で作られた簡素な客舎へと案内した。


 返答は、三日後に来た。

 現れたのは、生きた木の葉を編んだ鎧を纏う、国境警備隊。感情の読めぬ涼やかな瞳で一行を見下ろし、隊長が抑揚のない声で告げる。


「長老会よりの伝言である。『森は、人の子の来訪を歓迎しない』。汝らが無用な争いを望まぬというのなら、その証として、親書は受け取ろう」


 彼らが示したのは、森の境界線に立つ、二本の巨大な白樺の中間点。これより先への立ち入りは許されぬ、という無言の意思表示。


 政繁は、屈辱を顔の筋肉一つ動かさずに押し殺し、恭しく親書を差し出す。エルフの隊長は、その人の手による書状に触れることさえ厭うかのように、風の魔術でそれを手元へと引き寄せた。


「確かに、預かった。これで汝らの用件は済んだはず。この地を立ち去られよ」


 それだけを告げると、警備隊は音もなく森の奥へと消えた。

 交渉の卓に着くことさえ、許されなかった。

 政繁の心は、凪いでいた。


(……氏康様の狙いは、ここにはない。本当の戦場は、この森の、内側にこそあるのだ)


 ◇


 小田原城、本丸。秘密の評定の間。

 巨大な大陸地図を、氏康、氏政、そして、エルウィンとリシアが囲んでいた。


「――以上が、顛末にございます。親書は渡せましたが、長老会との対話の道は、閉ざされたと見るべきかと」

 大道寺政繁の報告に、氏康は静かに頷く。彼は、広間の隅、人の形をとった影へと視線を向けた。


「小太郎。そなたの『目』が見たものも、同じか」

 影が、音もなく膝をつく。風魔小太郎であった。


「はっ。されど、それ以上に。あの日、政繁殿が森へ入ると同時に、わが配下も数名、別経路にて潜入を試みました。ですが……」

 小太郎の声に、初めて、かすかな揺らぎがあった。


「誰一人、都の中心部には、たどり着けませなんだ。森そのものが、我らを拒絶した、と。木々は道を変え、川は流れを偽り、精霊の囁きが、我らの五感を狂わせる。あれは、城壁にあらず。人の心を直接惑わす、巨大な『結界』にございます」


 風魔の、完全なる敗北。その報告は、評定の間に重い沈黙を落とした。

 氏康は、その沈黙を破り、エルウィンに問うた。


「エルウィン殿。影の刃さえも通じぬ壁。ならば聞くが、その壁を、内側から崩す道はあるか」


「はい」エルウィンの瞳に、強い光が宿った。


「長老会の権威は、絶対ではございません。オークとの戦で土地を追われ、日々の暮らしに困窮する若い世代は、長老たちの古い教えよりも、目の前にある北条家の『豊かさ』と『力』に、魅力を感じ始めています」


 エルウィンは、地図の上に、シルヴァナールの森のいくつかの地点を指し示す。


「これらの村には、わたくしの考えに同調する仲間がおります。彼らを通じて、小田原の噂――異種族が共存し、働けば報酬が得られ、新しい技術が暮らしを豊かにするという『真実』を、森の隅々へと広めます」


「内側からの革命か」

 政繁の言葉に、エルウィンは頷く。


「長老会を力で打倒することはできませぬ。ですが、彼らの足元を支える、民の信頼を、我らが奪うことはできるはずです」


「面白い」氏康の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。「戦わずして、敵の内側から結束を崩す。ならば、我らも、その革命とやらに、手を貸そう」

 彼は、宣言した。


「これより、北条家は、シルヴァナールの森から、『知恵と技を学びたい』と望む、全ての若きエルフを、『客人』として受け入れる。彼らには、住まいと仕事を、そして、この世界で生きていくための知識を与えることを、ここに約束する」


 それは、エルフの国に対する、宣戦布告にも等しい、平和的な侵略。武力で扉をこじ開けるのではない。内側から、人の心そのものを、こちら側へと引き寄せる。リシアとエルウィンは、氏康の、あまりに壮大で、恐ろしい策に息を呑んだ。


 此度の使節は、表向きには失敗に終わった。

 だが、その失敗によって、北条家とエルフの革新派は、水面下で確固たる秘密の盟約を結ぶ。森の深奥に鎮座する老人たちの知らぬ間に、彼らの足元では、新しい時代を告げる若き風が、確かに吹き始めていた。



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