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第十九話:ドワーフの王

 

 門をくぐった瞬間、空気が死んだ。外の凍てつく風は消え、代わりに、何千もの炉が吐き出す乾いた熱気が一行を包む。


 人間が持つ「地下」という言葉の矮小さを、ただ無言で示す、圧巻の大空間。幅二十間はあろうかという広大な隧道が、地の底の闇へと続いていた。


 等間隔に燃え盛る巨大な松明の光が、壁に刻まれた古代のレリーフを揺らめかせ、若き北条氏規の目に、伝説の魔物と戦うドワーフたちの勇姿を映し出す。


 その一彫り一彫りに、この山の民が五千年かけて培ってきた、揺るぎない誇りと歴史の重みが宿っていた。


「……これが、ドワーフの国……」

 氏規の口から、畏怖の念がか細い息となって漏れた。歴戦の武士たちでさえ、この山そのものが一つの巨大な城塞であるという事実に、言葉を失う。


 長い隧道を抜けた先。そこに広がっていたのは、都市ではなかった。

 一つの、巨大な心臓であった。


 カン、カン、カン!

 数千の槌音が、一つの脈動となって岩盤を震わせる。ゴウ、ゴウ、と大地が呼吸するような溶鉱炉の唸り。キー、と岩盤を削るトロッコの悲鳴。


 ドワーフたちの怒声と仕事歌。その全てが混じり合い、一つの生命の咆哮となって、この地下都市を満たしていた。


 空洞の中央、大溶鉱炉『ヴォルンヘイム』が、地の底の太陽のように君臨し、その灼熱の血液たる溶けた鉄を、無数の水路へと送り出している。その光景は、神話に謳われる地獄の景色か、あるいは、創造の瞬間の景色か。


 その圧倒的な生命力の前に立ち尽くす一行へ、案内役のドルグリムが、ついに誇らしげな声を上げた。


「どうだ、人間ども! これが我らが故郷、カラク・ホルン! 我らが魂の炉、ヴォルンヘイムよ!」


 喧騒を抜けた先、一行は沈黙に支配された王城へと案内された。そこは、生きた岩盤をくり抜いた巨大な要塞。


 幾多の衛兵が、鎧というよりは岩盤そのものを纏ったかのように、微動だにせず通路を固めている。彼らの足音が、だだっ広い石の空間に、冷たく響いた。


 玉座の間は、人間の王城が持つ華美な装飾を、まるで不要な贅肉であるかのように削ぎ落としていた。数百人が集まっても余裕のある、巨大な石の広間。


 その最奥に、玉座があった。金銀ではない。山の岩盤そのものを削り出した、無骨な石の座。それは、このカラク・ホルン五千年の歴史と、揺るがぬ伝統の象徴であった。


 そこに、ドワーフの王は鎮座していた。国王、ブロック・アイアンフィスト。


 その体躯は、ドルグリムさえも矮小に見せる、岩の塊。編み込まれた白銀の髭は胸元を覆い、床に届かんばかりの長さを誇る。


 その瞳は、磨かれた黒曜石。新しいもの、予期せぬものを映すことを拒絶する、絶対的な頑固さをたたえていた。


 王は、江雪斎ら人間には一瞥もくれず、その視線を、自らの前に立つドルグリムに突き刺した。


「……ドルグリムよ。奇妙な土産物を持ち帰ったものだ。地表の者どもを、この神聖なるカラク・ホルンに招き入れたか。お主の言う『革新』とは、祖先の誇りを売り払うことと同義であったと見える」


 その声は低い地鳴りのようであり、侮蔑と失望が込められていた。玉座の脇に控える、化石のごとき長老たちが、同意を示すように重々しく頷く。


 ドルグリムの顔が、炉の鉄のように赤く染まる。彼が、悔しさに何かを言い返そうとするのを、江雪斎がその袖を引いて制した。


 江雪斎は一歩前に出ると、深々と、しかし、卑屈ではない礼を取った。


「偉大なる山の王、ブロック・アイアンフィスト陛下に、お目通りが叶いましたこと、光栄の至りに存じます。我らは、東の地より参りました、北条家からの使節。わたくしは、正使を任された、板部岡江雪斎と申します」


 江雪斎が目配せすると、氏規が緊張にこわばる手で、最初の贈答品を王の前に捧げた。幻庵が手掛けた、蒔絵の小箱である。


「陛下。この小箱は、我らが地の『魔石』の光を当てると、その絵柄が、四季の移ろいを映し出す仕掛けにございます」


 だが、玉座の脇に控える長老の一人が、その白銀の髭を揺らして鼻を鳴らした。


「フン。小賢しい木の玩具よ。我らの子供が振るう、最初の槌の一撃にも耐えられまい。そのような脆いものに、何の価値がある」


 次に、極彩色の絹織物。


「なんと柔く、薄いことか。このような布、我らが鉱山の熱気の前には、一瞬で灰と化そう」


 手厳しい評価。

 だが、それは江雪斎の想定の内であった。彼らが、石と鉄以外の価値を、容易に認めないことは、ドルグリムから聞いて、既に承知している。


 氏規が、最後の贈答品たる一振りの太刀を、恭しく差し出した。

 王が顎で示すと、玉座の脇に控えていたドワーフの鍛冶師長が、その太刀を受け取り、鞘から抜き放つ。


 陽光のない玉座の間に、一条の光が生まれた。

 太刀は、松明の光を吸い込み、水面のような輝きを放つ。鍛冶師長は、その切っ先、地肌、そして水紋のような刃文を、食い入るような目で見つめた。彼はその刀身を指で弾き、澄んだ音の響きを確かめ、やがて、畏敬の念を込めて王に告げた。


「王よ……。この鋼は、生きております。我らの鋼が岩の剛性を持つならば、この鋼は、柳のしなやかさを持つ。……折り重ねられた鋼の層は、無数の魂が宿っておるかのようです。これほどの業、このわしにも、見当がつかぬ」


「ほう……」

 王は、その黒曜石の瞳に、初めて興味の色を浮かべた。


「して、人間よ。そなたたちは、この刀を我らに売りつけ、一体、何を望む」


 交渉の糸口。だが、江雪斎は首を振った。


「陛下。我らは、商いに来たのではございませぬ。ただ、お近づきのしるしとして、我らの文化の一端を、お目にかけたかったまでのこと」

 彼は、玉座を見上げ、凛とした声で続けた。


「陛下。このカラク・ホルンは、偉大な王国。その威容は、何千年もの間、不動の山のごときものであったことでしょう。なれど、お教えいただきたい。永遠に変わらぬ山と、その山から生まれ、形を変えながら麓の大地に恵みをもたらす川とでは、どちらが、より尊いのでございましょうか」

 その禅問答に、王の眉間に深い皺が刻まれる。


「……小賢しい物言いを。回りくどいぞ、人間。我らドワーフは、謎かけを好まぬ」


「失礼いたしました」

 江雪斎は深く頭を下げると、最後の切り札を披露させた。


 ドルグリムの顔が、期待に輝く。兵士たちが、巨大な酒樽を玉座の前へと運び込んだ。


「陛下。これは、我らが命の糧とする『米』から、人の知恵と時間をかけて作る、至高の酒、『清酒』にございます。これ以上のお近づきのしるしは、我らにはございません。どうか、一献」

 王は、盃に注がれる澄み切った液体を、訝しげに見つめていた。

 だが、ドルグリムの熱心な眼差しに、断ることを良しとしなかった。


 彼は盃を手に取り、その果実のような、花の蜜のような、米から生まれたとは思えぬ香りに、わずかに目を見張る。そして、一息に呷った。


 王の黒曜石の瞳が、驚愕に見開かれた。白銀の髭が、わななく。

 喉を焼くエールの熱さとは違う。魂そのものを、内側から温めるような、静かで、しかし、絶対的な衝撃。


「……この酒……」

 王は、絞り出すように言った。


「……魂が、ある」


 その一言で、玉座の間の空気が変わった。長老たちも盃を口にし、その未知なる美味に言葉を失っている。


 好機。江雪斎は、この時を逃さない。


「陛下。我らが望むは、交易や、盟約といった形あるものにあらず。ただ、互いの『技』と『魂』を、交わらせてみたいのです。陛下が許されるなら、我らが最高の刀鍛冶をこの地に遣わしましょう。代わりに、我らの工房に、陛下が誇る最高の職人をお招きしたい。山と川がそうであるように、互いを高め合う道を、探りたいのです」


 それは、同盟の申し入れではない。対等な立場での、技と誇りを賭けた「挑戦」。

 その言葉に、ドルグリムが進言する。


「王よ! この者たちの技術は本物です! 彼らの知恵と我らの技が合わされば、かの『魔石機関』のような、ドワーフの歴史を変える発明も、夢ではありませぬ!」


 ドルグリムの言葉に、玉座の間にいた若い職人たちの目に、期待の光が走った。長老たちは、なおも「伝統を汚すものか」と、苦々しげな顔を崩さない。革新か、伝統か。北条という異物が、ドワーフ王国の対立を白日の下に晒したのだ。


 ブロック王は、何も答えなかった。

 彼は、手の中の盃に残った透明な液体を見つめ、目の前の人間の僧侶と、熱意に満ちたドルグリムとを、交互に見比べた。

 その頑固な岩の心に、一本の楔が打ち込まれる。


 答えは、まだ出ない。だが、交渉の分厚い扉は、こじ開けられようとしていた。



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