第十八話:山の王国へ
評定の間の空気は、変わっていた。
オークとの大戦を乗り越えた猛将たちの顔から、血の匂いは消え、代わりに、次なる一手を見据える為政者の深慮が宿っている。
この世界もたらした豊穣は、民の顔から飢えへの恐怖を拭い去り、この新生・北条領に確かな礎を築いた。生存のための闘争は、終わったのだ。
玉座に座す北条氏康は、広げられた不完全な地図を、指でなぞった。
「我らは食い扶持を確保し、法を立て、目先の敵を退けた。だが、この安寧は、嵐の前の凪に過ぎぬ」
彼の指が、小田原を中心としたごく小さな領域から、遥か北西の山脈地帯へと滑る。
「今、西へ兵を進めるは愚策。かの地には、我らと同じ人の国がある。力で制すれば、必ずや、より大きな禍根を残そう。我らが今、築くべきは石垣にあらず。言葉と、信義による、盟友の砦よ」
氏康の視線が、広間の一点に向けられる。
そこに座すは、一人の僧形の男。板部岡江雪斎。彼は、主君の意図を全て悟ったかのように、瞑目したまま、かすかに頷いた。
「江雪斎」
「はっ」
「そなたに、我が北条家の全権大使として、北の山に住まうドワーフの民、『地下王国カラク・ホルン』への使節を命ずる」
その言葉に、評定の間がどよめく。ドルグリム個人との交流を、国家間の正式な外交へと引き上げる、あまりに大胆な一手であった。
「使節の目的は三つ」
氏康は、指を折りながら、その重い使命を告げる。
「一つ、ドワーフの王と通商協定を結び、魔石やミスリルといった我らにない資源の供給路を確保すること」
「二つ、いずれ我らが直面する脅威に対し、共に立ち向かう軍事的な盟約の可能性を探ること」
「そして三つ。かの国の王、民、そして歴史を知り、この世界の深奥を、我らの『知』とすること」
末席に控えていたドルグリムが、誇りと不安の入り混じった顔で進み出た。
「氏康殿。話はわかった。案内役は引き受けよう。だが、覚悟はしておけ。我らが王、ブロック・アイアンフィストは、五千年の伝統という名の鎧で、その心を固めておられる。わしのような革新派の言葉など、ただの若造の戯言。あの岩山を、言葉で動かすのは至難の業だぞ」
その警告に、江雪斎が、静かに顔を上げた。
「岩山も、水の一滴が、千年の時をかければ、穿つことができまする」
彼の声は、禅問答のように穏やかであったが、その瞳には、揺るぎない闘志の火が灯っていた。
「どのような相手であろうと、理と誠意を尽くすまで。御家のため、この江雪斎、大役、果たしてご覧にいれまする」
◇
評定の間の熱気が冷めやらぬうちから、城下は新たな熱を帯びていた。ドワーフの国へ贈る品々の準備である。
「良いか、氏規。我らが贈るのは、金銀ではない。この地でしか生まれぬ、我らの『魂』そのものだ」
蔵の前で、氏康は四男の氏規に静かに語りかけた。
蔵からは、祝いの席でドルグリムを虜にした『清酒』の樽が、次々と運び出される。
その隣では、刀鍛冶の棟梁が、完成したばかりの一振りの太刀を、最後の検分にかけていた。ドワーフの高炉と日本のたたら、二つの魂が融合した『小田原鋼』の刃は、冬の陽光を吸い込み、水面のような輝きを放つ。
幻庵は、自らが手掛けた蒔絵の小箱の仕掛けを、満足げな顔で確かめていた。武力や富ではない。この国の文化の深さ。それこそが、此度の戦の武器であった。
使節団の人選も決まった。
正使は、外交僧・板部岡江雪斎。護衛の武士は二十名。そして、氏康の四男、北条氏規が、父譲りの知性と柔らかな物腰で、見習い外交官として江雪斎に師事する。
数日後の早朝。
大手門の前は、冬の冷気と、旅立ちの前の静かな興奮に満ちていた。
日本の鎧兜を纏った武士たち。がっしりとした体躯のドルグリムとその仲間たち。
そして、その中心に鎮座するのは、馬を必要としない異形の荷車。幻庵とドルグリムが産んだ『蒸気輸送車』であった。その心臓部たる魔石機関が、低い鼓動と共に熱を吐き出し、銅の管が不気味な輝きを放っている。
氏康は、自ら一行を見送るために、門前に立っていた。
「江雪斎」
「はっ。殿、ご案じなさいますな」
「案じてなどおらぬ。ただ、一つだけ覚えておけ」
氏康は、江雪斎の耳元に口を寄せた。その声は、確かな信頼に満ちていた。
「そなたの舌は、綱成が振う槍に勝るとも劣らぬ、我が北条の宝よ。言葉を以て、我らのための、揺るぎなき砦を築いてまいれ」
「御意。この板部岡江雪斎、必ずや、かの山の王の心を動かし、殿の御前に、新たな盟友を連れて帰りましょう」
江雪斎は深く一礼すると、北へと向き直った。
その顔から、僧侶の柔和な笑みは消え、ただ、戦場に向かう将の、鋭い眼光だけがあった。
彼は、ドルグリムと顔を見合わせ、北へと向かう街道に、その第一歩を踏み出した。
◇
旅は、彼らが知る世界の狭さを、改めて教えるものであった。
小田原周辺の鬱蒼とした森を抜けると、視界は一気に開け、緩やかな丘陵地帯と、地平線まで続く広大な草原が広がっていた。
空はどこまでも高く、見たこともない巨大な鳥の群れが、優雅な編隊を組んで渡っていく。
蒸気輸送車は、時折止まっては水の補給を必要としたが、馬のように疲れることを知らず、着実に一行を北へと運んでいった。
野営の夜。焚火の炎が、一行の顔を赤く照らし、背後には、異世界の星々が瞬く底なしの闇が広がっていた。
江雪斎は、ドルグリムに手酌で酒を勧めながら、問いかけた。
「ドルグリム殿。この酒は、そなたの故郷の酒に、似ておりますかな」
「ふん、似ても似つかんわ」ドルグリムは、盃の酒を吟味する。
「我らのエールは、もっと無骨で、喉を焼く。……だが、この『サケ』とやらには、不思議な静けさがある。まるで、千年の時を、この小さな盃に閉じ込めたかのようだ」
「その千年の時を、体現したのが、貴国の王ですかな」
江雪斎の言葉に、ドルグリムの顔が曇る。
「王は、もはや王ではない。我らが五千年の伝統そのものが、人の形をとった石像よ。若い頃は『龍殺し』とまで謳われた豪傑であったが、今のあの御方は、ただ、過去という名の玉座に座っておられるだけだ」
ドルグリムの声には、深い苦渋が滲んでいた。
「新しい技術を『まやかし』と断じ、古いやり方こそ至高と信じておられる。わしのように、外の技術を取り入れ、魔石機関のような物を作るべきだと考える者は『若造の戯言』と、一蹴されるのが常よ」
江雪斎は、傍らの石を一つ拾い上げ、その無骨な肌を指で撫でた。
「岩は、そこにあるだけでは、ただの石くれ。それを割り、磨き、積み上げる『技』があって初めて、礎となる。伝統とは、ただ守るべき化石にあらず。磨き、新たな形を与えてこそ、真の価値を持つのではござらぬか」
ドルグリムは、言葉を失った。
この人間は、ただの僧侶ではない。鉄の理、石の理、そして、おそらくは人の心の理さえも、見抜く眼を持っている。
旅は続き、丘陵地帯は、やがて、天を衝く岩の壁へと姿を変えた。
大陸を南北に貫く大山脈。世界の背骨。その一つ一つの頂は万年雪を抱き、雲海を、下界の出来事であるかのように見下ろしている。
「……着いたぞ。あれが、我らが故郷、カラク・ホルンを抱く、世界の背骨じゃ」
その麓に、それはあった。洞窟などという生易しいものではない。
山の側面を垂直に削り、穿たれた巨大な門。両脇には、山と見紛うばかりの巨像が、古代の王の姿で天を睨み、訪れる者全てを、その石の瞳で審判しているかのようであった。
門の表面には、絶大な力を感じさせるルーン文字が、無数の皺となって刻まれている。
一行が近づくと、門前に整列していた重装歩兵たちが、一つの生き物のような動きで巨大な戦斧を交差させ、行く手を阻む。
彼らの鎧は、北条の武士のそれとは比較にならぬほどの厚みを持ち、歩くたびに低い地響きを立てる、まさしく動く鉄塊であった。
ドルグリムが一歩前に出て、ドワーフ語で何事かを叫ぶ。その声が、岩壁に反響した。
やがて、地の底から響く、星の軋むような音と共に、巨大な石の門が、内側へと開いていった。
門の向こうから吹き付けてくる風が、江雪斎の頬を撫でた。それは風ではない。何千もの炉が吐き出す熱気と、無数の槌が鉄を打つ反響、そして、この山そのものが持つ、重い石の魂が混じり合った、未知の息吹。
彼は、目の前に広がる底知れぬ闇と、その奥に揺らめく都市の灯火を見据え、迷いのない一歩を、地の底へと踏み出した。
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