第十七話:鉄牙の誓い
秋が深まり、小田原城の城壁を撫でる風が、冬の気配を運び始めた頃。
本丸御殿の大広間は、燃え盛る篝火の熱とは裏腹に、氷のように張り詰めた静寂に支配されていた。上座には、不動の威容をたたえる北条氏康。その左右を、幻庵、そして外交僧である板部岡江雪斎が固める。
北条綱成が、射るような鋭い視線で広間の入り口を睨みつけていた。一度は癒えたはずの肩の古傷が、目の前の宿敵の気配に呼応するかのように疼く。彼の眼光には、あの戦で骨身に刻まれた屈辱の記憶と、いまだ消えぬ敵意が色濃く宿っている。
彼らが待つのは、客人。いや、つい先日まで、この城を血の海に沈めんと牙を剥いた、宿敵であった。
やがて、評定の間に続く長い廊下を、重い足音が近づいてくる。案内役の小姓に先導され、その一行は姿を現した。
先頭に立つのは、背丈こそ人間と大差ないが、鋼のように盛り上がった筋肉と、歴戦の傷跡に彩られた肌を持つ、一人のオーク。粗末だが清潔な獣皮をまとい、その背には巨大な戦斧が鈍い光を放っている。
グルマッシュ・ブラッドアックス。鉄牙部族連合、その新たな大族長であった。
彼の後ろには、選び抜かれたのであろう五人の屈強な側近が、緊張と警戒を隠そうともせず付き従っている。彼らは、案内される道すがら、この「オダワラ」という城の、信じがたい光景を目の当たりにしてきた。
城門を守る兵士たちの、寸分の乱れもない動き。彼らが身に着ける、寸分の隙もなく鍛え上げられた鋼の鎧。すれ違う町人たちの顔に浮かぶ、飢えも怯えもない、穏やかな表情。
そして何より、自分たちオークが「石ころ」と蔑んでいた城の隅々までが、考え抜かれた意図をもって配置され、一つの巨大な生き物のように機能している、その圧倒的な秩序。
ゴルドーが率いた自分たちの軍勢が、なぜ赤子の手をひねるように蹂躙されたのか。その答えが、この城の空気を吸うだけで、痛いほどに理解できた。これは、自分たちが知る「戦」や「力」とは、全く次元の違う何者かであった。
グルマッシュは、評定の間の中央まで進み出ると、屈辱に顔を歪ませながらも、片膝をつき、深く頭を垂れた。そして、側近の一人が、血の気の失せた、禍々しい首を掲げた布包みから取り出し、畳の上を転がした。
その兜には、見覚えのある巨大な牙猪の角が取り付けられている。
前大族長、ゴルドー・アイアンタスクの首であった。
「……人間たちの王、ホウジョウ・ウジヤス殿。約束通り、ゴルドーの首は、このグルマッシュが獲った。鉄牙部族は、今、新たな王の下に一つとなった」
その声には、勝利者の誇りよりも、敗者としての苦渋が滲んでいた。
彼の脳裏に、数日前の内乱の光景が蘇る。片腕を失い、それでもなお獣のように暴れ狂うゴルドーとの、血で血を洗う死闘。
旧体制を支持する者たちを力でねじ伏せた後の、勝利の咆哮。だが、その勝利の先に待っていたのは、この、勝者であるはずの人間たちの前で、こうして膝を折るという現実であった。
氏康は、転がされた首を一瞥しただけで、興味なさそうに視線をグルマッシュへと戻した。
「……うむ。見事な手際であった、グルマッシュ殿。風魔の者から報せは受けている」
その声は、褒めるでもなく、労うでもなく、ただ事実を確認するだけの、冷徹な響きを持っていた。
「約束通り、我ら北条家は、そなたを鉄牙部族の正当なる王として認めよう。そして、我らとそなたらの間には、新たな盟約が結ばれる」
氏康の言葉を引き取り、これまで沈黙を守っていた外交僧、板部岡江雪斎が、一歩前に進み出た。彼は、手にしていた巻物を、ゆっくりと広げる。
「大族長グルマッシュ殿。これより、北条家と鉄牙部族連合が結ぶ盟約の条文を、読み上げる。心して聞かれよ」
紅雪斎の、静かだが、隅々まで染み渡るような声が、広間に響き始めた。
一つ、鉄牙部族は、北条家の要請に応じ、戦士を『傭兵』として提供する義務を負う。
一つ、傭兵への報酬は、武具や金銭ではなく、北条家が持つ『知識』と『技術』によって支払われる。すなわち、高度な食料保存技術、武具の修繕技術、そして、病を癒す薬草の知識。
一つ、鉄牙部族は、北条家の領土、およびその影響下にある民への一切の敵対行為を永久に禁じられる。
一つ、北条家は、鉄牙部族の自治を尊重し、その内政に不当に干渉しない。
グルマッシュは、歯を食いしばり、その屈辱的な条文を聞いていた。それは、鉄牙部族の牙を抜き、その誇りを地に貶める、支配者の言葉であった。
だが、紅雪斎は、淡々と最後の条文を読み上げた。
「――一つ。鉄牙部族の存続を脅かす外部の敵が現れたる時、北条家は、盟約に基づき、これを退けるための助力を惜しまぬものとする」
「……なに?」
グルマッシュは、思わず顔を上げた。聞き間違いかと思った。
今、この人間は、何と言った? 我らを、守る、と?
彼の視線が、驚きと猜疑に満ちて、玉座の氏康へと向けられる。
(……守るだと? なぜだ。我らを傭兵として使い潰すだけではないのか。これは、罠か? それとも、気まぐれな慈悲か?)
だが、氏康の表情は、変わらない。その底の知れない瞳は、グルマッシュの動揺を全て見透かしているようであった。
その瞬間、グルマッシュは理解した。これは、慈悲などではない。より深く、より巧妙な、支配の形なのだ。
我らを生かし、守ることで、北条家の盾とする。我らを、決して手放すことのできぬ、従順な番犬とする。これは、首に繋がれる鎖であると同時に、部族を飢えと外敵から守る、鋼の盾でもあったのだ。
あまりの深謀遠慮に、グルマッシュは、恐怖に近い、畏敬の念を覚えた。ゴルドーは、ただの獣だった。だが、目の前のこの男は、遥か先の未来までを見通す、真の「王」であった。
「……異存、あるかな」
紅雪斎の問いに、グルマッシュは、もはや何の感情も浮かべず、深く、深く頭を垂れた。
「……ない。その盟約、鉄牙の誇りと、我が魂にかけて、受け入れよう」
彼は、自らの親指をナイフで傷つけ、血で汚れた指で、差し出された盟約書に、力強く拇印を押した。
◇
時を同じくして、小田原城から北に数里離れた、鉱山。
若いオークの戦士、ザルグも、仲間たちと共に、その重大な報せを聞いていた。
「――皆に、殿からのお達しだ! 新たな族長グルマッシュ殿が、我ら北条家と盟約を結ばれた! これにより、お前たちの労役は、本日をもって終了とする! 故郷へ帰りたい者は、帰ることを許す!」
足軽頭の言葉に、オークたちの間に、どよめきが広がった。
帰れる。だが、帰ってどうなる?
ザルグの脳裏には、ここで過ごした日々が蘇っていた。
つるはしを振るい、定められた量の鉱石を掘り出せば、夕餉には、温かい汁物と、黒パンが腹一杯与えられた。働きが良ければ、その汁物には、時として干し肉の欠片が入っていることもあった。
傷を負えば、人間たちが「医療院」と呼ぶ場所で、手当が受けられた。
そこでザルグは、信じられない光景を目にした。森で敵対していた、あの耳の長いエルフ族の女が、人間の薬師と並び、負傷したオークの兵士に、嫌な顔一つせず薬を塗っているのだ。
なぜ敵を助けるのか。なぜ敵同士が共に働くのか。理解不能な光景が、彼の凝り固まった価値観を揺さぶった。
そして何より、彼が衝撃を受けたのは、『法』という概念だった。
「仲間から食い物を盗むな。盗めば、罰として、お前の飯が減る。だが、仲間が荷を運ぶのを手伝ってやれば、お前の椀には、肉が一欠片多く入るだろう」。
力ではなく、定められたルールが、集団の秩序を作っている。その発見は、ザルグの心に、これまで感じたことのない、奇妙な「安心感」を与えていた。
帰還の日。
朝日の中、多くのオークたちが、故郷へと続く道を、複雑な表情で歩き始めた。
だが、ザルグを含む、数十人のオークだけが、その場から動こうとしなかった。
「どうした、お前たち」
足軽頭が、訝しんで問いかける。
「帰らないのか? もう、ここにはお前たちの食い物はないぞ」
その言葉に、ザルグは、仲間たちを代表するように、一歩前に出た。
「……俺たちは、帰らない」
「俺たちは、ここで生きたい。獣のように奪い合うのではなく、アンタたちのように、働いて、メシを食う、そういう者として生きたい。どうか……俺たちを、この『オダワラ』の民にしてくれ」
その、魂からの叫び。
それは、武力による征服ではなく、氏康が目指した「禄寿応穏」という統治の理念が、敵であった者の心さえも変え、自らの意思で帰順させるという、最初の真の勝利を告げる鐘の音であった。
◇
その報告は、直ちに本丸の氏康の元へと届けられた。
彼は、盟約を終えて退出していくグルマッシュの後ろ姿と、窓の外に広がる自らの領地を見つめながら、ただ静かに、一言だけ呟いた。
「……そうか」
その横顔に、驚きはない。全てが、彼の描いた壮大な絵図の通りに進んでいるという、確信だけがあった。
報告を聞いた綱成は、憎い敵が「民」になるという現実に、苦々しげに顔を歪めたが、父の前で、もはや何も言うことはなかった。
鉄牙部族は、傭兵として北条の力となり、そして、その一部は、新たな民として、この地に根を下ろす。
新生・北条領は、敵さえもその内に取り込み、さらに多様で、複雑で、そして強大な国家へと、また一歩、その姿を変えようとしていた。その変化が、やがてどのような未来を紡ぐのか、まだ誰も知る由もなかった
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