第十六話:鉄の馬、産声を上げる
先の爆発事故から、一月が過ぎた。
半壊した工房は以前よりも堅牢に再建されたが、「魔石機関」の開発は、完全に暗礁に乗り上げていた。
「……やはり、駄目か」
工房の奥、北条幻庵は、うんざりしたように首を振った。
目の前の設計図には、彼が考えうる限りの「制御」の仕組みが、無数に描き込まれている。水路の流量を調整する「堰」の構造、ふいごの風量を安定させる「弁」の仕組み。だが、それらは全て、水や空気といった「形あるもの」を制御するための知恵であった。マナという、目に見えず、形もない純粋なエネルギーの流れの前には、全くの無力だった。
「だから言うたであろう、幻庵殿。山の魂は、人の器で御せるほど甘くはないわい」
隣では、ドワーフのドルグリムが、腕を組んで唸っている。
彼もまた、魔石に刻むルーン文字の組み合わせを変え、マナの注ぎ方を微調整するなど、あらゆる手を尽くしたが、結果は同じだった。
魔石に注ぐマナの量が、少しでも増えれば機関は暴走し、減れば止まってしまう。あまりに繊細で、不安定。実用には、ほど遠かった。
二人の天才が、互いの知識の限界を前に頭を抱えていた、その時だった。
工房の入り口に、エルフのリシアが、薬草の入った籠を手に、そっと顔を覗かせた。
「あの……幻庵様。医療院で使う薬草のことで、ご相談が……」
「おお、リシア殿か。すまぬが、今は少し取り込んでいてな……」
幻庵が、申し訳なさそうに断ろうとした時、リシアの視線が、机の上の設計図に留まった。
彼女は、小首を傾げると、純粋な疑問を口にした。
「幻庵様。これは、何かの魔法の回路ですか? ですが……なぜ、マナをこのような力ずくで、狭い道に押し込もうとなさっているのですか?」
「……なに?」
リシアの思わぬ言葉に、幻庵とドルグリムは、顔を見合わせた。
リシアは、工房の床に、木の枝でさらさらと、流れるような曲線と、螺旋を組み合わせた不思議な文様を描き始めた。
「わたくしたちエルフが、風や水の精霊にお願いして、力を貸してもらう時。大切なのは、マナを力で縛ることではありません」
「マナは、川の流れと同じなのです。無理に堰き止めれば、堤を壊して溢れてしまう。大切なのは、流れを妨げず、むしろ、喜んで流れてくれるような、心地よい『道』を作ってあげることなのです」
その言葉と、彼女が描いた、どこか有機的で美しい文様。
それは、幻庵とドルグリムにとって、まさに雷に打たれたような衝撃であった。
「道……だと……!?」
「なんと……! 力ではなく、『形』で、流れそのものを整えるというのか! このドワーフ、数百年を生きてきたが、そのような発想は聞いたこともないわ!」
二人の顔に、暗雲を振り払う、光明が差した。
幻庵は、日本の神社仏閣で用いられる「組紐」や、結界を張るための「縄」の構造を思い出した。ドルグリムは、ドワーフの伝承にのみ伝わる、伝説の武具に刻まれたという、古代のルーン文字の意匠を思い出した。
異なる文化に属する二人の天才の頭脳の中で、リシアがもたらした「道」という概念が、それぞれの知識と結びつき、新たな化学反応を起こしていく。
「リシア殿、感謝する! この礼は、必ずや!」
幻庵は、すぐさま職人たちを集め、新たな設計図の作成に取り掛かった。
◇
さらに半月後。
改良型の魔石機関が、ついに完成した。
以前の武骨な塊とは違い、その心臓部である魔石の周囲には、リシアが描いた文様を模した、銀と水晶で作られた美しい輪――幻庵が「精霊回路」と名付けた部品が、幾重にも取り付けられている。
工房に、緊張が走る。
再び、ドルグリムが、今度は確信を込めて、魔石にマナを注ぎ込んだ。
すると、魔石は暴走することなく、満月のように穏やかで、それでいて力強い輝きを放ち始めた。精霊回路を通り抜けたマナは、まるで意思を持っているかのように、安定した清流となって機関の隅々に行き渡り、巨大な歯車を、滑らかに、そして力強く回転させる。
ゴウン……ゴウン……
それは、生き物の心臓の鼓動にも似た、心地よい駆動音であった。
成功だ。
幻庵とドルグリムは、言葉もなく互いの顔を見合わせ、やて、年の差も、種族の差も忘れ、童心に返ったように、固い握手を交わした。
その日の午後。完成したばかりの魔石機関は、城の練兵場へと運び出された。そこには、城の普請を一手に担う作事奉行・多目元忠が、何台もの荷車と共に一行を待っていた。
「幻庵様! ドルグリム殿! お待ちしておりましたぞ!」
元忠が指し示す先には、山と積まれた巨大な石材と木材があった。
城壁のさらなる強化と、新たな居住区画の建設。そのための資材運搬が、今や小田原の最大の課題となっていたのだ。
「馬も牛も、これまでの過労で何頭も倒れました。人の背で運ぶにも、限界がございます。このままでは、冬が来る前に、城の守りは完成しませぬ……!」
その悲痛な訴えに、幻庵は静かに頷いた。
「元忠、案ずるな。馬が駄目なら、馬に頼らねばよい。我らは、この国に、新たな『馬』を生み出すのだ」
幻庵の指揮の下、魔石機関は、ドワーフたちが特別に補強した、巨大な荷車の台座へと慎重に据え付けられた。機関の回転力は、複雑な歯車と鉄の連桿を通じて、車輪へと伝えられる。
馬も牛もいない。ただ、鉄と木と、そして魔石だけでできた、異形の荷車。
北条家初の自走式輸送機械、「魔石式輸送車」――後の世に「陸蒸気」と呼ばれることになる、革命の産声であった。
荷台には、十数人がかりでようやく持ち上がるほどの巨大な石材が、これ見よがしに何個も積まれていく。馬や牛ならば、到底一台では運べぬ量であった。
練兵場を埋め尽くした兵士や職人たちが、固唾をのんでその光景を見つめていた。鉄と木で組まれた異形の荷車。その心臓部たる魔石機関から、黒い煙が細く立ち上っている。
「おい、本当に動くのか、あれ?」
一人の足軽が、隣の仲間に囁く。
「知るかよ。だが、幻庵様とドワーフの旦那方が作ったんだ。ただの鉄屑じゃねえだろうよ」
その期待と不安が入り混じる空気の中、ドルグリムが機関の前に立った。彼は、まるで気難しい獣をなだめるように、いくつかの弁をひねり、太い鉄のレバーを握る。
「起きろ、鉄の塊! お前の魂を見せてみろ!」
ドルグリムの咆哮に応えるように、機関が腹の底に響く駆動音を上げた。ゴウン、という低い唸りと共に巨体が震え、連結された車輪が、ぎしり、と軋む。
だが、動かない。鉄の車輪がぬかるんだ土を噛むが、その巨体を支えきれずに空転を始める。泥の塊が、周囲に見物していた者たちの顔まで飛んだ。
「くそっ! 動け! この鉄屑がァ!」
ドルグリムの怒声が響く。
「親方! 出力を上げすぎです! 機関が焼き付きます!」
若いドワーフの弟子が悲鳴を上げるが、ドルグリムは聞かない。
「黙れ小僧! 力が足りんのだ!」
その時、幻庵の声が飛んだ。
「待て、ドルグリム殿! 力を加える場所が違う!」
その声は、喧騒を切り裂く、一つの閃きであった。
「何だと、爺様! 邪魔をするな!」
怒りに顔を赤くするドルグリムに、幻庵は杖の先で、無様に泥を掻く車輪を指し示した。
「機関ではない! 道じゃ! この鉄の馬には、馬のための道では足りぬ。鉄の獣のための、鉄の道がいる!」
幻庵は、呆然とする兵士や職人たちを鼓舞する。
「皆の者、力を貸せ! この鉄の馬が走るための、『礎』を築くのだ!」
その号令が、熱狂の引き金となった。
「おうよ! 任せとけ!」
ドワーフたちが、真っ先に動いた。彼らは巨大な槌を振るい、大地を叩き締め、固い地盤を作り出す。
「石だ! 石畳を持ってこい!」
北条の兵たちも続く。彼らは持ち前の結束力で、予備の石材を運び、ドワーフが固めた地面の上に、隙間なく敷き詰めていく。
カン、カン、と響くドワーフの槌音。オーエス、オーエス、と石を運ぶ人間の掛け声。二つの異なる音が、一つの目的に向かう、力強い仕事歌へと変わっていく。
彼らの前に、即席の、しかし頑丈な石畳の道が生まれる。
ドルグリムは、機関の前に戻ると、幻庵に一度だけ、目で頷いた。そして、再び機関に出力を込める。
ギ、ギギ……。
鉄の車輪が、敷かれたばかりの石畳を、確かに掴む感触。
そして、ズズズ……と、大地を削るような重い音を立て、鉄の巨体は、未来へと向かう、その第一歩を、踏み出した。
一瞬の静寂。
それはやがて、割れんばかりの歓声となり、種族の壁を越えて、練兵場全体を揺るがした。
馬も牛もいない荷車が、自らの力で、山のような資材を積んで、動いている。
その光景は、この世界の誰もが見たことのない、常識が覆る瞬間であった。
輸送車は、ゆっくりと、しかし、休むことなく、練兵場を横切り、城壁の普請場所へと、その重い荷を運んでいく。
城の櫓。その石の床が、足元から微かに震えていた。練兵場から響く、地を揺るがす歓声。そして、その中心で、鉄の馬が上げる産声。その光景を、北条氏康と氏政は、言葉を無くして見つめていた。
やがて、氏政が、畏怖の念を隠さぬ声で、父に問いかけた。
「父上……これがあれば、兵糧の輸送が……いいえ、軍の行軍速度そのものが、根底から覆りますぞ」
彼の目は、為政者として、この機械がもたらすであろう、兵站の革命を正確に捉えていた。
だが、父の視線は、その遥か先を見据えている。
「変わるのではない、氏政。我らが、変えるのだ」
氏康の声は、静かであったが、絶対的な確信に満ちていた。
「見よ。あれは、ただの荷車ではない。我らが築く、新たな世の『血脈』よ。この血脈が、大陸の隅々にまで、我らの米を、鉄を、そして法を運ぶ。戦とは、もはや、刃を交えることだけではない。道を制する者が、世を制するのだ」
その言葉を肯定するかのように、練兵場から、再び、割れんばかりの歓声が上がった。
日本の工学、ドワーフの職人技、エルフの理。異なる三つの文化が産んだ鉄の馬は、その足元に、未来へと続く、確かな轍を刻みつけていた。
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