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プロローグ:永禄の神隠し

 

 永禄四年(1561年)、春。


 長く続いた冬の厳しさが、ようやく柔らかな日差しにその座を明け渡した頃。

 相模国、小田原城、その本丸の最も高い櫓には、三人の男が戦の終わりを見届けていた。


 中央に立つのは、この北条家の若き四代目当主、北条氏政、二十四歳。だが、その場の空気を真に支配していたのは、彼の傍らで静かに佇む一人の男――父であり、『御本城様』と尊称される先代当主、北条氏康、四十七歳であった。


 その背中は、背後にそびえる箱根の山々のように大きく、揺ぎない。彼の黒々とした瞳が、眼下に広がる光景を静かに映している。


 城下に渦を巻いていた十万余の軍勢が、まるで退き潮のように東へと去っていく。泥に汚れ、疲れ果てた兵たちが、重い足取りで故郷を目指していた。


 関東の諸将を束ね、「軍神」とまで謳われた長尾景虎――後の上杉謙信――の威信をかけた大遠征は、この小田原城の分厚い城壁の前に、ついに力尽きたのだ。

 三ヶ月。実に九十日以上に及んだ包囲であった。


「……長尾勢が、鎌倉を抜けました。これにて、撤退は確定かと」

 若々しくも、大役を果たした安堵の色を隠せない声が響く。


 若き当主、氏政である。偉大な父の隣で、彼は拳を固く握りしめていた。その目には、自らの代で掴んだ初の大勝利に対する喜びが率直に浮かんでいる。

「大手柄にございますな、父上! これでようやく、民も一息つけましょう!」


「うむ」

 氏康は短く応じる。だが、その視線は勝利に沸く息子ではなく、傍らでもう一人、静かに佇む老人に向けられていた。


 北条幻庵、七十二歳。氏康の叔父であり、一族の知恵袋と頼られる重鎮である。

 彼は皺の刻まれた顔を険しいまま、遠ざかる敵の隊列から目を離さない。


「幻庵殿。そなたは、どう見る」


「は。勝ちて兜の緒を締めよ、と申しますな」

 幻庵は枯れた声で応じた。


「景虎は去りました。なれど、この戦で費やした銭穀はあまりに大きい。城壁も、民の心も、深く傷ついております。本当の戦は、むしろこれからでございましょう」

 その言葉に、氏政はわずかに顔を強張らせる。


 城の外壁には、おびただしい数の矢が突き刺さり、投石による傷跡が生々しく残っている。

 城下では、勝利の歓声が上がってはいるものの、その声には飢えと疲労によるかすれが混じっていた。


 井戸端では、戦で命を落とした夫や息子の名を呼び、涙する女たちの姿も見える。

 これが、勝利の現実であった。


 氏康は、そんな全ての光景をその目に焼き付けるように見下ろし、静かに口を開いた。それは当主の座を譲った息子への、後見役としての厳しくも温かい教えであった。


「氏政。よく見ておくがよい。戦に勝つことだけが、将の務めではない。戦をせずとも民が笑って暮らせる国を作ることこそが、真の勝利だ」


「……はっ」


「民が飢えては、戦はできぬ。この籠城の間、民はなけなしの米を差し出し、兵と共に石を運んでくれた。武士も、商人職人も、農民も、皆がこの小田原の民よ」


「彼らの暮らしを守り、豊かにすることこそ、我ら北条が掲げる『禄寿応穏ろくじゅおうおん』の理念の根幹。ゆめ、忘れるな」


 城下の市場では、一人の商人が空になった蔵の前で算盤を弾いていた。


「やれやれ、味噌も塩もすっからかんだ。だが、命あっての物種よ。明日からまた稼がせてもらおう」

 その傍らでは、戦の間、息を潜めていた子供たちが、土埃を上げて走り回っている。


 彼らの日常が、今まさに戻りつつあった。

 氏康と氏政、それを支える北条家の真価が問われるのは、これからなのだ。


 誰もがそう信じていた。

 この穏やかな春の日差しが、永遠に続くと。



 城下が落ち着きを取り戻して、幾日が経ったある日。


 ――ゴゴゴゴゴ……ッ!


 予兆は、腹の底から湧き上がるような地鳴りだった。

 地震か、と誰もが身構える。だが、それはいつもの揺れとは明らかに異質であった。大地が悲鳴を上げているような、星そのものが呻いているような、冒涜的な響き。


「な、なんだ……!?」

 氏政が狼狽の声を上げる。櫓が大きく軋み、屋根瓦が数枚、音を立てて滑り落ちた。

 幻庵が険しい顔で空を仰ぐ。


「殿、これは……尋常ではござらん! 鳥が……!」

 幻庵の指差す先、空を飛んでいた鳥たちが、一斉に鳴き叫び、狂ったように逃げ惑っている。


 風が、不自然に止んだ。

 そして、空が、染まっていく。


 黄昏時でもないのに、美しい春の青空が、まるで毒を流し込んだかのように不気味な翡翠色へと変色していく。


 異変は、城下の人々も感じていた。


「きゃあ!」

 走り回っていた子供が、地面の揺れに足を取られて転ぶ。商人が、慌てて商品を店の中に引き入れた。誰もが空を見上げ、そのありえない光景に言葉を失う。


「殿! あれを!」

 近習の絶叫に、氏康が西の空へと視線を転じ――絶句した。


 天を衝くほどの巨大な光の柱が、地平線の彼方から、凄まじい速度で迫ってきていた。

 雷光のような一瞬の閃きではない。物理的な質量さえ感じさせる、圧倒的な光の奔流。

 それは太陽を飲み込み、世界から影という概念を消し去った。


「妖術……いや、違う! これは、天地の理そのものが捻じ曲げられておる!」

 幻庵が、己の知識の及ばぬ現象を前に、わななくように叫んだ。


 この未曾有の事態に、若き当主たる氏政に代わり、歴戦の将である氏康が反射的に檄を飛ばす。


「城門を固めよ! 民を落ち着かせろ!」

 だが、もはや手遅れだった。


 次に訪れたのは、音の消失。


 人々の悲鳴も、建物の軋みも、風の音さえも、全てが純白の静寂に吸い込まれていく。

 そして、決定的な浮遊感。


 大地に深く根差していたはずの巨城が、その土台である城下町、幾万の民が暮らす大地ごと、何か巨大で抗いようのない力によって、世界から切り離されていく。


 氏康も、氏政も、幻庵も、己の平衡感覚が崩壊していくのを感じ、思わず床に手をついた。

 光の柱は、ついに小田原城と、その周辺一帯を、完全にその内に包み込んだ。


 窓の外は、もはや純白の光しか見えない。

 それは、神の降臨か、あるいは、世界の終焉か。

 誰もが思考を奪われ、ただ己の身に降りかかる超常の理不尽に身を委ねるしかなかった。


 どれほどの時間が経過したのか。一瞬か、あるいは永遠か。

 不意に、全ての振動と光が、まるで悪夢から覚めたかのように消え去った。

 後に残されたのは、水を打ったような静寂だけだった。


「……終わった、のか?」

 氏政が、呆然と呟く。


 氏康は、いち早く我に返り、刀の柄を強く握りしめながら、ゆっくりと立ち上がった。

 城は、ある。己も、家臣たちも、ここにいる。


 だが、何かが決定的に違っていた。


「……外だ」

 氏康は、ふらつく足で窓辺へと歩み寄った。幻庵と氏政も、それに続く。

 そして、三人の男は、その目に映った光景に、己の知る世界の全てが終わりを告げたことを悟った。

 ない。


 見慣れた相模の海が、ない。

 屏風のように連なる箱根の山々が、ない。

 東へと続く街道も、点在していたはずの村々も、何一つ、どこにもない。


 窓の外に広がっていたのは、どこまでも、どこまでも続く、鬱蒼とした未知の原生林。

 天を突くほどの巨木が天蓋をなし、見たこともない色鮮やかな巨大な鳥たちが、戸惑うように空を舞っていた。


 永禄四年、春。


 難攻不落を誇った小田原城と、そこに暮らす幾万の民は、歴史の表舞台から、忽然と姿を消した。

 後に、人々はこの不可解な集団失踪を、畏怖と謎を込めてこう呼ぶことになる。

 ――永禄の神隠し、と。




 

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