第十四章:豊穣の女神
転移してより、初めての秋が訪れていた。
肌を灼くほどの陽光を浴び、小田原の西に拓かれた新田は、どこまでも続く黄金色の絨毯と化している。乾いた風がその上を撫でるたび、さざ波のような音と、むせ返るような実りの香りが立ち上った。稲穂の一粒一粒が、内側から光を放つかのように輝いている。
その、あまりにも豊穣な光景を、北条氏政は固唾をのんで見つめていた。彼の隣で、妻である黄梅院が、静かに寄り添っている。
「……見事に、実ってくれましたな」
黄梅院の弾んだ声とは裏腹に、氏政の表情は冬の空のように固くこわばっていた。確かに、稲は育った。だが、この黄金が、真に民の腹を満たす『糧』となるのか。偉大な父や叔父たちが武勲や知略で国を支える中、内政の全てを預かる身として、この「食」という役目を果たしきれるのか。その、武勲とは無縁の重圧が、彼の双肩にのしかかっていた。
やがて、運命の収穫の日が来た。
作事奉行の合図と共に、ザッ、と乾いた音が響き、最初の鎌が稲穂の海に沈んだ。だが、次の瞬間、刈り取ろうとした農民の腕が、あり得ないほどの重さに引かれ、呻き声が漏れる。
「な、なんだこの重さは!?」
その声は、一人、また一人と伝染し、やがて、田畑の至る所から驚愕の絶叫となって上がった。ずしりと腕を引く稲穂は、もはや穂にあらず、黄金の棍棒であった。一株に実る米の量は、日の本で見てきた、どの優良な田のそれをも、嘲笑うかのように凌駕している。
「おお……! これぞ、この地の恵みか!」
「これだけあれば、腹一杯、米が食えるぞ!」
それはやがて、歓喜の咆哮となり、大地を揺るがした。その、民の声そのものともいえる地鳴りに引かれ、氏康もまた、幻庵やリシアを伴って検分に訪れる。彼は、自らも一つの稲穂を手に取り、そのあり得ないほどの重さに、ただ目を見張った。
「ほう……。幻庵殿、これは?」
「はっ。おそらくは、この世界に満ちる『マナ』の影響かと。かの力が、我らが持ち込んだ作物の生命力を、異常なまでに活性化させているのでございましょう」
幻庵の推察に、リシアも静かに頷く。
「はい。わたくしたちエルフでさえ、森の植物から、これほど強靭な生命力を感じることは、滅多にございません」
民の歓声が、黄金色の波となって押し寄せる。その声を聞きながら、北条氏康は、ようやく、心の底から安堵の息をついた。綱成という揺るぎなき『武』。幻庵という底知れぬ『知』。そして今、氏政がこの『豊穣』を成し遂げたことで、新生・北条家の礎は、盤石となった。
だが、ふと隣を見れば、その礎たるべき息子の表情だけが、まだ硬い。その視線の先にあるのは、広大な黄金の海ではない。ただ一点、生育が悪く、周囲の輝きから取り残されたかのように痩せた稲穂が揺れる、わずかな区画。
(……民の全てを、平等に救う。その理想の高さこそが、そなたの強さであり、そして、いずれ、そなたを苛む弱さともなろう)
偉大なる父は、息子の完璧主義という危うささえも見抜き、その成長を、静かな、そして、深い眼差しで見守っていた。
◇
夕暮れの冷気が、黄梅院の袖を撫でる。書斎に籠り、眉間に深い皺を刻む夫の背中が、彼女をこの田へと駆り立てた。
日中、夫が立ち尽くしていた、あの痩せた稲穂の一角。彼女はその前に立つと、か細い指先で、力なく垂れる穂に触れた。チクリと、乾いた藁が肌を刺す。
彼女には統治の理など分からない。夫の苦労を和らげたい。この地の民、その赤子の腹を満たしたい。その願いは、祈りという形さえ取らない、魂の渇きそのものであった。
彼女は痩せた稲穂に手を触れ、赤子に語りかける母の声音で、囁いた。
「……お願いです。どうか、元気に育ってくださいな。皆が、あなたたちの実りを待っているのですから」
その無垢な願いが、引き金だった。
彼女の魂に眠っていた慈母の力が、この世界の理と共鳴する。
「――あっ」
黄梅院の手のひらから、温かな光が生まれた。それは太陽の威光ではない。春の陽だまりのような、炊き立ての米の湯気のような、生命そのものの輝き。
光は、彼女の指先から稲穂の芯へと注がれ、金色の脈となって周囲へと広がっていく。枯れ色の茎が青々とした生命の色を取り戻し、萎れていた葉が天に向かって力強く伸びる。そして、空虚であった籾の中に、黄金の粒が、見る間に膨れ満ちていく。
【豊穣の女神】――
黄梅院という器を得て、彼女の魂の本質が、この異世界で権能として開花した瞬間であった。
「……な……」
その光景を、偶然通りかかった氏政は、歩みも忘れ、立ち尽くしていた。
遠く城の櫓。幻庵が、その学究の目を驚愕に見開き、わななく指で光の奔流を指さす。
「なんと……。あれこそは、この星の理そのものを寿ぐ、慈愛の……」
その隣で、氏康は静かに頷いた。その口元には、稀有な、深い満足の色が浮かんでいる。
「……うむ。我が北条の『禄寿応穏』は、武威や知略にあらず。あの女子の、慈愛の心にこそ、真髄があったか」
我に返った氏政は、妻の元へ駆けた。
奇跡の中心で、自らが起こしたことに気づかず佇む彼女の手を、震える両手で握りしめる。
「……ありがとう。お前のおかげだ」
言葉にならぬ想いが、熱い涙となって彼の頬を伝う。数字と格闘した書斎と、妻が奇跡を起こしたこの泥の上。その対比が、彼に為政者としての本当の道を示していた。
◇
その夜、城下は一つの巨大な祝宴と化した。
いくつもの篝火が冬の闇を焦がし、その火の粉は人々の歓声と共に天へと舞い上がる。日本の新嘗祭と異世界の収穫祭。二つの祭りは、誰が教えるでもなく、一つの熱狂の中に溶け合っていた。
広場の中央、湯気が立ち上る巨大な釜から、白い握り飯が次々と人々の手に渡されていく。黄梅院の慈愛が実らせた『女神の米』。一口食んだ屈強な足軽が、その場に崩れ落ちるように膝をつき、天を仰いで涙した。
「……うめえ。ただ、うめえよ……」
その言葉にならない嗚咽が、万の言葉よりも雄弁に、この米の価値を物語っていた。
「これが、氏政様と、奥方様が作ってくださった米か……!」
ドワーフたちは、自慢の地酒の樽を広場に転がし、見慣れぬ人間の盃にも、その琥珀色の液体を惜しげもなく注ぐ。エルフたちは、森の木の実でこしらえた甘い菓子を、はにかみながら子供たちの手に握らせた。
労役を解かれたオークたちも、その輪に加わっていた。彼らは、与えられた特別な食事を、最初は警戒しながらも、やがて獣のように貪り食らう。一人のオークが、エルフの少女から差し出された菓子を、おそるおそる受け取る。その光景を、誰もが当たり前のものとして見守っていた。
篝火を囲む輪から、混沌の音楽が生まれる。日本の祭り囃子の軽快な笛に、エルフの物悲しい竪琴の音が絡みつき、ドワーフの腹の底から響く仕事歌が、その全てを一つの大きなうねりへと変えていく。人々は、言葉も通じぬまま、互いの踊りを真似、手を取り、笑い転げていた。そこには確かな調和と、未来への希望があった。
この『女神の米』は、やがて『陽光米』と名付けられ、北条領の食糧事情を支える柱となる。他国との交易における、最強の切り札の一つともなるが、それはまだ先の未来の話。
今は、この豊穣の夜があった。
北条家の強さが、武威や知略という骨格だけでなく、民を想う『徳』という血潮に支えられている事実。それを、この夜、全ての民が己の魂で感じ取っていた。
そして、その祝宴の中心。黄梅院は、夫の隣で、オークに菓子を渡すエルフの少女の姿を、ただ愛おしそうに見つめていた。自らが起こした奇跡の重さに気づかぬまま、彼女は、目の前の小さな平和の光景に、幸福のため息を一つ、ついた。
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