第十二章:東方の新生
オークとの大戦から一月。
小田原城下には、槌音と活気が戻っていた。
城壁の修復現場では、北条の足軽に混じり、屈強なオークの捕虜たちが黙々と巨石を運んでいる。彼らの働きに応じて温かい粥が配られる光景も、今や日常の一部となっていた。
その日、城の西門を見張る足軽は、ふと森の木々の間に、不自然な揺らぎを認めた。獣ではない。人の気配。だが、それは見慣れた風魔の忍のものでも、森に住まうエルフのものでもなかった。
やがて、一番年嵩の男が意を決したように、一本の木の後ろから、両手を上げたまま姿を現した。敵意がないことを示す、万国共通の仕草。それに続くように、数人の男女が姿を見せる。
頬はこけ、その着物はもはや襤褸と呼ぶべきものだった。だが、その瞳の奥には、消えかけてはいるが、確かに生きることを諦めていない光が宿っている。
足軽は、槍を握りしめたまま困惑した。敵意はない。だが、味方でもない。彼は、すぐさま隣の見張り台へと駆け寄り、声に張り詰めた緊張を乗せて叫んだ。
「西門に、正体不明の者どもが現れた! 武器は持っておらぬ! ……数は、およそ十!」
城の西門は、物々しい緊張に包まれていた。門番の足軽たちが、十数名の難民と思しき一団を取り囲み、槍の穂先を向けている。
「……何者だ。どこから来た」
門を守る足軽頭の、鋭い声が飛ぶ。
難民の代表である老人が、震えながらも一歩前に出ると、その場に崩れるように膝をついた。
「お、お慈悲を……! 我らは、噂だけを頼りに……!」
老人は床に額をこすりつけ、涙ながらに訴えた。
「『森の奥には、鬼のようなオークを打ち破った、力ある領主様がおられる。そのお城では、誰も飢えることはない』と……! どうか、我らにも、そのお慈-悲を……!」
その報せは、すぐさま城下の町奉行所にもたらされた。
書状に目を通した大道寺政繁は、苦々しく舌打ちする。
「氏政様。西門に、また一団が。これで、今月に入って百名を超えましたぞ」
彼は、傍らで地図を広げていた当主・北条氏政に、手にした書状を示した。
「風魔が蒔いた種が、育ちすぎたようですな。受け入れ続ければ、冬を越すための備蓄米が底をつきます。ですが、このまま門前で追い返せば、我らは圧政を敷くレミントンと何ら変わりませぬ。……いかがなさいますか」
氏政は、眉間に深い皺を刻み、腕を組んだ。やがて、彼は決断する。
「――受け入れるべきだ」
その声は、若いが、当主としての覚悟が宿っていた。
「彼らもまた、圧政に苦しむ民。見捨てるは、我らが掲げる禄寿応穏の理念に反する」
「ですが、氏政様」と政繁が食い下がる。
「理想だけでは、腹は膨れませぬ。このままでは、いずれ共倒れに」
「なればこそ、新たな田畑の開墾を急ぐのだ! 彼らは、貴重な働き手にもなる!」
二人の議論は、平行線を辿った。
「……わかった。この件、父上にご裁可を仰ぐ。政繁、すぐに本丸へ参上するぞ」
◇
本丸御殿、評定の間。
氏政と政繁からの報告を受け、玉座に座す氏康は、静かに目を閉じていた。
やがて彼は、息子であり当主である氏政の判断を認め、そして、さらにその先を見据えた大局的な決断を下す。
「――全ての者を受け入れよ」
「父上……!」氏政が、安堵の声を上げる。
「ただし、ただ食わせるのではない。新法度に従うことを誓わせた上で、民として台帳に記載し、仕事と、ささやかながらも土地を与えるのだ。これぞ、我らが故郷で行ってきた、検地と国づくりの基本よ。民が増えるということは、国が、豊かになるということだ」
その言葉に、氏政は、改めて自らの父の器の大きさを知り、深く頭を垂れるのだった。
◇
人間の難民たちが、小田原の門を叩き始めてから、さらに半月が過ぎた頃。
今度は、城門が、活気と興奮に満ちた一団で賑わっていた。
「開門! 開門せい! ドワーフのドルグリム様が、約束の品を持ってきてやったぞ!」
ドワーフの一団であった。先頭に立つドルグリムの背後には、彼が連れてきた十数名の屈強な職人たちと、彼らが引く荷車が並んでいる。
荷車の上には、ミスリル銀の原石や、良質な魔石が、惜しげもなく積まれていた。
「おお、ドルグリム殿!」
出迎えた大道寺政繁に、ドルグリムはにやりと笑いかける。
「おう、若いの。約束は守るのが、ドワーフの流儀でな。それより、例の『サケ』の樽は、どこにある?」
同じ頃、別の門には、全く異なる様子の来訪者が姿を現していた。
十数名ほどの、若者ばかりのエルフの一団。先頭に立つ青年は、風のように爽やかな雰囲気を纏い、門番に、臆することなくこう告げた。
「我らは、シルヴァナールの森より来ました。この城におられるという、リシア・シルヴァン殿と、この城の主君にお会いしたい」
報告を受けた評定の間に、リシアと共に、その青年が通された。
「エルウィン! なぜ、あなたがここに……! まさか、掟を……」
リシアは、その青年の顔を見て、驚きの声を上げた。
青年――“風渡り”のエルウィンは、リシアの幼馴染であり、エルフの若き改革派のリーダーであった。
「リシア。君から、風の精霊が運んできた報せは、全て読んだよ」
エルウィンは、リシアに微笑みかけると、今度は、上座に座す氏康に向き直り、深く、そして優雅に一礼した。
「初めまして、人間の王よ。わたくしは、エルウィンと申します」
「我らは……リシアが伝えた、あなた方の話に心を動かされ、我らが民の掟である『森の禁忌』を破り、この目で確かめに参りました」
「我らエルフの長老会は、変化を恐れ、森に閉じこもることしか考えていない。ですが、我ら若者は、そうは思わない。あなた方の『禄寿応穏』という統治の形が、本当にこの森の未来を照らす光となりうるのか、この目で見極めさせていただきたいのです」
その日の評定を終え、氏康は、一人、櫓の上から自らの領地を見下ろしていた。
東の森からは、圧政から逃れ、安住の地を求めて、人間の難民たちがやってくる。
西の森からは、古い掟を破り、新たな生き方を求めて、エルフの若者たちがやってくる。
北の山からは、新たな技術と酒を求めて、ドワーフの職人たちがやってくる。
そして、足元では、かつての敵であったオークたちが、明日の食料のために、黙々と土木作業に従事している。
(……いつの間にか、随分と賑やかになったものよ)
氏康は、自嘲するように、小さく笑った。
(圧政から逃れた人間、掟を破ったエルフ……。いつの間にか、この小田原は、この世界の様々な『訳あり者』が集う場所となりつつある。それは力となるか、あるいは、新たな災いを呼ぶ火種となるか……)
ただ、生き抜くために、目の前の問題に対処してきただけだった。だが、その結果が、この小田原を、多様な種族が集う、大陸でも他に類を見ない、異質な輝きを放つ場所へと変えつつあった。
それは、まるで、暗い夜空に、一つ、また一つと星が生まれ、やがて、一つの星座を形作っていくかのようであった。
新生・北条領。
あるいは、「オダワラ」と呼ばれるようになった、この東方の地。
その存在は、もはや、ただの遭難者たちの集落ではない。
大陸の秩序を、良くも、悪くも、大きく塗り替える可能性を秘めた、東方の新星として、今まさに、その産声を上げたのである。